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【全文公開】「弘法大師と私」(2021年)

『月刊高野山』2021年2月号掲載

 大師号は亡くなられた高僧に贈られる諡号(しごう。おくり名)ですが、「お大師さま」といえば弘法大師を指すくらい、弘法大師は日本人に親しまれ、尊敬されてきました。近年は、「日本の空海」からさらに「世界の空海」になりつつあります。
 新型コロナの流行の前は、世界中から多くの人が高野山を訪れていました。それも単なる観光ではなく、宿坊に泊まり、朝の勤行に参加し、阿字観を体験して、弘法大師の教えに触れたい、自分も体験してみたい、という人が増えていたのは、ご存じの方も多いと思います。
 しかし、弘法大師の存在は広く浸透していますが、では具体的にどういうことを説かれていたのか、ということは、そのお名前に比べ、あまりよく理解されていないように思います。
 弘法大師の教えが深遠であるとか、華麗な漢文が、現在の感覚では装飾過剰で意図を取りにくいということもあるでしょうが、それよりももっと根本的な問題があります。
 現在の私たちが学んでいる仏教の説明は、明治時代にさまざまな知識や技術を西洋から取り入れた際に、当時のヨーロッパの仏教研究を取り入れるところからスタートしたもので、伝統的理解とは基本発想が異なります。
 仏教の経典は多く「如是我聞(にょぜがもん。私はこのように聞きました)」からはじまります。それは経典の言葉が、一神教のような、誰もが例外なく従わなければならない教義ではないことを示しています。仏教には膨大な経典がありますが、それは伝統的には対機説法(たいきせっぽう)、釈尊が相手に合わせて異なる教えを説いたことで説明されていました。
 近代的な仏教研究は新たな知見をもたらしましたが、前近代の高僧は、それとは異なる伝統的な仏教理解に基づいて教えを説かれているのです。
 私自身、学生時代に数名の友人と共に弘法大師の教えを読もうとしたことがありますが、正直、何一つわかりませんでした。
 弘法大師については苦手意識を持ち、その後、今の捉え方では仏教はわからないと、ご縁があって、チベットの先生方から伝統的な方法で教えを受けるようになって、約二十年が経ちました。
 数年前、必要があって、久しぶりに『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』を手にとっておどろいたのは、かつて何一つわからなかったのが、弘法大師が何をおっしゃりたいのかが伝わってくる気がしたことです。
 伝統仏教で、さまざまな異なる教えがどういう関係にあり、どのように全体を形づくっているかを理解することは容易ではありません(弘法大師も『三教指帰』で若き日のご自分を投影した仮名乞児(かめいこつじ)にそのことを語らせています)。
 チベットの伝統でも、理解には十数年の専門的な学習が必要とされています。
 その全体像が、弘法大師の教えで見事に示されており、私たちにとってはバラバラのジグゾーパズルのピースのような教えーー倶舎論(くしゃろん)や唯識(ゆいしき)や中観(ちゅうがん)、般若心経や法華経や華厳経が、密教を頂点として、少しのすき間もなく、ぴったりと組み合わさっていたのです。
 その見事さに驚嘆するとともに、なんとかしてそのことを他の人とシェアしたいと思いました。
 日本人がヨーロッパ人の仏教研究を取り入れたのとは対照的に、西洋では、仏教が自分たちの考えていたようなものではないことが気づかれるようになってきています。
 私たちは欲しいものを手に入れ、嫌なものを排除することで幸せを手に入れようとしていますが、そのやり方ではどこまで行っても真に満たされることはない、釈尊が説かれたのは真実だ、と痛感し、瞑想によって心を変えたいと、仏教の実践に関心を持つ人が、世界中で増えているのです。
 弘法大師の十住心(じゅうじゅうしん)の教えは、その現代人の必要とする伝統仏教の全体像を一冊で示してくださっている、これは弘法大師の私たちへのかけがえのない贈り物だ、そう感じました。
 幸い、ご縁に恵まれて、『空海に学ぶ仏教入門』ちくま新書を出版することができました。これは私の名前で出ていますが、私の弘法大師解釈、研究成果をしるしたものではなく、弘法大師のお言葉にそって、それを現代人にもわかるように説明したもので、私が実際にやっているのは、通訳や解説者の仕事です。

 執筆のあいだ、毎週のように東京にある真言宗のお寺に通い、裏山の八十八ヶ所霊場をまわって、どうか私が教えを間違えることなく伝えることができますように、弘法大師のお仕事のお手伝いが少しでもできますように、と祈りつづけていました。
 弘法大師が高野山で万燈会(まんどうえ)をはじめられた際の有名な願文があります。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃(ねはん)尽きなば、我が願いも尽きなん」。

 すべての生き物が苦しみから解放されるまで、私の願いは決して終わることがない。この弘法大師の誓いは、今を生きる私たち一人一人に向けられています。
 世界中から奥之院に人が集まるようになったのは、無意識的にではあれ、他ならぬお前を苦しみから救うのだという誓いを感じ取る人が増えてきたのだと思います。

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