見出し画像

三転法輪(その4):唯識と如来蔵(仏性)の教え

第三転法輪とされているのは、『解深密経』で説かれている唯識の教えと、『如来蔵経』などで説かれている如来蔵(仏性)の教えです。
これも大乗経典の教えで、伝統的理解では、初転法輪の四聖諦の道諦をより詳しく説いたものとされています。
密教も、第三転法輪に分類されます。

唯識

唯識は、仏教ではそれこそが私たちの苦しみの真の原因だとする、私たちが捉えている対象の実体視が、なぜ瞑想で変わるのかという、心の深いレベルについての理論的洞察を中心に、仏教の実践階梯を説くものです。

如来蔵(仏性)

如来蔵は、一切衆生に仏性が備わっている、と説く教えです。これは自分が仏陀になった時にはっきりわかることなので、「如来蔵」、仏陀=如来にとって一切衆生に備わっている(蔵)ことがわかるもの、と呼びます。

伝統理解においても、如来蔵の教えは、「一切衆生に仏性が備わっているのだから、わざわざ修行する必要はない」などと誤解されることが多かったのですが、その核心は、仏陀の境地は作られたものではない、ということにあります。
私たちは、仏陀の境地に達する、仏陀に成る(成仏)という言い方をしますが、もし本当にそうなら、仏陀の境地は作られたもので、苦しみからの真の解放ではないことになってしまいます。

釈尊は常々、「作られたもの(有為)は、無常で、苦なのだ」と説かれていました。
私たちが感じている幸せも、作られたもので、一時的で、いずれ失われるもので、苦しみからの解放ではない、というのが、釈尊の教えです。

ですので、もし仏陀の境地が新たに獲得されるものだとしたら、仏陀の境地も一時的で、いつか失われるもので、苦しみからの真の解放ではない、ということになってしまいます。
そうではない。私たちは今の自分とは違う仏陀になるわけではなく、仏陀の境地は一切衆生に備わっていて、それを覆っている汚れを取り去って、自分が本来仏陀だったことに気づくことが仏陀のさとりだ、というのが、如来蔵の教えです。

ですので、本来これは、修道不要論とは無縁のものです。
仏性を覆っている汚れを取り除く実践と、仏陀の境地を目指す実践は、捉える視点の違いでしかなく、実際には同じことを指しています。

私と私が捉えている対象が実体ではない、と気づくのが「さとり」で、ですから、さとった時は、「私の仏性」をさとるのではなく、一切衆生が仏性を備えていることを理解します。
他の衆生も、自分がさとった苦しみからの解放と同じ境地がおのずから備わっているのに、そのことに気づいていない、なんとかして気づかせたい、と思って実践するのが、菩薩の実践です。

道元禅師は、仏性の教えについて、
一切衆生に仏性が備わってるのなら、わざわざ修行しなくても、死んだ時には分別の心は失われて、仏性だけが残るので、修行する必要はない、
という考えを、仏教とは異なる考え(外道の見)と、厳しく批判されています。

世間ではアニミズムと結びつけられて論じられることの多い「草木成仏」の教えも、本来は、「一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成仏」、自分が仏陀になった時は、「私」がそれまでとは異なる仏陀になるのではなく、自分と自分が捉える対象という二元論から解放され、すべてが仏陀だということに気づく、という教えです。

伝統的仏教理解を学ぶ意義

伝統的な理解では、仏教にさまざまな教えがあるのは、「対機説法」、その人その人に合わせて説かれた教えで、どれが正しくてどれが間違いではないのだ、と言います。
宗派の違いは、どの登山道から山頂に登るかの違いで、
自分が選んだ道が正しいとしても、
実際に登ったら、どの道が正しく、どの道が間違い、というのではなく、自分が登った道も、そうではない道も、同じ頂上に登る道だったことがわかる、というのが、伝統的な仏教理解です。

宗派対立は、インドでも日本でもチベットでもありましたが、
それは、実際には自分は山に登らずに、麓で、自分が選んだ登山道こそが正しい、他の道は間違っている、と主張するようなものであることがわかれば、
自分も他人も、無駄なことに時間を費やさないで済むと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?