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実践階梯:五道と十地

五道(五位)は、東南アジアに伝わる南伝と、中国・日本、チベットなどに伝わる北伝に共通する、仏教の修行階梯です。

 資糧道(資糧位)

修行に必要なものを集める段階です。
空性(くうしょう。すべてのものは実体ではないということ)については、まだ知的な理解に留まっています。

加行道(加行位)

チベット仏教の指導者のダライ・ラマ法王は、「不完全だが体験的理解が得られた段階」とおっしゃっています。
伝統的な言い方だと、まだ火そのものは見ていないが、温かみを感じ、煙を見て、そこに火があることに疑いがなくなった段階です。
資糧道では、仏教の教えを聞いても、何のことだかわからなかったのが、何のことか「わかった!」段階です。
仏教理解は飛躍的に進みますが、まだ凡夫で、貪(むさぼ)りや瞋(いか)りの心は依然として残っています。

見道(通達位)

文字通り、「見る」段階です。
何を見るのかというと、物事の真のありようです。
私たちは、自分が捉えた対象を真実だと思い、それに執着したり、瞋(いか)りの心を起こしますが、実際は私たちが捉えた通りのものではありません。それを体験します。
ここから先が、聖者の境地となります。

 修道(修習位)

物事の真のありよう、空性を体験するのは、感覚が何も捉えていない、深い瞑想の境地においてです(等引無分別智)。
瞑想を終えると、感覚は再び対象を捉えますが、以前のように実体としては映らなくなる(後得智)といわれています。
そうやって、瞑想中・瞑想後を行き来して修行を深めていく段階です。
菩薩の十地(じゅっち)は、見道=初地から始まる、菩薩の階梯です。

 無学道(通達位)

修行の完成、それ以上学ぶもののなくなった段階で、南伝では阿羅漢、北伝では仏陀の境地を言います。

『般若心経』の「色即是空、空即是色」を例に

『般若心経』を例に挙げると、日本で『般若心経』は有名ですが、「色即是空、空即是色」と聞いて、説明を受けたとしても、なかなかわかった気にはならないと思います。

「色」は私たちの心が捉える対象、形のことです。私たちでいえば身体が「色」です。それらは私たちの心にそれはありありと映っています。
色あれば空ではない、空であれば色ではない、というのが、私たちの実感です。 ですので、今の私たちには、「色即是空、空即是色」は、わかりにくいのです。

『般若心経』は、観自在菩薩(観音菩薩)が釈尊のさとりの境地を理解し、それを舎利子(シャーリプトラ)に解説しているお経です。

資糧道では、空については知的理解に留まり、「色即是空、空即是色」については、仏教ではそう説いていることを知っているだけで、真に理解している、納得しているわけではありません。

加行道にはいると、それに疑いがなくなります。

見道で、直接火を見て(空を体験して)、粗い煩悩はもう生じなくなります。

修道では、瞑想中には対象を捉えない空(くう)の境地に留まり、瞑想後は利他の実践に励みます。
瞑想中に捉える「空」と、瞑想後に捉える「色」の境地を行き来しながら、修行を進めていきます。

無学道、修行を完成した仏陀の境地では、「空」と「色」を交互にではなく、同時に捉えることができます。
ですので、仏陀の境地においては、実体視に捉われる私たちのように「空」と「色」が相反するものではなく、修行に励む聖者の菩薩のように「空」と「色」を行き来するのでもなく、「空」と「色」を同時に捉えることができます。それが「色即是空、空即是色」です。
その仏陀の境地を説明するのが、『般若心経』です。

伝統的理解における言葉の役割

伝統的な仏教理解では、教えの言葉は「月をさす指」と言われ、その指を見るのではなく、指を手がかりに月を見つけるためのものとされています。

昔のヨーロッパの仏教研究やそれに基づく近代的仏教理解では、言葉=思想で、仏教といっても実際はさまざまな異なる言葉=思想がある、ということになりますが、
伝統的な仏教理解では、そのさまざまな異なる言葉=指が同じ月を指していることがわかることが、仏教をわかる、ということで、
教えの言葉は信じるべき答えではなく、正解にたどり着くためのヒントのようなものです。
言葉を信じるべきものと捉えるか、月をさす指、正解に辿りつくためのヒント、手がかりと捉えるか、近代的理解と伝統的理解では、基本発想が違います。

南伝と北伝の相違点

伝統的理解での南伝と北伝の違いを言うと、八正道と涅槃の位置づけ、説明が違います。
八正道について、東南アジアに伝わっているテーラワーダでは、今の私たち、凡夫の段階から実践するものとされていますが、北伝では、それは言葉を超えた境地の実践で、凡夫の段階で実践できるものと考えられていません。

中国、日本、チベットなどに伝わる北伝は、古代インドのナーガールジュナ(龍樹)の仏教理解に基づく伝統で、主著の『中論』で、経典を名前を挙げて引用しているのは一箇所で、しかもそれは阿含経典です。
『迦旃延経』(パーリ中部『カッチャーヤナ』)で、釈尊は、迦旃延(カッチャーヤナ、十大弟子の一人)から、正見について尋ねられ、有は極端論、無はもう一つの極端論で、如来はこの二つを離れて教えを説く、と言われています。
私たち凡夫の認識では、「有」か、そうでなければ「無」ですが、「正見」物事の真のありようを正しく見るというのは、そのような物の見方を離れることで、その実践ができるのは、空(くう)を体験した聖者の境地においてだ、というのが、ナーガールジュナに従う北伝の伝統的な考えです。

南伝が究極の境地とする阿羅漢の境地は、議論はありますが、北伝ではおおむね菩薩の十地の第七地、空(くう)を極めた境地とされています。
菩薩は完全に空を極めた境地に到達し、活動を停止してしまいますが、その時、あらゆる方角の仏陀たちが、お前はかつて一切衆生を救うために仏陀の境地を目指していただろう、そこに留まらず目を覚ましなさい、と声をかけ、修行者は目を覚ましてさらに道を歩み続ける、と説かれています。

修行が完成した仏陀の境地においては、瞑想中・瞑想後にまったく差がなく、「色即是空、空即是色」なのだ、修行中は輪廻を抜け出して涅槃に到達することを目指すが、到達した仏陀の境地においては涅槃と輪廻に差がない(ナーガールジュナ『中論』25章)というのが、北伝の理解です。

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