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「ナーガールジュナ(龍樹)の理解を基盤としたチベットと日本における仏教の展開」『比較思想研究』39(2012)

 この論文は投稿した比較思想学会のサイトでPDFで公開されているので、noteに転載はしていません(下のリンクからご覧ください)。

https://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/03/2012_39_hikaku_12_yoshimura.pdf

 日本の仏教は、鎌倉時代に専修を説く宗派が現れ、江戸時代にキリシタン禁制のために特定の宗派のお寺の檀家となることが義務づけられ、明治にはいって宗教=教義に従うものという、西洋の一神教をモデルとした宗教観がはいり、今に至っています。
 現在の日本では、各宗派は、名前は同じ仏教でも、別々の仏をまつり、別々の教えを信じる、別々の教義の宗教のようになってしまっています。

 仏教徒というのは、釈尊の発見された苦しみからの解放の道に従い、私もそのやり方で苦しみから解放されたい、と願う人のことで、歩む道はさまざまです。
 大切なのは、信頼できる師のもとで、選んだ道を黙々と歩むことで、他人の道と比較したり、優劣を争う必要はありません。
 しかし、歩んでいる道は別々だとしても、長い歴史のなかで、もしそれらが別々のところに到達するようになってしまっているのであれば、仏教理解としては問題があります。

 チベットの伝統では、ひとつの宗派のなかに、密教の実践も、坐禅のような瞑想も、浄土信仰も、ナーガールジュナの仏教理解を学ぶ中観学も含まれています。日本でも、平安仏教の天台宗はそのような総合的な宗派といわれています。

 日本の伝統では、古代インドの龍樹(ナーガールジュナ)が「八宗の祖」と尊ばれていました。諸宗派の実践はさまざまですが、それらは同じナーガールジュナの仏教理解に従い、仏陀の境地を目指す道だというのです。
 ナーガールジュナの仏教理解を踏まえることで、密教や禅、浄土、各宗派のそれぞれの実践が同じ山の頂上を目指す別々の登山道であることが見えてくる、そのことをこの論文で書きました。

 その後書いた『空海に学ぶ仏教入門』ちくま新書や、最近のインターネットでのオンライン勉強会で試みているのは、この論文で書いた問題意識の展開です。


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