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三転法輪(その2):四諦・三苦

初転法輪:苦・集・滅・道

釈尊は、インド・ブッダガヤの菩提樹の木陰で瞑想をして、さとりを開いた後、誰が自分の教えを理解することができるかと考えて、バラナシの鹿野園にいた、かつての修行仲間の5人の所に赴き、最初の教えを説いたといわれています。

その時の教えとされるのが、苦しみがある(苦)・苦しみの原因がある(集)・苦しみの消滅がある(滅)・苦しみの消滅がある(道)、という四つの真理(四聖諦)です。

これは「真理」と訳されていますが、西洋の思想のような、いついかなる時も成り立つ、不変の真理ではありません。もしそうなら、苦しみという真理と苦しみの消滅という真理は、どんな楯も貫くことのできる矛と、どんな矛も防ぐことのできる盾(矛盾という言葉の語源)のようなものになってしまいます。

たまたま一番最初に教えを説いたのがこの四つで、別な機会には別の教えを説いたというのではなく、この後のさまざまな教えは、この四つの一部ないし全部を角度を変えるなどして説いたものです。
ですので、実践的な関心から仏教を学ぶのであれば、単にこの四つが何々であるかを知識として知っているだけではなく、四つについて深く考えることが重要です。

タイムマシーンに乗って、この教えが説かれる現場に赴き、自分も聴衆のひとりだったら、と考えてみるのも、教えの理解に役立つかもしれません。

・苦諦

最初に、釈尊は、「苦しみがある」と説かれました。
多くの人は、それに同意されると思います。
でも、もしかしたら、「苦しみなんて全然ない」と考えている人もいるかもしれません。
本当にそうであるかは別にして、そう考えている人には、差し当たって釈尊は何もできません。そういう人がいたとしたら、興味を失って、その場を立ち去ってしまうでしょう。

・集諦

その場に残ったのは、「苦しみがある」という最初の教えに同意している人たちです。
その人たちに釈尊は、「苦しみの原因がある」と説かれました。
もし、苦しみが逃れることのできない運命だったり、何の理由もなく突然降りかかってくる災難のようなものだったら、私たちは苦しみについて、どうすることもできません。
しかし、釈尊は「苦しみの原因がある」と説かれました。原因があるのなら、それがわかれば対処のしようがあるのでは、と、聞いている人に希望が生まれます。

・滅諦

そう期待する人たちに釈尊は、「苦しみの消滅がある」と説かれました。
「やっぱり!!」
苦しみは、なくすことのできるものなのだ。
そういう人たちが聞きたいのは、「では、どうやって?」です。

・道諦

釈尊は、四番目の真理、「苦しみの消滅に至る実践がある」と説かれました。
「それ知りたいです!!」「私も教えてください!」
そういう人々は釈尊のフォロワーとなり、ここにはじめて仏教徒が生まれました。
ですから、この後の教えはすべて、この四つの真理と別のものではなく、それをより詳しく展開したものなのです。

伝統的理解では、釈尊は一律の教えを説くのではなく、その人その人に合わせて異なる教えを説いた(「対機説法」たいきせっぽう)とされています。
それは、どこまでを苦しみと認識し、なくしたいと考えているかが、人によって違うためです。
その人の苦しみを釈尊が魔法のように消し去ってあげることはできず、
釈尊にできるのは、苦しみをなくす方法を教えることだけなので、
その人が苦しみと認識している範囲でしか、釈尊の教えは役に立たないのです。

三苦:苦苦・壊苦・行苦

伝統的な苦しみの分類法に「三苦」、三種類の苦しみというものがあります。
一番目の苦しみは「苦苦(くく)」、苦しい苦しみで、肉体的あるいは精神的な苦痛のことです。これは誰でも苦しみと認識し、逃れたいと思っています。
動物にも、この苦しみは理解でき、逃れたいと思っています。
(決してやってはいけませんが)犬に石を投げつければ、ギャ!と言って逃げていくでしょう。それを苦しみと理解し、逃れたいからです。
ペットの動物がストレスを感じ、毛が抜けたりすることもがあり、精神的な苦しみも動物にあります。

逆にいえば、二番目、三番目の苦しみは、さしあたっては苦しみと感じられていない苦しみで、捉えるのがむつかしいものだ、ということになりますく。

二番目の苦しみは「壊苦(えく)」、変化による苦しみです。これは感覚的には、幸せを感じているもののことを言います。これはわかりにくい苦しみです。
すべては「無常」、変化するものなので、今は幸せを感じていても、それはいつか必ず、苦しみに変わります。
お酒をおいしいおいしいとついつい飲み過ぎると、その時は幸せですが、翌日、二日酔いになって、それは苦しみに変わります。
このケーキもおいしい、このケーキもおいしい、といくつも食べ、その時は幸せ一杯ですが、体重計に乗った時、それが苦しみに変わります。
すてきな伴侶とめぐりあい、幸せな人生を過ごしたとしても、いつかかならず、別離の悲しみが訪れます。
これはわかりにくい苦しみなので、動物には理解できません。動物は、自分の欲望を抑えて、ダイエットすることができません。
でも、仏教以外にも、これを苦しみと捉え、避けようとするものがあります。
インドには現在も苦行者、サドゥーがいますが、彼らは、地位や名誉や財産や幸せな家庭、それらが苦しみを作り出すものだということを認識していて、それらを離れた生涯を過ごしているのです。

最後の苦しみは「行苦(ぎょうく)」、何をやってもつきまとう苦しみで、私たちが感覚的に苦痛も幸せも、何も感じていない時でも、常に存在する遍在的な苦しみです。
釈尊が、苦しみから完全に解放されて仏陀になった、というのは、この、何をやってもつきまとう苦しみの原因を突きとめて、それから解放された、ということです。
これを苦しみと捉えるのは仏教だけ、といわれています。

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