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【全文公開】謎解き『中論』(2012年)

『チベット文化研究会報』2012年7月号・10月号(第36巻第3号・第4号)
(以前書いたもので、今読みかえすと不満な点もありますが、勉強会の参考資料として)

 ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』は古来名高いですが、難解なことでも知られています。そもそも誰に何のために説いた書なのかということすら、意見の一致をみませんし、伝統的理解においても大きな食い違いが見られます。今回は、チベットで最も重視されているチャンドラキールティの註釈『明句論』(和訳・奥住毅『中論註釈書の研究』)を手がかりに、その謎のいくつかについて考えていきたいと思います。

『中論』のわかりにくさ―一章を例に

 『中論』第一章は、「もろもろの存在は、どこにおいても、どのようなものでも、自から、また他から、また〔自と他の〕両者から、また無因から、生じたものとして存在することは、決してない」(1偈)という断定的なもの言いから始まります。それに対論者が「もろもろの縁は四種である。因〔縁〕、所縁〔縁〕、等無間〔縁〕、そしてまた増上〔縁〕である。第五の縁は存在しない」と疑問を投げかけ、それに答える形で論が進みます。この3偈は『明句論』では2偈におかれ、対論者が自から・両者から・無因からの否定については同意するものの、仏教の説く縁起は他から生じるではないか、と疑問を投げかけたものと解釈されています。しかしそもそも、何で存在が自から・他から・両者から・無因から生じるか生じないかが問題になるのかは、一章だけを見てもよくわかりません。
 十二章では、苦が自から、他から、両者から、無因から作られたものであることが否定されています。もし苦が自から生じたものであったり、他から生じたもの、その両者、無因から生じたものであったたら、苦を滅することは不可能になってしまいます。そこで、苦しみとその原因とそれを取り除くことによる苦しみの消滅とそれに至る実践(四聖諦)を説いたという仏教の根本に、このことが関わることがわかります。
 『中論』一章では、対論者が挙げた四縁のひとつ、因縁が成り立たないことについて、「ものは、有としても、無としても、有でありかつ無としても、生ずることはない。そのさい、そのようである以上、生じさせる因が、一体、どうして妥当するであろうか」(7偈)と説かれますが、本来、これはなぜ有・無・有かつ無として生じることがないのかを言わなければ、論になりません。有の立場と無の立場の両者を否定するのが、阿含経典に説かれている釈尊の教えであることが言われるのは、十五章においてです。
「およそ、自性と、他性と、存在と、非存在とを見る人々は、仏陀の教説において、真実を見ることがない。『カーティヤーヤナへの教え(教迦旃延経)』において、存在と非存在とを正しく知っている世尊によって、有ると無いという二つは、ともに否定された。」(6、7偈)
 『中論』一章は、「結果は、縁から成立したものとして、〔また〕非縁から成立したものとして、存在することはない」(14偈)と締め括られるので、説明が十分でないこともあって、読者の多くはナーガールジュナは虚無論の立場にあると思うのではないでしょうか。四章で「現象する物質に関しては、どのような諸分析的思考をも考えるべきではない」(5偈)、八章で「行為者は行為に縁って〔起こり〕、また行為はその行為に縁って起こる。それ以外の成立の原因をわれわれは見ない」(12偈)と説かれ、二十四章で「二つの真理にもとづいて、もろもろの仏陀の法の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理と、また最高の意義としての真理とである」(8偈)と説かれるように、ナーガールジュナは二諦論の立場から論じていて、一章の否定の連発は、勝義において、分析すると何も実体的なものを見いだすことはできないということであり、何も分析を加えない世俗においては此縁性は否定されていないことがわかりますが、それは先に読み進んでの話です。
 『中論』は、空の思想を説いた書であるとか、部派の仏教理解を批判した書であるとか言われますが、もしなんらかの主張をした書や論争の書であるならば、このような意図がわかりにくい論のはこびは、欠陥としかいうことができません。実際、中観派を虚無論者と見なす考えは、仏教内部にも長く存在しました。

『中論』はそれ自体で完結した論か?

 チベットの伝統では、『中論』について、帰謬論法として読み解くブッダパーリタと、論証式を導入したバーヴァヴィヴェーカの解釈の対立があり、チャンドラキールティがブッダパーリタを支持して、中観帰謬論証派が最高の見解とされた、と言われます。しかし、帰謬論証とは、実際には、相手の論が相手が望まない結論、たとえば恒常論や虚無論に陥ることを示したら、そこで論は終わるのであって、なぜ虚無論はだめなのかが、積極的に論じられることはありません。ナーガールジュナと対論者は共通の基盤を持っていて、その共通の前提自体が問題とされることはないのです。
 『中論』がナーガールジュナの代表的な著作であることは間違いないのですが、ナーガールジュナの仏教理解の全体像がそこに示されていると考えることはできません。
 チャンドラキールティの解釈法は、当時のインドにナーガールジュナの他の著作として伝えられていたものからナーガールジュナの仏教理解の全体像を復元し、そこに言葉を超えた境地への導きの書として『中論』を位置づけるものでした。

他のナーガールジュナの著作の内容と『中論』

 ナーガールジュナが南インドの王に宛てて書いたとされる『宝行王正論』では、文法学者の喩えで、文法学者が初心者にはアルファベットから教えるように、釈尊は相手に合わせて異なる教えを説いたことが説かれています(四章94~96偈)。経典に説かれている教えを直ちに釈尊の主張と見なすことはできないのです。
 『六十頌如理論』では、「すべての過誤が生ずる根拠である無を、ともかくすでに排除しているとしたら、正理をもって有をも排除しなければならぬ汝はそれを聞け」(2偈)と、因果応報を否定する虚無論が悪事をなして悪趣に生まれる否定すべき論であることは部派の仏教理解に立つ対論者との共通理解であること、議論となるのがなんらかの実体的なものを認めるか否かであることが示されています。
 同じ『六十頌如理論』に、「勝利者たちは目的をもって「私」(我)や「私のもの」(我所)と説いているように、存在の群(蘊)、構成要素(界)、知覚の場(処)などを目的をもって説いている。」(33偈)とあり、たとえば説一切有部が無常や無我について、五蘊や十二処、十八界は実体だが、それによって構成された私は実体でなく無常であると考えたのに対して、ナーガールジュナは一切の実体的なものを認めるべきでないと説いていることがわかります。
 なぜ実体を認めることは否定されなければならないのでしょうか。それは、感覚が捉えた通りのものを実体として捉えると、それに対してよいと捉えたものには貪り、わるいと捉えたものには瞋りといった煩悩が起こるからです。
「愚か者(凡夫)は存在に不変の実体(我)を考え、あるとかないとかと倒錯する誤りのために煩悩に支配されるから、自らの心によって欺かれる。存在に通じている人たちは、存在は無常であり、欺く性質があり、空虚であり、空であり、無我であり、したがって寂離であると見る。・・・迷いによって盲目となり、渇愛の流れに従う世人と、渇愛を離れた善き人である智者たちが、どうして同じであろうか。」(同24、25偈)
「仏陀の道によってすべては無常である、と言う人々が、論難をもって存在に愛着していることは奇異である。」(41偈)
 議論の構図が明らかにされるのは、『中論』では、十七章になってです。それまでの解釈(部派)が腐心したのは、因果応報と無常や無我をどう両立させるかで、業が果を生むまで存続しているなら常住論になってしまうため(6偈)、それを回避するために、心相続(心の連続性。7~10偈)や不失法(善悪の業一つ一つに生じる債権のようなもの。13~20偈)など、様々な説明が考えられてきました。それに対してナーガールジュナは、業も行為主体も果報も何ら実体的なものではなく、あたかも神通力で作られた化人がさらに他の化人を幻出するようなものだと説いています(31、32偈)。

教えの階梯と『中論』の位置づけ

 釈尊が一律の教えを説かなかったのは、一切が実体が無く空であることの理解のしがたさ(『中論』二十四章12偈、『宝行王正論』一章73偈、二章18偈)ゆえです。
 階梯的な教えは、『中論』では十八章の「もろもろの仏は我〔が有る〕とも仮説し、我が無い(無我)とも説き、いかなる我も無く、無我も無いとも説いている」(6偈)と言う言葉で示されています。
 釈尊は、その果報を考えずに悪をなす者には自業自得、すなわち我があると説き、煩悩を抑制することができる者には、実在していることを疑わない「私」は、では一切法(五蘊・十二処・十八界)のどこにあるか調べてみなさい、と説かれました。重要なのは、そうやって探してみてどこにもこれが「私」だと示すものが見つからないことを理解した時、「我」があると思っていたからそれに対して「無我」を説いたのであって、「我」がないことを真実理解したら、「我」がないのだからその対立項の「無我」もないことになるということです。この境地が主題的に説かれているのが大乗経典です。
 この階梯は、『宝行王正論』では繁栄から至福へという形で示されています。私を実体視して疑わない者に対しては、不善をおこなわず善をおこない、瞑想としては一点集中の止の瞑想をおこなうことが説かれ、それによって善趣(人・天)に生まれることを目指すのが繁栄の法です。それができるようになって、では「私」はどこにあるかと探して見つけることができないことを悟った境地が、輪廻から解脱した至福の法ですが、ナーガールジュナはその境地を、陽炎を水と思ってそこに行って水がないことが分かった時には、水がないという思いからも解放されている、と説いています(『宝行王正論』一章52~57偈)。

ナーガールジュナは空性を直接体験した聖者

 『中論』では、何かしらの実体を想定する対論者に対して、「ない」が連発されますが、それはナーガールジュナ自身の主張ではなく、有論者に対する対治の教えだ、というのがチャンドラキールティの理解です。このことは、『廻諍論』でも「私は何かを否定するのではないし、また否定されるものが何かあるわけでもない。だから、私が否定する、という君の抗議は君の捏造である」(63偈)と説かれています。「諍いのない心の偉大なる人々には主張はない」(『六十頌如理論』50偈前半)、仏陀自身は主張を持たないというのが、ナーガールジュナの理解です(『スッタ・ニパータ』などで釈尊により説かれている)。
 しかし、このことを言いうるためには、ナーガールジュナも実際に水がないのを確かめた、すなわち空性を直接体験した聖者である必要があります。釈尊がナーガールジュナの出現を予言したとされるのが大乗経典の『楞伽経』で、そこではナーガールジュナが有無の見を破して無上乗を説き、歓喜地(空性を直接体験した菩薩の十地の初地)を証して安楽国(極楽)に赴くことが説かれています。チャンドラキールティは『入中論』で、なぜナーガールジュナの仏教理解に従うべきかについて、釈尊の教えは対機説法であり、言葉を超えた境地を自身が体験している聖者であるナーガールジュナの理解に従うべきだとして、この『楞伽経』の説を引用しています(六章3偈自註)。
 この説は中国の吉蔵『三論玄義』、日本の空海『弁顕密二教論』、親鸞『教行信証』でも言及されており、インド・チベット・中国・日本で共通して、ナーガールジュナの仏教理解に依拠する根拠として重視されたものです。
 実際、『廻諍論』でナーガールジュナは「もし私が、知覚その他(の認識方法)によって何かを認識するとしたら、私は肯定的に主張したり、否定的に主張したりするであろう。けれども、それがないのだから、(君の言うことは)私への非難にならない」(30偈)と説いており、空性を直接体験して実体視を離れた聖者の境地にあると考えなければなりません。

十二支縁起と『中論』

 もうひとつ、チャンドラキールティの『中論』解釈の特色として、ナーガールジュナの自註としてチベットに伝わる『無畏論』や漢訳『中論』の青目註などでは、二十五章までを大乗の徒を導くための論、二十六・二十七章は声聞の徒を導くための論と、内容と対象を分けて捉えているのに対して、二十六・二十七章を本文に位置づけていることが挙げられます。
 『中論』の漢訳者の鳩摩羅什が訳した『龍樹菩薩伝』には、龍樹没後百年とあり、これは学問的にナーガールジュナの活躍年代を推定する大きな手がかりになっています。『無畏論』が実際にナーガールジュナの自註であるかについては否定的な研究者が多いですが、内容的にブッダパーリタ註に先行するもので、チベットに伝わった理解の最も古い段階を示すものです。二十五章までと二十六・二十七章をわけるのは、おそらく『中論』が著されて百年以内に成立した、きわめて古い解釈ですが、『中論』やナーガールジュナの他の著作の内容を考えると、支持できません。
 二十六章は十二支縁起の順観と逆観、二十六章は釈尊が問われて答えなかったとされる(十四無記)、世界は有限か無限かなどの見解を批判した章で、これらは阿含経典でセットのようにして説かれているものです。『中論』二十五章は涅槃の考察で、その最後は「〔涅槃とは〕一切の得ることが寂滅し、戯論が寂滅して、吉祥なるものである。仏陀によって、どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない」(24偈)と締めくくられています(大乗経典の『如来秘密経』に説かれている)。その直後に阿含経典で釈尊が説いた教えが述べられているのですから、二十五章までが大乗経典に依拠した論、二十六・二十七章は阿含経典に依拠した論と、分けて捉えるのはある意味自然かもしれません。
 しかし、その解釈は成り立ちません。十五章で釈尊の立場が有と無の両者を超えたことものであることを示す教証として引用されているのは阿含経典の『カーティヤーヤナへの教え(教迦旃延経)』で、これは『中論』の中で経典名を明記して引用した唯一の箇所です。

十二支縁起と『中論』(承前)

 ナーガールジュナの他の著作(『因縁心論』『宝行王正論』『勧誡王頌』『空七十論』など)では十二支縁起が重視されており、また、その理解は、十二支を煩悩→業→苦(としての生)のサイクルとして捉えるもので、これは『十地経』や『稲竿経』といった大乗経典で説かれているものです。『中論』二十六章も、「およそ、「無明」に覆われた者は、再生に導く三種の諸「行」を、みずからなしとげ、それらのもろもろの行為(業)によって、〔かれは〕、生存の場所(趣)におもむく」(1偈)と、十二支縁起を煩悩→業→苦(としての生)のサイクルとして捉えています。それは十八章でも「業と煩悩とが滅すれば、解脱が〔ある〕。業と煩悩とは、分別から〔起こる〕。それらは、戯論から〔起こる〕。しかし、戯論は空性において滅せられる」(6偈)と、論の前提になっています。
 また、二十七章では、過去や未来との「私」の連続・不連続が議論されていますが、それは十六章など前の章でも同じ議論がそのまま用いられています。
 ダライ・ラマ法王は『中論』について、二十六章・十八章・二十四章の順に読むと理解しやすいと説かれていますが(『ダライ・ラマの「中論」講義』)、内容的には二十六・二十七章は、二十五章までに先行し、その理論的前提となっているものなのです。

『中論』の構成

 では、なぜナーガールジュナはこのような構成にしたのでしょうか。ひとつには、阿含経典に基づく二十六・二十七章こそが仏教的には本文で、二十五章まではそのナーガールジュナによる註解というべき内容だからだ、ということがあるかもしれません。しかし、それだけではないように思います。
 『中論』一章で対論者が挙げた四縁のひとつ、増上縁の否定で説かれている「自性の無いもろもろの存在には有性は存在しないから、この「これが有るときにかれが有る」ということ(増上縁)はどうしても成り立たない」(10偈)の、「これが有るときにかれが有る」は、十二支縁起の順観を要約した言葉とされているものです。これを十二支縁起の否定ととってしまっては、『中論』にナーガールジュナが仕掛けた仕掛けにはまってしまい、正しい理解に至りません。
 そもそも、『中論』のような論が説かれる必要があったのは、釈尊は言葉を超えた境地に人々を導くために教えを説いたにも関わらず、涅槃にはいられた後にそれが経典として編纂され、その言葉が釈尊の説こうとした思想だと、誤って考えられたからに他なりません。ですからナーガールジュナは『中論』冒頭で、五蘊はない、六界はない、と阿含経典に説かれている諸法を「ない」「ない」と否定していき、しかしそれは虚無論の主張ではなく、「ある」という誤った捉われから相手を解放するための論なのです。ですから、「空であることとはすべての見解の超越であると、もろもろの勝者によって説かれた。しかるに、およそ、空性という見解をいだく人々〔がおり〕、かれらは癒し難い人々であると、〔もろもろの勝者は〕語った」(十三章8偈)と、空性を見解として持つことは否定されます。
 チャンドラキールティの解釈によれば、そうやって経典で説かれているから諸法は「ある」という対論者の主張がことごとく打ち砕かれ、では、真実とはどのようなものでいかにして入るのか、と聞き返されてナーガールジュナが答えたのが、十八章です。そこでは「もしも我が〔五〕蘊そのものであるならば、生と滅とを持つことになるであろう。もしも蘊から異なるものであるならば、蘊の特質(相)を持たないことになるであろう」(1偈)と、五蘊が私か、五蘊を離れた私があるか、ということを考えることが求められ、そうやってどこにも「私」を見出すことができないことを真に発見した時、「私」(我)が成り立たなければ「私のもの」(我所。私が私だと捉えている五蘊)も成り立たず、それこそが解脱の境地とされています。それは言葉で指し示すことができず、自分で発見するほか無い境地です。
「他に縁って〔知るの〕ではなく(みずからさとるのであり)、寂静であり、もろもろの戯論によって戯論されることがなく、分析的思考を離れ、多義でないこと、これが、真実〔ということ〕の特質(相)である」(9偈)
 このあとは新たに挑発的な論が仕掛けられることはなく、まとめ的な内容になり、二十三章の、一般には無常・苦・無我・不浄を誤って常・楽・我・浄と捉えることを顛倒と言いますが、常・楽・我・浄が成り立たなければそれの反対項も成り立たないから、無常・苦・無我・不浄も顛倒なのだという論も、もしこれまでのことが理解できていれば、納得いくでしょう。
 二十四章では、もし一切が空であるなら、生も滅も存在せず、四聖諦(苦・集・滅・道)が存在しないことになり、修も証も成立せず、四向四果の聖者も三宝も存在しないことになり、世間の言語習慣も否定することになるという対論者対し、それは空の効用(チャンドラキールティによれば、十八章5偈で説かれている)・空であること(十八章9偈)・空であることの意義(二十四章18偈)を知らないためであるとして、逆に空でなければ生も滅も四聖諦も修も証も四向四果も三宝も存在せず、世間の言語習慣も否定することになる、と説いています。この箇所は、これまでの論を正しく理解できていれば、ナーガールジュナの言うことに納得がいき、理解できていなければ、逆に対論者の言うことこそが、それまでの論の運びに違和感を感じていた、自分が思っていた通りの内容ということになり、それが間違った理解として否定されることになります。
 そして二十五章末で、「どのような法も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない」と説かれた時(典拠は大乗経典の『如来秘密経』)、もしそれまでの論が正しく理解できていれば、釈尊の言葉は言葉を超えた境地に導くための手段にすぎず、阿含経典で筏の喩えで説かれているように、向こう岸に渡り終えた後は、教え(筏)は乗り捨てるべきものですから、そのことに納得がいきます。
 しかし、それまでの論が理解できなければ、何を言っているのかわからず、二十六章に進んで、十二支縁起の順観を新たな内容、釈尊が「説かれた」教えとして読んでしまいます。二十六章の終わりに「「無明」が滅したときには、もろもろの「行」は生じない。ところで、「無明」の滅することは、まさしく智によって、これ(十二因縁)を修習することによるのである」(11偈)と、十二支縁起の逆観が説かれていますが、ではどこでその智による十二支縁起の修習が説かれているかというと、どこにもありません。それで不審に思いながら、『中論』をもう一度最初から読み直すほかありませんが、実はそれが説かれているのが、一章からはじまる内容に他なりません。
 一章の「これが有るときにかれが有る」は成り立たないというのは、十二支縁起の否定ではなく、逆観のことを言っていると考えなければなりません。それに気づけば、眼(根)と色(境)は存在せず、識・触・受・愛・取も存在しない説く三章や、火と薪の関係を考察して(「薪に依存して火〔が有り〕、火に依存して薪〔が有る〕」8偈前半というが、語学的にはそれで正しくても、日本語として読むと火がなくても薪は成り立つので、燃・可燃と訳した漢訳を採るべき)「火と薪とにより、我と取との一切の次第が…あますところなく解明された」(15偈)と説く十章が、まさに二十六章で言われている智による十二支縁起の修習に他ならないことが見えてきます。
「見られるものと見るはたらきとが存在しないがゆえに、識などの四(識・触・受・愛)は存在しない。取などが、さらにどのようして、存在するであろうか」(三章8偈)や、「このようにして、顛倒が滅するから、無明が滅せられる。無明が滅せられるときに、行などが滅せられる」(二十三章23偈)は、十二支縁起の否定ではなく、十二支縁起の逆観のことなのです。

推測の裏付け

 読者は、この解釈を、あまりに空想が過ぎると考えられるでしょうか。しかしこれを裏付ける手がかりがいくつかあります。
 ひとつは、阿含経典の、苦の自作・他作・両者の作・無因を否定し、十二支縁起の順観と逆観を説く教え(相応部12.17(雑阿含12.20))です。これを踏まえるならば、一章と二十六章の内容は、古註のように切り離すのではなく、緊密に結びついたものと考えなければなりません。もうひとつは、『宝行王正論』の次のような論です。
「〔五〕蘊に対する執着があるかぎり、「我がある」という〔意識〕も存在します。さらに、我意識があるとき業が生じ、さらにまた、その業から(苦の)生存が生じます。この輪廻の輪は、火の輪のように、始め・中間・終わりがなく、交互に因となって、(我意識・業・生存の)三つの道をめぐり歩きます。自・他・共によっても、過去・未来・現在の三時によっても、それ(我意識)は得られないから、我意識は滅します。それから業が、さらに(苦の)生存が滅します。因と果による生起と、その消滅とをこのように見る人は、真実には、この世界は無であるとも有であるとも、主張しません。」『宝行王正論』一章35~38偈
 前半で説かれているのは、『因縁心論』などで説かれている、十二支縁起を煩悩→業→苦(としての生)のサイクルとして捉えた、十二支縁起の順観です。我が自・他・共によっても、過去・未来・現在の三時によっても見いだせないから我意識が滅し、業も生存も滅するというのが十二支縁起の逆観になりますが、存在が自から、他から、両者から、無因から存在することはないと説いたのが『中論』一章であり、過去も存在せず、未来も存在せず、現在も存在しないことを説いたのが、続く二章です。
 二十六・二十七章を本文から切り離す古註の解釈は支持できず、『中論』は、実は冒頭の一章以降は最後の二十六・二十七章の内容を前提としており、正しい理解が得られるまで、何度も繰り返し読み、考えることを求められる書なのです。

まとめ

 『中論』は空の思想を説いた書でも部派との論争の書でもなく、解脱とは何かとか、どのようにして解脱するかを説いた書ですらなく、繰り返し最初から読み直し、気づいて本から抜け出した時には読み手が解脱しているという、輪廻と解脱を本のなかで体験する、読むことが修行になっているという、世にも稀な書です。
 そう考えると、「ない」「ない」と読む者を不快にさせ、困惑させる『中論』前半の論のはこびも、言葉のレベルで読み手が「理解」してしまうことを避けるだけでなく、忍耐力とかなりの集中力がなければ読み進めることができないようにした、『宝行王正論』で言葉を超えた境地を理解する前段階とされている繁栄の法の実践、煩悩を抑制と一転集中の瞑想の実践に対応し、空性の体験的理解を可能にする器量を作り、ふさわしい読み手を選別するものとして見えてきます。

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