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三転法輪(その3):般若経の空(くう)の教え

第二転法輪とされているのは、『般若経』の「空(くう)」の教えです。
これは、大乗経典の教えです。

大乗経典の位置づけ

大乗経典については、伝統的理解のなかにも、認める伝統と認めない伝統があります。
近代的な仏教研究では、大乗経典は後代に創作されたものとされていますが、大乗経典を認める側も、それが阿含経典の編纂時にこの世に存在しなかったことを知らなかったわけではありません。
大乗仏教を確立したのは、古代インドのナーガールジュナ(龍樹)ですが、中国やチベットに伝わる伝記のなかで、龍宮から大乗経典を取得したことが語られています。

大乗経典はサンスクリットで書かれていますが、
サンスクリットはヴェーダのような天啓教典に用いられている神聖言語で、インドでは神々の世界の言葉と考えられていました。
大乗経典を認める側は、大乗経典がサンスクリットで記されているのは、それが神々の世界で伝えられていたからで、後に人間世界にもたらされた、と考えていました。

空をめぐる誤解

『般若経』の「空」の教えは、伝統的な理解では、初転法輪の四聖諦の滅諦、苦しみからの解放の境地をより詳しく説いたもの、とされています。
ナーガールジュナは、南インドの王のために説いた『宝行王正論』のなかで、

「大乗では空性が「不生」として、ほかでは「滅」として(説かれます)。「不生」と「滅」とは意味が同一であります。そのことを心にとどめねばなりません。」(4章86偈。瓜生津隆真訳『龍樹論集』中公文庫所収)

と説いています。

これは、「空」について考える際に、忘れてはならない点です。
『中論』や『宝行王正論』のなかでも取り上げられているように、「空」の教えを批判する人は、それを(有るものを無いと考える)虚無論と考えて批判しているからです。
実際には、苦しみの消滅、苦しみからの解放の境地のことで、実体視に捉われている今の私たちが「すべては空(くう)で、何も存在しない」と思い込むことではありません。

大乗経典を認める側が注意すべきこと

「空」の教えを認める理解と認めない理解を、優劣や正誤のようなものとして捉えてはなりません。
「空」の教えは、病気が治ったら薬を飲む必要はない、ということで、
そこにたどり着くためには、病気を治そうと、薬を飲む必要があります。

阿含経典は、私たちを苦しみからの解放に導こうと釈尊が授けた教えで、そこでは輪廻の苦しみからの解放の境地は、輪廻の外にあるかのように説かれ、目指されます。
しかし、苦しみの原因は私たちの実体視、「自分と自分が捉えたとおりのものが存在する、それが現実だ」と信じて疑わないことにあります。
ですので、苦しみからの解放というのは、実際には誤った物の捉え方からの解放で、輪廻の外に出ることではありません。

今の私たちは実体視の牢獄にとらわれていて、釈尊はそれに気づき、そこから抜け出すことを促されました。
しかしその牢獄の正体は、私たちの実体視なので、そこからの解放は、実際には牢獄の外に出ることではなく、その牢獄が自ら作り上げてきたものであることに気づき、それから自由になることです。それが大乗経典の「空」の教えです。

ナーガールジュナは『中論』25章で輪廻と涅槃の無別ということを説いていますが、それはこの実体視からの解放の境地のことです。
今の私たちが「輪廻がそのまま涅槃なのだから、輪廻の外に出ようとする必要はない」、と思い込むことではありません。

「輪廻には、涅槃と、どのような区別も存在しない。涅槃には、輪廻と、どのような区別も存在しない。およそ、涅槃の究極であるものは、輪廻の究極でもある。両者には、どのようなきわめて微細な間隙も、存在しない。」(25章19、20偈)

日本でよく知られている「煩悩即菩提」も、同様で、それは病気が治って薬がいらなくなった境地のことで、今の状態が健康だと思い込むことでも、薬さえ飲まなければ病気が治ったことになる、ということでもありません。

山を登らずに頂上の景色を見ることはできない

大乗経典を認める側の陥りやすい過ちは、
阿含経典やそも教えを理論化した部派の教えに対して、大乗経典のほうがすぐれているとか、より高い境地だと考えてしまうことにあります。

輪廻の外に出ようとする教えを、それは劣った教えで、私たちの大乗の教えの方がすぐれている、「煩悩即菩提」だ「色即是空、空即是色」だ、と誇るのは、
ちょうど、自分は一歩も登ろうとはせずに、頂上にたどり着こうと黙々と山を登っている人たちを馬鹿にして、
「あいつらは登った先に頂上があると考えている。本当は、どこも登る必要がないところが頂上だ、私はそれを知っている」と誇っているようなものです。
それではいつまでたっても頂上の景色を目にすることはないでしょう。

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