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教えの言葉は教義や思想ではなく、ヒント

経典の多くが「如是我聞(私はこのように聞きました)」から始まることが示しているように、仏教において、教えの言葉は特定の人に特定の時に説かれたとされるもので、
西洋の宗教のような、誰もが例外なく常に従うべき教義ではありません。
対機説法(たいきせっぽう)、お釈迦さまはその人その人に合わせて異なる教えを説いた、というのが伝統的な理解です。

西洋の一神教では、神が万物を創造したとされていて、私たちは皆、神によって造られた存在ですから、誰もが例外なく、常にその教えに従う必要があります。それが「教義」という捉え方の基礎にあります。
しかし、仏教では、仏陀は苦しみから完全に解放された存在とされ、その仏陀の発見した苦しみからの解放の方法を学び、それによって苦しみから解放されたいと願うのが、仏教徒です。
伝統的に、仏教は医学的な発想の教え、とされてきました。
仏陀は創造主ではなく、その言葉は誰もが従うべき義務ではありません。

仏教において、教えの言葉は「月をさす指」、それを手がかりに月を見つけるためのものだとされています。
クイズ番組のヒントのようなものです。

伝統的には、仏教の理解には聞・思・修の三つ(三慧)が必要とされています。
教えは正解のためのヒントですから、正解を知っている人からヒントを聞く必要があります。それが聞です。
教えを聞いても,それを手がかりに、自分で正解に辿り着く必要があります。それが思です。
正解にふれた!と思っても、それは一瞬で、それを繰り返し反復して、それを自分の心になじませる必要があります。それが修です。

教えには、一見、矛盾、対立しているようなものもあります。
でも、それはクイズの正解ではなくヒントなので、正解がわかると、矛盾していないことがわかります。
正解がリンゴだとして、出題者は、美味しい、丸い、赤い、酸っぱい、黄色い、と、ヒントを出していきます。
赤い、と黄色い、は両立しないのでは?と思っても、正解のリンゴにたどり着いたなら、どちらが正しくてどちらが間違いというのではないことがわかります。

仏陀の説く「空(くう)」と「一切衆生への慈悲」について、矛盾しているのでは、と思われる方もいらっしゃるようです。
しかし実際には、このふたつは相補的な関係で、空の理解も一切衆生への慈悲も、妨げとなるのは私の実体視、我執です。
空の理解が進めば、利他は容易になり、利他の実践によって我執が弱まり、空の理解が容易になります。

「仏性(ぶっしょう)」と「空(くう)」についても同様です。
一切衆生に仏性が備わっている、ということと、一切皆空は、一見、相反することを説いているようですが、そうではありません。
私は確かにある,という思い込みが「そうではない」ことを理解するのが、空性をさとるということです。
仏性は一切衆生に備わっているが、一時的な汚れによって覆われている、と説かれますが、その汚れというのは「私は確かにある」という思い込みです。
ですので、仏性が備わっていることを理解するのは空性、無我をさとった時で、その時は実際には「私の仏性」を理解するわけではありません。

では、なぜ仏性が説かれのかというと、
私たちは、「仏陀の境地に到達する」、「仏陀の境地を得る」、「仏陀に成る(成仏)」、という言い方をしますが、
もし、本当に仏陀の境地が修行によって獲得されるものなら、それは仏教用語でいう「有為(作られたもの)」で、一時的で、苦しみになってしまいます。作られたものは無常で、いつか滅びるもので、苦だ,というのが、お釈迦さまが常々説かれていたことでした。
仏陀の境地は作られたものではない、というのが、仏性の教えの核心です。
このことは、チベットの伝統で仏性の教えを学習する『宝性論』に説かれています。

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