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日本文化の諸相:人文学の見直しの必要性

日本の近代化と学問

 明治以降の文明開化、西洋の知識や技術を取り入れることによる近代化は、メリットも多々ありましたが、問題も生みました。
 特に、人文科学は、西洋の社会や文化をモデルにしたものなので、それを日本に当てはめようとしても、うまくいっていない場合が多いと感じています。

日本語は、主語+述語 で説明できるか?

 たとえば、文法で説かれる 主語+述語 は、英語やドイツ語、フランス語など、ヨーロッパの言語の構造なので、それとは異なる日本語の説明には役立ちません。
 (食堂で注文を聞かれて)「僕はウナギだ」と答えた意味は、西洋の言語のI am an eelとはまったく違います。
 しかし、主語+述語 という、日本語とは異なる文法構造で説明しようとすると、日本人なら誰ひとりそうは受け取らない意味(I am an eel. 衝撃の告白!「実は私は人間ではなく、ウナギなんです」)になってしまいます。

日本の神(カミ)とキリスト教の神(創造主)

 明治以降の近代的教育を受けた私たちは、カミという言葉で、西洋の一神教の神、創造主を連想するようになってしまっています。けれども、前近代の日本人が「カミ」という言葉で呼んでいたものは、創造主のようなものとはまったく異なっていました(ご禁制のキリシタン文献をひそかに読んでいた平田篤胤(1776~1843)は、日本の神こそが世界の創造主だ、という説を唱え、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えました。しかし、そのような考えは例外的です)。

本居宣長が発見した係り結び

 日本語の文法構造を説明したのが、係り結びの法則で、国学者の本居宣長(1730~1801)が発見しました。
 係り結び を、「ぞ」「なむ」「や」「か」があると文末が連体形、「こそ」があると已然形に変わる、とだけ習った人は、係り結びの本質を知っていません。
 係り結びは、意味のつながりの法則で、現代の私たちも、係り結び を使って、読んだり書いたりしています。
 「は」や「も」も、文末の形は変わりませんが、係り結びを作る係助詞です。
「僕は君が持っているのと同じ本を欲しい」
 日本人は、百人が百人、誰が欲しいのか?と聞かれたら「僕」と答えるでしょう。しかし、たとえば留学生から、「君が」は主語ではないのか? 君が〜欲しい ということはないのか、と質問を受けたとしたら、主語+述語 では説明できません。
 この文で、なぜ「欲しい」のは「僕」で「君」ではないかというと、「僕は」の「は」は係り結びを作る係助詞で、文末の「欲しい」にかかるのに対して、「君が」の「が」は格助詞で、すぐ下の「持っている」にのみ意味的に関係し、文末の「欲しい」にはつながらないからです。

日本人はどういう存在を「カミ」と呼んできたか

 「カミ」についても、本居宣長は『古事記伝』のなかで、日本人が「カミ」という言葉で呼んできたものは、「尋常(よのつね)ならず、すぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物」だと説いています。
 「尋常ならず」「すぐれたる」「可畏き」というのは、主観的な捉え方で、前近代の日本人にとって、「カミ」とは、自分が「普通ではない、すごい!、恐れかしこまるしかない!」と感じるもので、客観的な存在ではありませんでした。簡単にいうと、何がカミなのかは、人によって違うものでした。
 西洋の考えでは、神は創造主で、信じようと信じまいと、神は神なので、自分を作った神の言葉をまだ知らない人たちに伝えよう、と宣教師が世界の隅々にまで赴きます。

なぜ古代国家は仏教を必要としたか

 前近代の日本のカミは主観的なものなので、それで日本という国を統一することはできません。
 古代の日本はカミの信仰によって統一されていた、と思っている人は多いですが、それは明治政府によって作り上げられたイメージです。
 明治政府は近代化を促進する一方で、それを支える精神的支柱としてカミとカミの子孫としての天皇を位置づけ(国家神道)、神仏分離をおこなって、日本のカミから仏教を切り離し、「仏教の影響を受ける以前からの純粋な日本の信仰」という幻想を作り上げました。
 しかし、『日本書紀』を読むと、仏教が伝わって、それまでの豪族の連合体を超えた「日本」という国を構想することができたことがわかります。

 『日本書紀』の仏教伝来記事(史実ではなく『日本書紀』編纂時に作られた記事)を読むと、仏教の伝わる以前の日本は豪族の連合体にすぎず、豪族たちの意見が割れたら天皇は何もできない存在で、蘇我氏と対立する物部氏を打ち倒して聖徳太子が制定したのが憲法十七条だと位置づけられています。
 憲法十七条では、価値観の相違を乗り越えて「和」を実現するため(第1条)、価値観を相対化し得る仏教の視点が必要なことが説かれています(第2条、第10条)。

 その聖徳太子の理念を実際の政策として実行にうつしたのが、聖武天皇による全国の国分寺・国分尼寺の造営と、奈良の大仏の建立です。
 日本最古の仏教説話集『日本霊異記』には、蘇った人が、死後の世界で聖徳太子に会い、聖徳太子から大仏を建てるために再び日本に生まれることを聞いた、と語ったという説話があり、その生まれ変わりが聖武天皇だとされています。
 明治以前の聖徳太子のイメージは「和国の教主」、仏教を日本に広めるために生まれた観音菩薩の化身でした。

(今の仏教の説明が伝統的なものとは基本発想から違うことはたびたび書いてきたので、今回は省略します)

(仏教伝来以前の日本の信仰については、こちらに書きました)

(今回に関連した内容は『神と仏の倫理思想【改訂版】』第一章1、第三章1で取り上げています)


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