見出し画像

11 梅すだれ 肥後の国

 浜次郎の家には妻のタイと、三人の子どもがいた。上から12、10、6歳の子どもたちに「さる!さる!」と慕われたものだから、猿彦は森での一人の生活とは一変して騒がしい毎日を過ごすようになった。タイも見知らぬ猿彦を怖がることもなく、まるで初めから家族であるように接したし、村の人たちも「山から下りて来た猿」がいると、珍しがりながらも温かく迎え入れた。

「明日から海へ出る。猿も来い!」 

 浜次郎に言われて、猿彦は初めて船に乗った。そして東シナ海を二か月もの間漂ったのだ。

 浜次郎は普段有明海で漁をしているが、冬は近隣の村の者たちと一緒に遠出をする。島原の乱の前は年に四回は出ていたが、乱後は二回しか許可が下りなくなっていた。

 外国からもたらされた異教、切支丹の反乱であったことから、外へ出ることも中へ入ってくることも幕府から厳格に禁止されていた。

「それでもよ、殿様もうまい魚は食いたいとよ!」

 そう言って笑う漁師たちに、年に二回だけ遠海での漁が認められていた。

 一隻に十人乗れる大型の船五隻で有明海を出て、言葉の如く果ての見えない大海で、いつもの魚よりもっと大きな魚をたくさん獲るのだ。

 獲った魚は船の上ですぐにさばく。腹を開いて内臓を取り出して塩を塗り込む。そして船上へ並べて干すのだ。内臓も農家が肥料に欲しがるから捨てずに取っておく。猿彦にはこの魚の匂いがたまらなかった。

 牛糞には慣れていたが、魚の匂いなんて初めてと言うこともあって、そのあまりの臭さは鼻が利かなくなるほどだった。

 しかし、そんな猿彦が得意になれることがこの船の上にはあった。それは魚をさばくこと。石丸からもらった黒曜石の石刃で、浜次郎も驚くほどにきれいに大きな魚をあっという間に捌いたのだ。山で鳥や動物を捌いていた猿彦にはお手の物だった。その手付きに「猿、やるな、すごいと!」と道具を使う猿をみんなが褒めはやした。すっかり気分を良くした猿彦だったが、残念なことに、その得意の捌きを披露できないくらい船に酔ってしまった。

 昼も夜も一日中死んだ魚の臭さの中でゆらゆらと揺られて、気分が悪くて仕方ない。仕舞いにはゲーゲー吐く始末。

「しっかりしろ!そのうち慣れると。」

と励まされたが、猿彦には水の上は地獄だった。山で生まれ育った猿彦なのだから、山を越えたところで生きる場所などないのだと、海から言われているように思えた。

 ある日、五隻で囲んで追い込んだ網に大きな魚が何匹もかかった。それを一斉に引き上げていたとき、なんと猿彦は海に落ちてしまった。

 息もできずに海の底へ落ちていく猿彦はあまりの苦しさにもがいた。しかしどれほどもがいても浮き上がることなどできなかった。水中に入ったのは初めてで、泳ぐことなんてもちろんできなかった。

 両足両腕を水圧と戦うように動かそうとしても、思うようには動かせない。

 泡が猿彦を隠すように立ちこめた。水の上が太陽でキラキラと輝いているのが泡に重なって見えなくなっていく。

 もうあそこへ戻ることなんてできない。「死」が目の前をちらついた。

(おいはあの時死ぬはずだった。)

 山之影でのことがすべて走馬灯のように頭を駆け巡った。兄ちゃんたちとケンカして父さんに殴られたことやら、母さんがフォロウするように温かい握り飯を食わせてくれたことやら、生まれてからの些細なことすべてを鮮明に追体験した。森に入り浸り、感染症で家を追い出され、そして森さえも逃げ出したところで、猿彦はこう思った。

(おいも逃げずに死ねばよかったと!)

 山から逃げたって、やっぱり死ぬ身なのだと思い知らされた。しかし、息のできない苦しさの中で、生命力がうごめいた。突き動かされるようにめくら滅法、手と足を動かし続けた。生きることを諦めることなど出来なかったのだ。

(死にたくない!おいは死にたくないと!)

 最期の力を振り絞って足掻あがく猿彦に、幸運にも浜次郎が気づいて飛び込んで来た。

 猿彦を抱き抱えて水中へ引き上げようとするが、足掻き続ける猿彦をうまくとらえられなかった。それに気づいた船の者たちは呆れて怒鳴った。

「猿は泳げんとか?!動くな!浜次郎までおぼれっと!」

 猿彦は観念するように助けに来てくれた浜次郎に身を委ねた。するとすぐに息が楽になった。水中を脱したのだ。光り輝く太陽が見えた。

(まぶしいと・・。)

 また助けられた。石ちゃんに続き、今度は浜次郎に助けられたのだ。

(生きとると。山之影のみんなは殺されたというのに、おいはまだ生きとると!なんでじゃ?!)

 猿彦は助けられた喜びよりも、死ねない自分に自責の念を覚えた。村のみんなを裏切るように逃げ出して、海の上にさえ生きる場所などないと言うのに、まだ生きたいと心の底から思ってしまう。そんな自分は悪い奴だとしか思えなかった。

 船上で自己嫌悪に泣く猿彦であった。しかしそれに気付く者などいなかった。

 この日は今までにない大漁だったのだ。漁師たちは威勢よく声を合わせて網を引き揚げていく。その声は、あの石ちゃんの叫び声「逃げろ!」と重なった。どちらも血気盛んに生きる者の叫び声。

 この声を聞きながら、猿彦は船床にうずくまり涙にくれたのだった。


つづく


次話


前話


第一話

 

 

 

 

小説「梅すだれ」を連載中です!皆様の支えで毎日の投稿を続けられています。感謝の気持ちをパワーにして書いております!