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本当の<船出>とは —辻征夫の詩「船出」について—

 今回は、詩人・辻征夫の「船出」という詩について見ていきます。


   船出 辻征夫

  たとえば医師のリブシー先生
  郷士のトレローニさん スモレット船長
  立派な人はほらこんなにいたのに
  どうしてぼくたち あの無頼漢たち
  海賊の方にあこがれたのだろう
  頬に刀傷 タールまみれの髪を肩までたらし
  ベンボー提督亭でラム酒びたりのビリー
  (おい小僧 おれをその男のところへつれてゆけ
  さもないと腕をへし折るぞ)と言った盲目のピュー
  そしてヒスパニオラ号の料理番
  いまも生きているにちがいないジョン・シルバー
  捕まれば処刑場に高く吊るされるかれらに
  ぼくも従兄弟もあこがれて
  海賊になろうねと誓ったのだったが
  もう何年になるだろう
  病院のベッドで眼を見開いたままの従兄弟に
  ぼくはささやいた
  ぼくたち海賊にもならず
  妻を娶り 家庭を作り 働いたね
  高く吊るされることはなかったけれど
  いつのまにかぼろぼろになっちゃった
  じゃ ひとあし先に
  船出するんだね 船長
  月も明るく
  海は静かだよ


 この詩の前半部分に出てくる数々の人名は、皆、小説『宝島』の登場人物の名前です。語り手と彼の従兄弟は、幼い頃、その『宝島』の登場人物の中でも、良識を持つ人々の方ではなく、無頼漢である海賊たちの方に憧れたのだそうです。大きくなったら海賊になろうね、と誓い合った、語り手と従兄弟。彼らは、そんな他愛もない夢をいつしか忘れ、現実に忙殺される大人になりました。そして今、病院のベッドの上で息を引き取った従兄弟を前に、語り手はこのように告げます。「ぼくたち海賊にもならず/妻を娶り 家庭を作り 働いたね/高く吊るされることはなかったけれど/いつのまにかぼろぼろになっちゃった/じゃ ひとあし先に/船出するんだね 船長/月も明るく/海は静かだよ」。語り手の、亡くなった従兄弟に対するこのような呼びかけで、この詩は幕を閉じます。
 論者は、この詩を大変優れた作品として、高く評価しています。カテゴリーに分類するならば、人生の厳しさやほろ苦さを感じさせてくれる詩、ということになるのでしょう。しかし、そうした概念そのものを読者に想起させるというよりも、むしろ概念を飛び越えた、ジーンとした感情を、読者の胸に呼び起こしている、そのような作品であると思います。
 そんなこの詩に、しかし、あえて解釈を施してみましょう。
 この作品では、人が亡くなることを一つの<船出>に喩えています。普通の論理では、この作品において、人の死というものは、あくまで<船出>に喩えられているだけにすぎず、<船出>そのものではない、ということになります。しかし、『宝島』の船乗りたちが航海へ出ていく、実際の<船出>よりも、人の死という<船出>の方が、<船出>という概念の本質を突いているのではないか——、そう思わせる力が、この詩にはあります。その根拠となるのは、大人は皆、人生の苦労というものを背負っている、という事実です。
 この詩の従兄弟だけではなくて、大人は皆、苦労する毎日を送っています。だから、ある意味では、人は皆、「ぼろぼろに」なって死んでいくわけです。そのことを、ここでは、<船出>と名付けている。つまり、<船出>という言葉の意味を塗り替えているのです。「航海のために船を出すこと」から、「苦労の果てに一生を終えること」へと、意味を更新させているのです。
 この意味の更新に附いていけるのは、「ぼろぼろに」なる毎日を送っている大人だけです。大人は、先ほど触れた、この詩を読んで湧き起こる「ジーンとした感情」を介して、この更新された<船出>の意味を理解します。そのような読者にとっては、<船出>という語は、もはや航海に出ることを指す言葉ではなくて、苦労を重ねて死んでいく、人間の普遍的な運命を表す言葉として感じられることでしょう。
 このように、この詩は、読者の胸に感動を呼び起こすと同時に、<船出>という言葉の意味を塗り替える働きを持った作品であると言えます。

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