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やはり彼女は天才だった。『紫式部日記』

出だしからいきなり鷲づかみだった。
気づけば心を奪われている。
いや、もう本当にすごい。
この年になってようやく紫式部の威力がわかった。
清少納言と並び平安文学の二大巨頭として名高い彼女が『源氏物語』の作者であることは子どもでも知っている(たぶん)。
けれどその『源氏物語』の作者であるが故に私は敬遠してきた。
禅に傾倒していた私にとってその世界は「めんどくさ!!」の一言に尽き誰がどうしたこうしたなど、まったく関心が抱けなかったためだ。
だからなぜ『源氏物語』が江戸時代の女子教育に必要とされていたのかもわからなかった。
もっとも、武家では異を唱えることも多くかの鈴木大拙先生も「読めたものではない」と仰せになっており、それをいいことに見向きもしなかったのだ。
が、三年前に事情が変わってきた。詳しい説明はここではしないが武家の女性一辺倒だった私が公家の世界に入っていくようになった。(ついでなから、なぜか来年は平安時代の女性について連載を書くことになっている)
そんなこんなで紫式部を、しかも彼女の日記を紐解いてみたいと思ったのだ。世に言う『紫式部日記』だ。
何しろ初心者なわけだから講談社学術文庫から出ている宮崎荘平先生による全訳注を選んだ。
現代語訳された文章だけではその世界観がまったくわからない。
なんといっても当時の文章は、言葉そのもの音そのものが美しく、そこに醍醐味がある。その点、この本はまず原文があり次に現代語訳があり、さらに語釈そのうえで解説と続いていく。
式部の日記は次の文ではじまる。


秋のけはひ入り立つままに、土御門殿の有様、いわむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。


「秋のけはひ入り立つままに」のあたりでもう私はやられてしまった。
その後に続くたおやかに流れゆく文体とそれが紡ぎ出す情景とが、見たこともない宮廷世界をなぜか「懐かしく想い出させる」ような心情を抱かせる。
彼女は、やはり天才だったのだ。
この時代、世界中を探しても女流作家はいない。
けれど日本には、先に挙げた清少納言のみならず日記という形式ではあるにせよ際立つような文章を綴った女性たちが何人もいる。
それはもはや固有の文学世界を体現しており魅了される人は後を絶たず、日本のみならず世界中に研究者がいる。
私もすっかり魅了された一人としてしばらくは、彼女の世界にのめり込んでしまいそうだ。
今、寝る前に少しずつ読み進めている。
灯りのもとで頁をそっと開くとき次元を越えて親友に会いに行くような心地がする。
近ごろの本は、現実に即しているかもしれないが一日で読み終えてしまうようなものばかりで私にとってはつまらない。
お釈迦様の時代から言い尽くされていることを表現を変えたり言葉を換えるなどして踏襲しているようなところがあるがものの、見方が浅く、第一風情というものがなく、いったい人間としての感受性はどこにあるのだろう?とがっかりすることが多い。
そうした中で、「親友に会いに行く」ように思えるような本は貴重でしかない。
こういうものを手に取らないと人間は、もしかしたら生きた化石のようになるかもしれない、などとさえ思っている。


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