自然と交わる
休日は、気になっていた自然の風景を見に行った。
最近興味があるのは、「観光スポット」と調べて出てくるような所ではなく、かろうじてグーグルマップには載っているが、手入れされているのかどうかも分からない、データが10年くらい前から未更新のような所。
「観光スポット」は、最近とくに商業化が激しく、自然の顔をした都会とさえ思える。
そんなこんなで、山をひとつふたつ越え、湖のような場所へ来た。
どうやら、山から流れてきた川の水が、自然に溜まった池らしい。
ところどころ湿原のようになっており、池を一周できる木道がある。
不必要に大きい東屋や、道中は行きにくい割に停めやすい駐車場を見るに、昔こそ人は多く来ていたのかも知れない。
そこで見た人は、草刈りに来たという、管理を任されているであろう陽気なじいさんだけだった。
池のすぐそばまで樹林が茂っており、風の吹かないときは、神秘的な水鏡を拝むことが出来る。
木道を歩いていると、ところどころに、冬の凍てつく寒さの中に葉を落とした木が見える。
池の中から生えてきており、その木が生きているのか死んでいるのか分からない。
なぜかその枯れ木に強く惹きつけられ、しばらく見ていると真正面から太陽が昇ってきた。
凍えて立ち尽くすだけで、人を寄せ付けない雰囲気さえ醸し出していた枯れ木が、陽光によって突然フレンドリーになったように見えた。
このドラマを見届けて歩を進めると、これまた池から健全に伸びている木に向かって直撃している無造作に倒れた別の樹木の様子を見て、完璧な感動から不完全な現実に戻された。
だんだんと文明化の足音が聞こえてくる。
目の前には人が建てた神社や、元来た駐車場が見えてきた。
文明人らしく、そのあとはお決まりのコーヒーブレイクにした。
極寒の中、熱湯を沸かして淹れるコーヒーは、また一段と体と心を温めてくれたのだった。
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今朝は、まだ月が見えている頃に外へ出た。
くっきりと見えている割に空はもう青々としていて、夜と朝の本当の境目を見ているようだった。
2週間は手入れしていない髭のように、ぼさぼさに伸びた常緑の街路樹の群れの間からは、錆びついてもなお現役の駐輪場が見える。
これは私が生まれた頃から、きっと立ち続けている。
街に暮らしていても今の状態のように、自然と遊んでいる感覚は掴めるが、しばらくするとまたその感覚も見えなくなるだろう。
その感覚をどこかへ置いてきぼりにした人が、年々多くなっているように思える。
だからこそ、隅に少し映る自然ではなく、視界全てを埋め尽くす大自然と交わる時間は、少なくとも自分には定期的に必要だ。
その中には突発的な刺激(何かの死骸の発見や鳥の威嚇)はあるけれど、それは単調で穏やかな風景に加えられたアクセントに過ぎず、怖くもないし疲れない。
そう考えると尚のこと街中には、慢性的な刺激が多すぎて、それに怖いし疲れるから、そんな様相が頭をおかしくさせるのだろう。
自分の人生だから、主人公は自分だが、植物や昆虫などの自然達には、もう自分を袖に追いやるくらいには人生の舞台に出て来て欲しい。
追いやられることで、謙虚さや畏敬の念が生まれてくる。
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