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【全文公開】『金島書』の構成・試論(1994)

初出:『西一祥教授追悼 総合芸術としての能』(1994)世阿弥協会(後に世阿弥学会に改称)
 世阿弥が晩年配流された佐渡島で書いたとされる『金島書』を、晩年の世阿弥を知る伝記資料としてではなく、世阿弥の創り出した夢幻能の序破急五段構成で書かれた作品として読み解くことを試みたものです。
 故・西一祥先生(日本大学教授(当時))が主宰された世阿弥協会の第2回 世阿弥忌の集いシンポジウム「佐渡と世阿弥」(於.佐渡・正法寺)で、お話しさせていただきました。
 シンポジウムの内容を本として刊行する計画もあったのですが、西先生が急逝され、『総合芸術としての能』の追悼号に掲載されました。
 世阿弥や演劇の専門家ではない私が声をかけていただいたのは、西先生が学際的な世阿弥研究の重要性―能は総合芸術なので、世阿弥や能の専門家だけではなく、日本文学、民俗芸能、宗教思想、比較演劇、さまざまなジャンルの人が加わって議論をすることで研究は進んでいく、という信念をお持ちだったからです。
 今年(2023年)おこなわれた世阿弥忌の集いは、西先生の30回忌を兼ねたものとなりました。いつの間にか、私ももう少しで西先生の亡くなられた年になる年齢になってしまいました。
 お声がけしていただいた期待には、まったくこたえることができていませんが、せめても、と思い、以前書いたものを公開します。


 『金島書』は、佐渡における世阿弥の動向を知るほとんど唯一の手がかりであり、詳細な検討によって、多くのことが指摘されています(1) 。しかし、『金島書』は単なる記録ではありません。「只言葉」「さしごと」「曲舞」といった指示が世阿弥自身によるものか、写本を筆写した者が書き加えたものかは確かめるすべがありませんが、世阿弥が『金島書』を作品として書いていることは間違いありません。世阿弥作といわれる能は数多くありますが、確実に世阿弥の作品であるという裏付のあるものはわずかです。その意味でも、世阿弥の手になることが確実な『金島書』がもっぱら伝記的資料として用いられるのみで、作品として読み解く試みが盛んでないという状況は残念でなりません(2) 。

 『金島書』が作品として論じられることが少ない理由として、連作の小謡曲舞集という『金島書』の形式や、自分の境遇を物語るという内容が、きわめて特異なものであるため、作品として読むための視点を定めにくいということがあると思います。私の発表では、世阿弥の能の構成論を手がかりとして『金島書』の内容を検討し、作品として『金島書』を読むための基礎づくりをおこないたいと思います。

 世阿弥の能と聞いて思い浮かべるのは、僧の夢の中に亡霊が姿を現わすという夢幻能の形式です。夢幻能は、序・破・急という、世阿弥の能の構成論に基づいて作られています。世阿弥は、一日の番組、一曲の能、あらゆるレベルに序破急という構造が存在すると主張し、ひとつの発声、ひとつの舞の動きにも序破急があると考えていました(3) 。一曲の能の場合、破の部分がさらに三段(これも破の部分を序破急に分けたものと思われます)に分かれた、全五段の構成が基本であるとして、次のように述べています。

  先、序破急に五段あり。序一段、破三段、急一段なり。開口人出て、さし声より、次第、一歌まで、一段。〈自レ是破〉さて、為手出て、一声より一歌まで、一段。其後、開口人と問答ありて、同音一謡、一段。其後又、曲舞にてもあれ、只歌ひにてもあれ、一音曲、一段。〈自レ 是急〉其後、舞にても、はたらきにても、あるひは早曲・切拍子などにて一段。已上五段也。

『 三道』(『世阿弥 禅竹』一三五頁)

 世阿弥の代表作である能『井筒』をこの構成論に対応させると、〈序〉が諸国一見の僧(ワキ)が在原寺を訪れる場面、〈破一段〉が里の女(前シテ)が登場する場面、〈破二段〉が僧と女の問答、〈破三段〉が『伊勢物語』の井筒の女の物語が語られるクセ、〈急〉が僧の夢に井筒の女の亡霊(後シテ)が現われて舞う場面に相当します。このような構成は、能がシテとワキの対話の中でストーリーが展開する劇であることと、不可分の関係にあります。亡霊や神がいきなり登場するのではなく、ワキとの対話の中で謂れを物語る前シテが、その物語の登場人物であると語って後シテに変身するというのが、世阿弥の能の基本なのです。

 もちろん、能が実際に複数の人物が舞台の上に登場する演劇であるのに対して、『金島書』は小謡曲舞集です。そのことは、『金島書』を考える上で無視できません。しかし、序破急構成が能に限ったものではないということは、『五音』に収録された『六代の歌』(曲舞『初瀬六代』)に「是れは、ある御方様より、本説あることを序破急に書て進上せよとの御意をもてしるしたる歌なり」(同二三〇頁)という註記があることからわかります(4) 。序破急構成を念頭において『金島書』(同二五〇~七頁)を読むと、ひとつひとつが単に時間の流れにそって並べられているのではなく、佐渡への道行き、佐渡での見聞、神話をふまえた佐渡の賛美と、作品全体としての構成を考えて配列されていることが見えてきます。

 なお、『世阿弥 禅竹』で「薪の神事」と仮題されている最後の曲舞は、ここでは一応切り離して考えます。というのは、「薪の神事」は、二月に興福寺でおこなわれる薪能を題材とするものであり、「永享八年二月日」という奥付との関連で、『金島書』の最終的な成立を考える上では重要ですが、佐渡配流の物語としては、その前の「北山」で完結しているからです。「北山」の結びの「こがねの島ぞ妙なる」という詞章が『金島書』という書名の由来になっており、世阿弥自身、「北山」まででひとまとまりの作品と考えていたことがわかります。

 また、〈破〉に相当する佐渡での見聞は、さらに三段に区分することが可能で、全体としては次のような序破急五段構成の作品と考えることができます。

 〈序〉 佐渡までの道行き(「若州」「海路」)
 〈破〉 佐渡での見聞
   〈破一段〉 配流地(「配処」)
   〈破二段〉 佐渡に流された京極為兼・順徳上皇の故事(「時鳥」「泉」)
   〈破三段〉 神への謡の奉納(「十社」)
 〈急〉 国産み神話とイザナミの佐渡への影向(「北山」)

 この推測が妥当であるかどうかは、このような構成の作品として読むことで『金島書』の世界がどのように見えてくるのかということを示すことによって判断していただく他ありません。作品の流れにそって、今の時点で考えていることを述べたいと思います。

 まず〈序〉に相当する「若州」「海路」ですが、一読した印象では、配流の旅路とはとても思えません。以前若狭を訪れた時との対比で、自己の老いが語られるものの、世阿弥の心情は前面に出ず、道中の名所が次々と謡われていきます。これは実際に世阿弥に景色を愛でる余裕があったというよりも、道行きの形式に従った表現と見た方がよいと思います。また、道中で世阿弥が詠んだような体裁で「遠くとも、君の御蔭に洩れてめや、八島のほかも同じ海山」という歌が挿入されていますが、この歌は、辺境の地である佐渡も天皇の治める土地であるという内容が、佐渡が天皇の祖先神であるイザナミが影向する土地であるという最後の「北山」の内容に照応しており、『金島書』を書く際に創作されたものである可能性が強いと思います。

 〈破〉では、世阿弥の佐渡における見聞が描かれていますが、私が〈破一段〉とした「配処」では、「笠かり(「笠取」の誤写)峠」「長谷」という地名から山城・大和の同名の地を連想するといったように、佐渡と畿内の対比が意図的に行われています。月見も、「罪なくて、配所の月を見る」という、〈序〉と同様の風雅なものとして自然を捉える姿勢を受け継ぎながら、「月は都の雲居ぞ」と、都を連想させるものとしても描かれています。その一方で、「衆病悉除の秋の月」という、超越的なものの象徴としての月というイメージも登場しており、最後の「北山」において自然の宗教的性格が前面に出てくる前触れにもなっています。『金島書』における「月」は、小西甚一氏が世阿弥の能について指摘された「統一イメイジ」(5) に相当するもので、繰り返し登場し、その度にイメージが変化することによって、作品の展開を示す役割をもっています。

 私が〈破二段〉とした部分では、「時鳥」で京極為兼の旧跡、「泉」で順徳上皇の旧跡を尋ねた様子が描かれています。「時鳥」では、京極為兼が詠んだ歌に感じてホトトギスが鳴くのをやめたという故事を聞き、世阿弥は自分の身の上を重ね合わせて嘆いています(6) 。それに対して「泉」では、「秋の三日月も雲の端に、光の陰の憂き世をば、君とても逃れ給はめや」と、心情が、この世の無常を自覚するという、宗教的諦念とでもいったものに変化しています。このように、かつて配流された貴人の旧跡への訪問を二つ並べ、しかも心境が個人の嘆きからこの世の無常に移行するよう描いているのは、意図的な配列でしょう。

 〈破三段〉の「十社」では、佐渡国内の戦乱により在所を移したことと、移転先に祀られていた十社に謡を奉納した法楽の様が描かれています。配所の移転は恐らく実際にあったことでしょうし、法楽もおこなったのでしょうが、そのふたつの間には、「さるほどに秋去り冬暮れて、永享七年の春にもなりぬ」とあるように、実際には何か月もの時間の隔たりがあります。それをひとまとめにここで語っているのは、「泉」で謡われた無常観に追い討ちをかけるように現実に戦乱にまきこまれる事態が生じ、観念・現実の双方で追い詰められた状況を踏まえたものとして、自身の法楽を位置付け、次の「北山」で謡われる神話的世界への橋渡しの役割を与えているのだと思います。法楽では「五衰の眠りを無上正覚の月に覚まし」と超越的な月のイメージが強調され、「げに九の春久に、十の社は曇りなや」と、これまでは無常が強調されていた現世が、肯定的に謡われています。

 最後の「北山」では、土地の古老の説として(7) 、イザナキ・イザナミの国産み神話をふまえた神道説が語られ、佐渡が神の影向する島として賛美されています。いわば佐渡神話ともいうべき内容ですが、ここで注目されるのは、佐渡に影向する神がローカルな神ではなく、日本国を産んだイザナミであるとされていることです。神道説における「粟散辺土の小国」ではあるが「天地開闢の国」という日本の捉え方は、そのまま、辺境だがイザナミの影向する島という佐渡の捉え方と重なります。「若州」「海路」では、自然の風景は風雅なものとして謡われていました。それが「配処」では、都を想起させるものとなり、「時鳥」では嘆きを誘うもの、「泉」では無常を感じさせるものへと移行していきました。そした最後の「北山」で、神が産んだ世界としてこの世が肯定され、「満目青山、なををのづから、その名を問へば佐渡といふ、こがねの島ぞ妙なる」と賛美されているのです。配流の嘆きは、自分が都を離れることにあります。そこでは都が肯定されるべきものとして思い出されます。しかし、かつては日本国の主だった上皇ですら流されたという事実に直面することによって、配流は、個人的な不幸、都を離れている状況からくる不幸から、この世の無常という本質を象徴するものに変質します。そのような認識の極で、神的なものが前面に押し出され、無常であるこの世が神の産んだ世界として肯定され、都を遠くはなれた日本の末端に位置する佐渡こそが、日本国の根源に結びついた地として賛美されるのです。

 このように、『金島書』は、能と同じ序破急構成で作られた作品として読むことができます。「若州」「海路」が能でいえばワキの道行き、配所の有様を謡う「配処」が前シテの登場、佐渡での見聞を記す「時鳥」「泉」「十社」がワキと前シテの問答に相当します。中でも「十社」は、独立した作品として考えようとすると、移転と法楽の間に時間の隔たりがあり、その内容も戦乱と春の賛美というように落差があって、まとまりが感じられません。『金島書』全体をひとつの作品と考え、その中での機能を考えることではじめて「十社」の内容はよく理解できると思います。「げにや和光同塵は、
/\、結縁の御はじめ、八相成道は、利物の終りなるべしや」とあるように、法楽における春の賛美は、それまでの無常観と相反するものではなく、この世は無常であると同時に仏が神の姿で現われて守っている世界でもあるという「和光同塵」の思想を踏まえたものなのです。最後の「北山」ではイザナミの影向が謡われており、能でいえば後シテの舞に相当します。『金島書』は、もし能形式に改めて上演するとすれば、ワキとしての世阿弥が佐渡の地を訪れて見聞をおこない、後シテとしてイザナミが登場する、そういう内容の作品ということができます。

 以上、序破急という能の構成論を手がかりとして、『金島書』を作品として読むための試みをおこなってきました。最後に、このような作品を作り上げた世阿弥の精神のありかたについて触れたいと思います。

 誤解をさけるために申しそえますが、『金島書』を作品として読むということと、『金島書』に表現された世阿弥の心情を作りものといっていることとは違います。『金島書』について、配流の身では自分の境遇を作品化する余裕などないだろう、赦免された後の作品ではないか、あるいは、逆に、赦免を願って作ったものではないかと考えておられる研究者もいらっしゃいますが、そのような解釈には賛成できません。佐渡に流されてから、自己の境遇を冷静に見つめる時間的余裕は十分あったでしょうし、第一、もし配流によってすっかり落胆しきっていたとしたら、七〇をすぎた高齢の世阿弥は佐渡に到着してまもなく息をひきとっていたでしょう。佐渡からの書状で、世阿弥は娘婿の金春禅竹に対して、自分の能についての教えを守るよう繰り返し述べています。『金島書』という自己の境遇を能的に構成した作品も、能という表現形式への思い入れの深さの産物として理解すべきと思います。「配処」で「しばし身を、奥津城処こゝながら」と、配所を修辞的に墓所と重ね合わせて謡っているように、世阿弥は佐渡で人生を終える覚悟をしています。佐渡の賛美で終わる『金島書』の内容から考えても、都への帰還を期待しているとは到底思えません。世阿弥は、流された佐渡において日本国を産んだ神に出会うという物語を作ることによって、配流という結末を迎えた人生を否定的に捉えるのではなく、能に捧げた一生として肯定的に受け止めようとしたのだと思います(9) 。奥付に添えられた「これを見ん残すこがねの島千鳥跡も朽ちせぬ世々のしるしに」という世阿弥の歌は、『金島書』が後世に向けて書かれた作品であることを示しています。自分が死んでも能という芸術と、能の形式で語られた自分の生涯は伝えられていく。佐渡における世阿弥を支えていたのは、「命には終りあり、能には果てあるべからず」(『花鏡』同一〇八頁)という信念だったのではないでしょうか。

     註
(1)最近の研究として、シンポジウムに参加された本間寅雄(筆名・磯辺欣三)氏の『世阿弥配流』がある。
(2)虚構が含まれているという落合博志「金島書における虚構の問題」 『能―研究と評論』一七号の指摘は重要である。
(3)序破急は様々なレベルについていわれているため、定義することはむつかしいが、発想の基盤には、美を演者と観客との間で成立する「花」と捉える世阿弥の演能観があると思われる。
(4)『六代の歌』の場合、冒頭の「一所不住の沙門」の名のりと長谷寺への到着が〈序〉、六代の処刑の決定を聞いて参籠の母親達が悲しむ場面が〈破〉、観音の霊験による赦免を語るクセが〈急〉に相当すると思われる。
(5)小西甚一「能の形成と展開」『能・狂言名作集』所収。
(6)落合氏前掲論文は虚構と推測。
(7)シンポジウムのため佐渡を訪れた際に知ったのだが、佐渡の蓮華峰寺は京都の鬼門鎮護のために比叡山にならって建立されたものという。地図を見ると、京都から、比叡山・白山・佐渡は、ほぼ一直線上に位置する。白山権現が佐渡に影向するという説には修験者が実践によって得た地理的知識が反映されているのではないだろうか。「北山」の神道説は能勢朝次『世阿弥十六部集評釈』において『神祇陰陽抄』等との類似が指摘されているが、それらにはイザナミが佐渡に影向するという説は見られない。神道説が修験者によって伝えられ、世阿弥が書いている通り、佐渡において伝承されていた可能性も捨てきれないと思う。
(8)「六月八日付書状」(『世阿弥 禅竹』三一八~九頁)で、世阿弥は鬼の演技について、自分の二曲三体論に従うべきことを強調し、「道の妙文は金紙と思し召され候べく候」と、自分の教えを『法華経』にまでたとえ、「なを/\法をよく/\守せ給べく候也」と結んでいる。発表の際には触れなかったが、興福寺の神事への参勤を謡う「薪の神事」も、最初の能芸論(『風姿花伝』の第三まで)に能の起源譚(「神儀」篇)を付したのと同様の、能の由緒正しさを強調した、能の正統意識の産物と見なすのが妥当と思われる。
(9)相良亨『世阿弥の宇宙』は、世阿弥の能の特徴として、情念の昇華の仕方を挙げ、『金島書』も同じ様式によって己れの心情を宇宙に定位したものと解釈している。

付記 この原稿は、以前「佐渡と世阿弥」シンポジウムの論集が計画された時に執筆したもので、今回、掲載にあたって若干加筆をおこなった。

世阿弥とその夢幻能、芸道論については、拙著『神と仏の倫理思想【改訂版】』北樹出版、第三章3でも論じています。


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