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同じ花を見上げる

数年前に書いたオリジナル小説です。地球に暮らす女性が、異星人の男性と心や体を通わせようとする話。

――――――

同じ花を見上げる

「安心して。私に任せれば大丈夫だから」
 私が腰掛けるソファの下。床に膝を着いたまま座り込んだ男を見下ろす。自らの膝の上をじっと見つめていたらしい男が、静かに視線を上げた。私の言葉の意味を測りかねるように、その瞳は茫洋として何も映さない。これまでこの部屋に上げたことのある男たちだったら、愚鈍とも思えるこの反応を私は許せなかっただろう。
 だけど、仕方ない、と思う。彼はたった今、東京の夜景を見渡す高層マンションに灯る数多の明かりの中から、私の部屋を見つけて、その窓を叩いたばかりなのだから。
「私のこと、知らないよね?」
 表情の無かった彼の蒼白い顔に、疑問の念が浮かぶ。なぜそんなことを聞くのかと語っていた。答えるのは簡単だったけれど、私は彼の声をもっと聞いてみたくて、じっくり時間を掛けて選んだ言葉がその唇から零れるのを待った。
「……それは、あなたという個人を認識する機会がこれまでにあったか、という意味ですか」
 堅苦しい物言いに噴き出すと、彼はますます怪訝そうに眉を顰めた。
「えぇ、そう。何かしら知る術があったのかなって。だってあなた、この星の文化のことを学んでいたのでしょう」
「そう、ですが。文化というのはもっと広義の意味で」
「ごめん、わかってる。ちょっと意地悪してみただけ」
 初めて彼の瞳に困惑が浮かんだ。少しずつ、微かな感情の機微が見えてくる。もっとも、それは私の目がいいから気づけるような微妙な変化なのかもしれない。金と色と利権の絡む渡世で舞うには、目端が利かなければいけない。黒い世界の中の黒の違いを見分けられるくらいには。
「私ね、この世界では少し有名なの」
「有名? 重要な役目を担っている方、ということですか」
 そう思えば、彼はずっとわかりやすく、ともすれば純潔にすら見える。異なる文化で異なる空気を吸って育った、異星の人であるという壁を感じないほどに。
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」
「瑞江さんは、どんな役目を?」
「役目ね――」
 篠崎瑞江は、日本で五本の指に入るほどの知名度を誇るフリーアナウンサーだ。大手テレビ局のアナウンサーとして、朝の情報番組の顔を三年間務めた後、お昼の人気ワイドショーを担当。華やかな芸能人たちとも引けを取らない容姿と、切れ味のある返しが人気となり、タレントとしての仕事の依頼も増加。その人気を追い風に独立してからは、モデルや女優の仕事もこなすマルチな活躍を誇っている――というのが、篠崎瑞江という存在の説明である。
「メディアを通じて多くの人に情報を伝達をする役目、かな」
 あなたの星に、「報道」というものはある? そう尋ねると、彼は考えるように首を傾けた。見目はこの星の人々の中に混じって違和感がないように変化させたと言っていたが、表情や仕草も共通している。彼とのコミュニケーションに今のところの違和感はない。
「情報を伝える、という機関は存在します。ですがその役目を誰が担っているのかが公表されているわけではありません。有名、ということは瑞江さんは人々の前に姿を見せて伝えているということでしょう?」
「その通り。流石、察しがいいね」
「我々の星では、公的な団体として発表が行われます。たとえば今回の遠征も、星のすべての同士たちが知っています」
 彼の口ぶりから察するに、個人が公に名前を売ることが己の立場を強化していくような社会ではないのだろう。芸能という文化も存在しないのかもしれない。ともすれば、ここで私自身の立場を詳らかにしてもあまり意味はない。どこか肩透かしな、奇妙な感覚だった。
「じゃあ、私がその機関の一部だと思ってくれていい。機関は多くのメンバーで構成されているでしょう? それはここでも同じ。私は内部に顔が利くから、あなたの調査の役に立てると思うの」
 あなたにとって、この私を選んだことは当たりだった。
 言いたいことは伝わっていないらしい。けれど彼はどこか安心したように「ありがとう。よろしくお願いします」と答えた。彼の瞳は変わらず感情に乏しかったけれど、それは濁り気がないともいえるのかもしれない。彼の安堵が移ったように、私自身もいつもより肩の力が抜けていること――それから、初対面の男の前で、素肌を晒したままだということに気が付いた。
 
   ※
 
 自宅である都心のマンションに帰宅したのは、夜中の零時を過ぎた頃のことだった。頭の回転は鈍らず、けれど舌は回るようにと塩梅を考えて入れたアルコール。かつて私をバラエティの司会に起用してくれたプロデューサーは、今日も私を隣に置いて、上機嫌に喋っていた。悪くない手応えだったと思う。フリーになり事務所の後ろ盾を無くして以降、社交の場に出向いて味方を付けていくことはマストだった。
 帰り道のタクシーの中でも張り続けていた気を、ようやく緩めるのがヒールを脱いでから。このままソファに身体を預けて眠ってしまいたいが、そうはいかない。どんなに疲れて帰っても、化粧を落として、瑞江流スキンケアを実践しなければならない。私の宣伝した化粧品を使い、私の方法を真似て肌の手入れをしている女の子たちは沢山いる。
 腰を落ち着けないまま上着をハンガーに掛け、洗面台で化粧を落とし、素の顔のままリビングに戻ったときだった。
「すみません」
 はっきりと、人の声がした。瞬間的に振り返り、更に心臓が竦み上がる。後ずさった拍子にスリッパが滑り、転びかけたところを踏み留まった。私がそうして滑稽な動きをしている間も、目の前の光景は変わらない。それが却って私を冷静にさせた。十六階の高さの窓の向こうに、人が立っていた。
「大変驚かせてしまったようで、すみません」
 瘦せ型で背の高い男性だった。年は三十代半ば、私より少し年上くらいに見える。男性にしては細く量の多い髪が、夜風を受けて揺れていた。物理的な存在だから、幽霊ではない。それは一層恐ろしい結論だった。
 ストーカーか変質者? とにかく早く管理室に連絡を――。そう思ったところで気が付いた。このマンションは芸能人や著名人が多く暮らしていて、当然セキュリティ性も高い。建物の敷地内に侵入することすら難しく、昇ってこられるような外壁にもなっていないはず。
「……なんで。あなた、どこに立ってるの?」
「それも説明しますから、お話だけでも聞いていただけませんか」
 厚いガラスを隔てているのに、よく通る声。訪問販売の業者のような定型文句。恐怖の中にわずかに頭をもたげた好奇心が勝ってしまった。それが私と彼――ニニとの出会いだった。
 
 ニニは、遠く離れた星から地球の調査のためにやってきたのだという。
「四百年前? その間、ずっと宇宙船に乗っていたの?」
「はい。そうは言っても、そのほとんどを凍眠して過ごしていましたから、体感としてはそこまで」
 隣を歩くニニは、ごく普通の人間と変わりがない。現代の日本に生きる平均的な三十代の男性。そんな男が、篠崎瑞江と歩いている。週刊誌の撮影を警戒して、私は帽子を更に深く被った。
 それにしても、四百年って。日本ではようやく江戸幕府が安定してきた頃だ。その時代に既に、宇宙渡航を実現させているなんて。
「でも、それだけの科学技術があるなら、実地調査なんて手段を使わなくても済んだんじゃないの?」
「いいえ。四百年は我々にとってはそう長くはない時間ですが、この星の人々にとっては違うでしょう。離れた位置から観測できるのはマクロな部分のみ。我々が知りたいのは、科学技術や文化レベルの進化や変化なので、定期的に実地調査を行っているんです」
「地球を社会学的なアプローチで研究しているということ?」
 その問いの意味がわからなかったのか、ニニは首を傾けたまま黙った。
 ニニは地球を研究するプロジェクトチームの一員であり、研究を進めるためには地球人の協力を得る必要があった。そこで声を掛けたのが私らしい。といっても、それはまったくの偶然ではないのだという。
「まず、公的機関に訪問することはしません。国際的な問題に巻き込まれて危険な目に遭った同士もいますから。個人の、できるだけ地位があり裕福な、それでいて知的で善良な人を探します。都心の高層マンションはそうした層の人に出会える可能性が高いというのが定説です」
「大部分は合っていると思う。でも次からは研究者がいいんじゃない?」
「彼らは戸建て住まいの者も多くて見つけることが困難なのです」
「なるほど。だから私たちのような協力者を見つけて、そこから繋いでもらおうと考えるわけね」
 ニニは頷いた。だけど私は今回、誰かの紹介を依頼されたわけではない。
「ついたよ」
 まず最初に彼に頼まれた場所に案内をする。ガラス張りの建物を見上げるニニの透明な目が光ったように見えた。
 この荒唐無稽な話を信じることにしたのは、実際にニニが空中に立っているのを見たこと(あれは建物の外壁に沿っていないとできないことで、どこでも浮かべるというわけではないらしい)、それから、見目を変えるという能力を実践してもらったからだった。彼は数秒間、私を模倣して篠崎瑞江の姿になった。女性にもなれるなら、外を出歩く時はそうしてくれた方が助かると伝えた。だけどこの変身には体力を使うらしい。元の自分の体から自然に変えられる状態が一番負荷が少ないのだという。それがこの凡庸な、透明な目をした男。
「元の姿ってどんななの?」
「残念ながらこの星の人々には認識できないようです」
 それがどういう意味なのか、私には理解できなかった。ただ、異星人の真の姿を知れないのは残念に思わなくもない。
「でも、便利ですよ。この星の人々の身体は。私は好きです」
 好きです。それは初めて彼が見せたポジティブな感情のように見えた。そして今――私に連れられてやってきた都心の植物園にいるニニは、その時と同じ顔をしている。
 
「植物も研究対象?」
 しゃがみ込んだニニは、私の質問に答えない。彼はじっと、園内に流れる人工の小川やその縁に生える植物に見入っていた。平日の昼時。休憩を取りに訪れた人たちが、植物に囲まれたベンチに点々と座っている。彼らも皆、口数は少ない。一面のガラスから注がれる陽を取り込む植物たちの呼吸、水が葉脈を流れる音。聞こえないはずの音に耳を傾けているようにも見えた。ここでは、誰も私に気づかない。私は無数の呼吸の合間で、ニニの丸まった背中を見つめていた。
 彼が観察を終えたのは一時間も経ってからのことだ。
 とっくに飽きた私はベンチに座り、ニュースをチェックし、読みかけの本に目を通していた。幸い、今日は日中の仕事がない。昨夜はニニの話を聞いているうちに朝になっていたから、寝不足気味の頭がぼんやりとする。園内に注がれる白い光が柔らかい。その心地好さに身を委ねかけていた頃。
「お待たせしました」
「あの、篠崎瑞江さんですが?」
 目の前には、同年代の女性とニニがいた。あぁ、迂闊だった。普段はなるべく外で声を掛けられないよう、自分に気付く人に対するアンテナを立てている。それがすっかり緩んでいた。そのうえ、篠崎瑞江が男性と一緒にいる場面だ。私はニニに下がっているように目配せしたが、彼はその意味を正しく受け取れなかった。
「あ、えぇ、そうです」
「あぁ、よかった! 突然すみません、私、瑞江さんに憧れてて、SNSもフォローしてるんです。それで――」
 捲し立てる彼女は、背後に立つ男性の存在に気付いたらしい。はっとしたように顔を上げて、「あっ、すみません!」と恐縮したように首を縮めて引き下がった。気の利いた返事でもできればよかったのに、うまく言葉が出てこない。すぐに彼女は去っていったが、ちらりと振り返った時に見えたその目は好奇に光っているようだった。
 しまった。多分彼女は、瑞江に憧れるよくいるファンのうちの一人だ。だから見られたところで大した影響はない。そう思っても、自分の不覚に腹が立つ。今の私はただぼんやりと座っていただけだ。普段なら絶対、こんなミスはしない。
「瑞江さん、今の方は?」
「いいから。終わったなら行くよ」
 鞄に本を戻して立ち上がる。去りかけたところで、腕を掴まれた。
「っ、ちょっと!」
「すみません。待ってほしくて」
 ニニは困ったように眉を下げていた。私が大きな声を出したことが理解できない様子だった。それは当然だ。何故外で触れてほしくないか。なぜ人目を避けるのか。彼にはわかりようもない。
「……ごめん、どうしたの」
 座って、と促す。ニニは大人しく、膝を揃えて腰掛けた。
「どう、ということはなく。待ってほしいんですが、問題ありませんか?」
「それはつまり、ここにまだいたいという意味?」
「……はい」
 答えまでに一瞬のためらいがあった。そこに彼の本当の思いが滲んだことを悟る。
「――植物が好きなんだね。もしかしてだけど、今はまだ観光の段階? これ、仕事とは関係ないでしょう」
 図星だった。彼はゆっくりと顔をこちらに向ける。表情はあまり変わっていないのに驚いているのがわかって、なんだかそれが可笑しかった。思わず笑ってしまうと、彼は「おかしいでしょうか」と聞く。
「ううん。いいと思う、そういうの大事だよ」
 そう言ったら、彼は唇をきゅっと引き結んだ。私の言葉を噛み締めて味わっているように見える。彼はこの空間と同じ、あわい光を纏っているようだった。白いシャツは光の糸で織り込まれていて、それを植物たちが歓迎している。テクノロジーの発達した遠いところからきたのに、この人工的な小さい箱庭がよく似合っていた。
「故郷にも同じような植物が生えているの?」
「いいえ。ほとんどが――この星で言うところのエアプランツです。根を張れる土壌がないから、貴重なんですよ。過去の実地調査の中で記録された映像を見て、気になっていたんです」
「すごい喋るね。今まで静かだったのが嘘みたい」
「――おかしいでしょうか」
「だから、おかしくないって」
 いつの間にか私は励ますように彼の顔を覗き込んでいた。俯く横顔。白い頬に掛かる髪。この感情は、知っている。わかりづらいけれど、これはニニの劣等感の表れだ。
「……いいえ。瑞江さんがおっしゃるとおり、これは本業ではないんです。それに、私が担う市政の文化の研究は、プロジェクト全体の中ではあまり重要と見做されていません」
 この星の科学研究の進歩や環境そのものの観測の方がずっと重視されていてるのだとニニは語った。
「どうしてその二つなの? 地球を侵略しようとするときに、どこまで対抗しうる技術があるのか、侵略したとしてそこは住み続けられる星なのかということを理解したいから?」
 冗談のつもりだったが、ニニの視線は一瞬泳いだ。
「……我々はあくまで、この星の人々が動物の生態を研究するのと同じようなものだと聞かされています。ですがいずれそうしたときがくるのかもしれないと、研究者の間ではもっぱらの噂です」
 もしかしたら既に知っている同士はいるかもしれません、とニニは言葉を濁した。なんと、図星を突いてしまったのか。私は呆気に取られたあと、小さく笑った。こんなたちの悪い冗談が本当かもしれないと言われて、衝撃を受けていないと言えば嘘になる。だけど現在現地調査に出ているということは、持ち帰るまで侵攻は行われないだろう。最低でも四世紀の猶予はある。今生きている人は誰もこの世にいない。私はそれよりも、目の前の彼のことの方がずっと気がかりだった。
「ニニは、もっと重宝される方の分野に行こうとは思わなかったの?」
「求められる能力要件が違います。それに適合性の差もある。私には今の役目が向いていたんです」
 壮大なプロジェクトのはずなのに、小さな島国の小さな植物園でぼんやりと木々を眺めているだけのニニ。どこの組織にも集団にもそうしたメンバーは出てくる。もしかしたら彼のポストは閑職に近いものなのかもしれない。
 それに、口数の少なさや印象の薄さは、星の人々の特徴なのではなく、彼固有のものなのだろう。遠征メンバーに選ばれるくらいだから基礎学力は平均よりずっと高いはずなのに、社交術や政治性に欠け、自分の居場所を持てない存在。篠崎瑞江と正反対の男。
「……それを悔しいって思わない? もっと重要なポストにつきたいとか、権限を持ちたいとか」
「あまり考えたことがありません」
 なのにどうしてか、私はたまらなくニニという存在に気持ちを掻き立てられる。少し情けなく見える男が、いじましいとすら感じる。
「――私は、ここに来れて嬉しい」
 それでいいんです、とニニは噛み締めるように頷く。私を取り巻く世界に、こんな男はいない。濁流の中であっという間に蹴落とされるような存在だから。
 でも――
「これだけじゃないの、私が協力できること」
 彼には私がついている。微笑むと、またニニは困惑したように眉を八の字にして下げた。
「見返してみようよ、私とならできる。あなたのことを、あなたを馬鹿にした人たちにも認めさせるの」
 
   ※
 
「それで、その宇宙人男の面倒を見てるの?」
 よくやるねぇ、と静香は呆れたように息を吐いた。彼女の周囲はいつも名前と正反対に騒がしい。今日も、今や消息も分からない男との間にできた元気な小学生男子が友達とゲームをしている声が聞こえてくるし、静香の腕の中では、いつ機嫌が崩れるかわからない爆弾のような泣き声の赤子が眠っていた。
 快適なホテルのラウンジでも、接待の高級レストランでもない。ランドセルを背負っていた頃からの幼馴染が暮らす、小さな団地の一部屋に来ると、私も妙に開放的な気分になってつい声が大きくなる。
「宇宙人じゃなくって異星人! 宇宙に住んでるわけではないですし、それを言ったらこの星の人たちも宇宙人ですよって彼は言うんだよ。おかしいよねぇ」
 思い出して笑う私を、静香は「あんたがおかしいのは知ってたけどさ」と指す。
「今日はどうしてるの?」
「街の図書館に行くって言ってた。ここ最近ずっとそんな感じみたい。ぶらぶらして、気楽でいいよね」
 私のマンションは部屋数こそ少ない単身者向けだけれど十分に広い。ここを拠点にしたらどうかと持ち掛けたけれど、彼は「ホテルを手配済みなので」とすげないことを言った。篠崎瑞江の部屋を同じ男が何度も出入りするのは不味いので、それは歓迎すべきことだったはずなのに。一応連絡先は交換してあるけれど、今日一日の報告と明日の予定を簡単でいいから入れてほしい、と伝えた通りの事務的な連絡が来るのみ。変に頭硬いとこあるんだよねぇ、彼――と私は頬杖を突いた。
「信じられない」
「なにが?」
「だってさ、瑞江って相手にも完璧を求めてたじゃん。品性や知性がない男に色気はない、とか。相手を退屈させないサービス精神が大事なんだとか」
「ニニは知性は高いと思うよ」
 擁護したことに驚いたらしい。静香は不気味なものを見るような目をして、初恋じゃん、と呟いた。
「……あのねぇ、何か勘違いしてる。そういう好きじゃないんだよ。私はただ、安心するっていうか。珍しくて新鮮っていうか」
 最初は打算もあった。彼が異星からきた存在なのだと信じた時から、ここで恩を売ることは何かのメリットになるかもしれない。いいコネクションとなるかもしれないと。
 だけどどうやら彼は、コネや打算とは無縁の人物らしい。それなのにここまで興味を持つのは、彼が異星人であるという背景があるからか――それとも、これまで切り捨ててきた人の中にも、面と向き合って話せば、こんなふうに心が動かされる人がいたのだろうか。
「藤の花がね、好きなんだって」
 一昨日のニニからの報告は、これまでの淡泊なものと違っていた。添付されていた写真。それは図書館で撮影されたらしい本の一頁だった。この国の文化を紹介するありきたりな冊子のようなもので、歌舞伎の演目が写真と共に掲載されている。
 豪奢な和服を着て、笠を目深に被っている女形が一人。肩にかけた棒から背中の帯と重なるように垂れるのは藤の花。背景にも同じ花があしらわれている。藤娘の舞台写真のようだった。
 ――歌舞伎が観たいの?
 ――いいえ。この花は、どこで観られるのでしょう。
 今は少しずつ寒さの近づく秋だ。藤の見ごろまでは、もうしばらく季節を待たなければならない。その私の返信に、目の前にいないはずのニニが落胆しているように見えた。
 ――今夜空いてる? ご飯食べに行かない?
 その誘いに、ニニは乗った。彼もまた、さみしいと思っていたのかもしれない。
「藤の花は、以前写真でも見たことがあったんだって」
「藤って、あの紫の? ぶら下がってるやつだよね?」
「そ。この星の図鑑が向こうにも出回ってて、ずっと憧れてたって」
 でも、その図鑑は破棄されてしまったのだとニニは言った。蔵書の整理という話ではない。「こんなものを見ているべきではないと言われたんです」――ニニは、自分の顔よりもずっと大きな皿の中心に置かれた小さな白身魚に手をつけないまま、ぽつりと零した。
 ――こんなものって。あなたのだったんでしょう? 誰がそんなことを。
 ――共同体の同士です。
 ――同士って呼べるの、それ。
 ――……我々は、共同体のメンバーという意味で同士という言葉を使います。お伝えしたように、文化的なものはあまり価値を見出されていないのです。
 ――植物は環境や生物の生態と近い分野でしょう。
 ――花を愛でるというのは、文化的な見方です。
 ――……ニニは、花を美しいと思ってる。そして美しいものが好きなんだね。
 はい、と頷くまでに微かな間があった。それでも彼は肯定した。その時、初めて目が合った気がした。
「私、味方になりたいの」
 以前番組の取材で訪問した、基礎科学研究の教授には連絡がついている。篠崎瑞江が直接、個人的に話を聞きたいと言えば、彼らはにわかに色めきだった。ニニを研究者と会わせて話を聞き、そこから更に別の専門家を紹介してもらうこともできるかもしれない。
「まずは、あの世界で評価されている分野で、彼に一定の功績を上げてもらう。文化の研究だけしていたんじゃ、そこでどんなに結果を出しても見向きもされないもん」
 結局は、何を語るかではなく誰が語るかなのだ。それは異星でも同じこと。一度ニニが一目置かれるようになれば、ニニの嗜好への見方だって変わるはずだ。
「彼の価値を、その共同体の同士って奴らに知らしめたい。私ならそれができる」
 しかし、私の話を聞く静香の反応は冷めたものだった。
「それ、どうなんだろう」
「どういうこと?」
「私、瑞江に援助するって言われたの断ったことあったよね。覚えてる?」
 突然、忘れていたような過去の話が出てくる。勢いを削がれた私は不満だったけれど、記憶を辿ってみた。彼女が今の夫と再婚する前、男の子一人を抱えてシングルマザーをしていた。そのときの困窮を見るに見かねたのだ。しかし彼女はそれを断った。
「……思い出した、けど、それがどうして」
「私、自分を不幸だと思っていない。この子たちがいて、宇宙の誰より幸せって思ってる。だから瑞江と友達でいられるのかもしれないね」
 確かに私は、彼女のほかに学生時代の友人は残っていない。だけどそれは自分から離れていった結果だ。私と共にいることが負担になる感覚は理解できるし、私から見ても同じこと。仕事観も金銭感覚も生き方も合わない人と関係を続けることは、大人になると難しい。ただし、静香だけは違った。彼女の変わらなさ、頓着の無さは居心地がよくて、それは多分、彼女も私に対して同じように感じてくれている。
 そう思っていただけに、静香の断言するような口調は初めて聞くものだった。
「でも、この生活に介入してくるようなら別」
「介入って。言いたいことはわかるよ? 幸せの尺度は人それぞれってことでしょ。でも金銭的に余裕があるとか、自分が尊重されているとか、それは基本的なことで」
 しかし静香は首を振った。「ニニさんがどう思うかはわからないけどね」と前置きした上で、私の目を見据える。
「間違えても、失敗しても、自分自身で守りたいんだよ、私は私のこの小さな宇宙を」
 彼女の腕の中で、眠っていた子どもがうああと小さな声を上げた。
 
   ※
 
 ニニと出掛ける予定ができたのは、二週間後のことだった。ニニに会わせようとしている研究者と私との予定がようやく合ったのだ。その間も私はカメラの前で笑い、美容雑誌のインタビューで女性の生き方について語り、香水と整髪料とアルコールのにおいがする社交の場を飛び回り、腰や肩に回された腕から静かに抜け出していた。
 ニニが何をしていたのかはわからない。聞いても曖昧に首を振るだけだった。きっと初日と同じように草花を見て回っていたのだろう。それを言いたがらないのは、故郷で馬鹿にされていたことが原因なのだと思うと痛ましかった。
「でも大丈夫だから。今日もうまくいく」
 彼に、私のような器用さがあればいいのにと思う。
 彼のような人には、何度も出会ったことがある。求められていることや評価されることが何かわかっているなかで、自分の趣向や興味にどこまで従順になるか。このコントロールが下手なのだ。いいじゃない、完全に隠すわけじゃなくても。最初は求められてることを完璧にやって、そのあと徐々にこだわりを出していけば。一度認められてしまえば、あとは味とか癖とかギャップだとか言って面白がってもらえる。重宝されることもある。今は陳腐になってしまったけれど、可愛いアイドルが実はオタクっていうのだってそれと同じでしょう。
 そんなこともわからないなんて馬鹿な人。そうやって白けた目で見てきた人たちと、ニニは同じはずだった。それがこうも気になるのは、異星人だから? いいえ。もしかしたら、化粧を落とした何者でもない私のままに出会ったから、何かが違ったのかもしれない。
「今、どこへ向かってるんです?」
「説明したでしょう。基礎科学の研究所。今日会う人は大学教授なんだけどね、大学ではなく外部の研究所にいるタイミングだから、今なら会いやすいって」
 都心を離れ、県を跨いだ先を目指してタクシーは進んでいた。教授が大学外を指定してくれたのは、人目を引くことを避けたい私の立場を気遣ってのことだろう。ありがたい申し出だった。しかしニニは、私の答えに納得していない様子で首を捻った。
「大丈夫? わかってる? 教授のデータや記事は送ったよね。あなたの関わるプロジェクトについては、あなたから説明しないと」
「いえ、そうではなくて」
 遮る声は、思いのほか明瞭だった。
「この車はどこの土地へ向かおうとしているのかと」
「……千葉、だけど」
 どうして土地など気にするのだろう。一瞬考えて、すぐに思い至った。
「あ、もしかして、海外がよかった? そりゃあそうだよね、あなたの同士はきっと国際的に名のある研究者のもとを訪ねてる。勿論今日会う先生も、海外で評価されている論文を書いてるみたいだけど。ごめん、大見得切っておいて私」
「――すみません、街を出る前に、コンビニに立ち寄ってもよいでしょうか」
 コンビニ。ひどく世俗的な言葉に、突然出鼻を挫かれた感覚だった。だけど断るようなことではない。運転手にその旨を告げて、次に見えたコンビニの前に着けてもらった。
 先に降りたニニが、私が降りる様子がないことに気付いて「瑞江さん、何か買ってきますか」と車内を覗き込んで尋ねた。細長い身体を屈め、上から私に身を寄せる。目の前に近づく透明な瞳に思わず動揺して「あ、私は」と答えに詰まった時。
 彼の背後から聞こえたのは、カメラのシャッター音だった。
 カメラを下ろした人影が、背を向けて立ち去ろうとするのが見える。私の表情に気が付いたニニが、機敏に振り返りそのあとを追った。
「っ、待って……!」
 慌てて飛び出したけれど、ニニの背中は既に遠い。人混みを掻き分けてその姿を追う。ヒールが響く。人々が振り返って怪訝な顔をする。それに構わず、私はニニを追って、呼んだ。
 やがて彼は雑踏の中で立ち止まった。息を切らせながらそばに寄ると、反対に彼はまったく乱れていないことに気付く。白いシャツに染みる汗の一筋すら見えない。
「見失ってしまいました、ごめんなさい」
「……どうして」
「あのカメラマンの自動車が我々を追尾していることには気づいていました」
「えっ……」
 言われてみて初めて、私自身少しも背後を気にしていなかったことを思い出す。いつもならそんなミスはしない。
「瑞江さんが情報の発信者として個人で人前に立っているということを聞いていました。それはつまり、あなた自身は代弁者だとしても、恨みを買ってしまいやすい立場にあるということではないでしょうか。出歩くときも周囲を気にしていたのはそのためだったのかと、今更気づいたんです。以前植物園で人に話しかけられた時に、気持ちが乱れていたのもそれが原因でしょう」
 気づかなくてごめんなさい、と相変わらず表情が見えないまま、だけど真摯であることが伝わる謝罪をニニは述べた。それはややずれた推測だったけれど、そんなことはどうでもいい。
「ごめんなさい、私――私のせいで迷惑を」
「瑞江さん、今日はもう帰りませんか」
 ニニが私の言葉を遮るのは、今日で二度目。何かが軋む。掛け違えている。
「……いいえ、私のことは気にしないで。恨まれて狙われているとかじゃないから。今度はちゃんと気をつける。それよりはあなたのことを」
 挽回するように私は喋った。そうでなければ、この歪みが広がってしまうような気がしたから。だけど私の言葉は空虚で、彼に何の効果ももたらさない。
「帰りましょう」
「でも私、あなたのこれからのことを」
「帰りましょう、瑞江さん」
 
 教授には断りと謝罪を入れた。多忙な人だから次にいつ会えるかわからないし、こんな不義理をしてもう会ってもらえないかもしれない。以前の私にはそれが恐ろしいことだったはずなのに、今はそれどころではなかった。
 帰路、揺れる車の中で、私の耳元に静香の言葉が繰り返していた。
(――彼は本当にそれを望んでる?)
 人目も憚らず彼の腕を引いた私は、自宅マンションに引きずり込んだ。玄関で靴を脱ぐことももどかしいまま。私が彼の身体を抱きしめ、熱のこもった掌でその腕や背を撫でても、彼は動揺しなかった。
「どうして望んでくれないの」
「大体あなたは私の部屋にも泊まらない」
「あなたはもっと得できる。評価してもらえる」
「もっと望んで、もっと欲しがってよ。私は、篠崎瑞江なんだよ」
 この世には私への羨望が溢れている。多くの女性が私のメイクを真似て、身体を絞り、私の生き方や考え方を自分の言葉のように語る。私を抱きたい男はいくらだっていた。それなのに、磨かれたこの身体も、肌も、全部、この焦燥に渇いてしまう。だから潤して、満たしてほしいのに。
「ごめんなさい。お世話になったのに、希望に沿えなくて。私はもうあなたに迷惑は」
 その頭を掴んで引き寄せた。唇を重ねて、やかましい言葉をすべて奪う。この行為の意味も彼にはわからないかもしれないと思っていたけれど、そうではなかった。
 求められていることを理解したらしい彼は、戸惑うように不安定に揺れた私の体を抱きとめる。体温が近づく。それだけで体の芯から震えるようだった。
「わかるの? 人の体のこと」
「この身体になったときに、自然と連動するようになっているようです」
 そういうことを聞きたかったんじゃないけれど、これ以上言葉を重ねたら逃してしまう気がして、私はまた彼の唇を塞いだ。
 
 結局、私が一番欲しかったものはこれだったのだろうか。彼の力になりたいと、自分を突き動かした衝動が肉欲だったなどという陳腐な結論に落ち着けたくないと思う。だけど妙に納得している自分がいた。それは手に入ったからではなく、どうしたって手に入らないものがあるということを思い知らされたからだった。
 彼はただの一度も声をあげなかった。ただ硬く瞑った目が微かにひらいたとき、虚空のようだった瞳に、孤独の片鱗が揺れているように見えた。
「カーテンを開けてもいいですか」
「……眩しいと思うよ」
 夕日が沈む頃だった。東京を見下ろすこの部屋からの眺めは、無数の窓ガラスの反射が見えて目に痛い。だけどニニは遮光のレースカーテンを開けて、強い西日に浸された景色をしばらく眺めてから、私の隣にまた横たわった。
「本当に眩しいですね」
 そう言いながら目を細め、私を一度も振り返らない彼は、笑っているような気がした。
 でもそれは、私がそう思っているだけなのだということを、もう知っている。彼の透明な目の中に、私は見たいものを見た。たとえそれがたまたま合っていたとしたって、そこにある感情は彼一人のもので、誰かと分かち合うことはできない。
 それは、四世紀かけて辿り着く異星までの距離よりもずっと、遠い隔たりのように感じた。
「眩しいよ、ニニ」
 私は彼の感性が美しいと思う。だけど彼が美しいと思うものがわからない。その瞳の先の藤の花を思う。いつかの番組のロケで訪れた。レポーターとして紹介をしたはずなのに、覚えているのは共演していた芸人の振りが下手でやりづらかったことだけだ。一時、交際の真似事をしていた俳優とドライブで訪れた時、私は藤の花を見上げながら、いつこの人を切るかを考えていた。
 どんなに視線の先を見つめても、同じ花を見上げても、私たちは同じものを見ることができない。
「藤、見れるといいね」
「うん」
 うん。えぇ、でも、はい、でもない初めて聞いた気の抜けた返事は、無垢な子どもの声だった。
 
 
 


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