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社会によって付けられた傷 —小池昌代の詩「溟(くら)い水」について—

 今回は、詩人・小池昌代の詩「溟(くら)い水」について見ていきます。



   溟(くら)い水 小池昌代

  地上で雨があがる
  そして地の下では
  透明な引力が雨のようにふっている

  「甘い兵隊たちがわたしの背中を
  やさしく踏みつけて通り過ぎていった」

  かつて「孤島」と人々に呼ばれた
  もっともうつくしい女優は死んだ

  世界の中心に廃屋がある
  そこではかすり傷がいつまでも治らない

  昨日の夢のなかを、いまだ行き迷う
  一匹の犬が、しっぽをたれて
  水たまりの溟い水をぺろぺろなめている
  するとしずかにうらがえる窓

  廃屋の内側で雨がふりはじめる

  私より背の高い水を「配偶者」として
  厳粛な婚姻が予定されるだろう

  父は父父
  母も母母
  二倍ずつ増えていく
  増殖がやまない
  部屋は妹だらけ姉だらけ叔父だらけ
  みんなで祝う、不機嫌な木曜日

  夢の先端から例外の船がでる
  「蛋白質」というあだ名の少年をのせて

  けもののにおいが床をひくく流れ
  「孤島」の残した日記の鍵が割れる
  世界の中心で廃屋が消える

  暗緑色の木立が濡れている
  「孤島」と「蛋白質」は手を取り合って
  跳ねをあげながら泥の道をゆく
  笑いながら振り返り、振り返っては笑う

  「ふかいふかいプールに降りていくのです
  梯子を使って。
  けれど、どうしても水まで届かない」

  私の顔がある
  深い水のうえに
  紺色の水着を着て
  もう六十歳
  雨は上がったのに
  父も母もいない
  犬も


 この詩を一読した際には、これは到底読み解くことが不可能なのではないかという気持ちになってしまいました。それくらい、この詩には、分からない要素が多いのです。そのように、分からない箇所がたくさんある詩を読む際は、まず、テーマが何なのかを突き止めることが大切です。この詩の中で、テーマ性を感じる箇所というのは、

  私より背の高い水を「配偶者」として
  厳粛な婚姻が予定されるだろう

  父は父父
  母も母母
  二倍ずつ増えていく
  増殖がやまない
  部屋は妹だらけ姉だらけ叔父だらけ
  みんなで祝う、不機嫌な木曜日

 という部分です。この内の、「父は父父/母も母母/二倍ずつ増えていく」という表現は、結婚をして相手の親と家族関係になるという事柄を描いているのではないかと考えられます。また、婚姻をする予定の「私」が描かれていることから、この詩は「私」の結婚というものをテーマにしているらしいと言えます。
 その上で、「婚姻」という語には「厳粛な」という形容詞が冠せられていて、婚姻というものを皮肉るような口調が認められます。さらに、本来喜ばしいことであるはずの、結婚により家族が増えていくという事柄を、「増殖がやまない」と表現していること、また、祝いの場であるのに、その席に並ぶ人々の感情を「不機嫌な」と描写していることから、次のようなことが言えます。すなわち、この詩は、婚姻、つまり結婚というものをテーマに取り上げながらも、その結婚を批判する姿勢を根本に据えている作品なのではないか、ということです。そう思いながらこの詩をもう一度読むと、作中には、婚姻を経ずに結ばれている一対の男女が登場することに気づくでしょう。
 その男女とは、「孤島」と呼ばれた女優と、「蛋白質」というあだ名の少年です。この二人については、

  「孤島」と「蛋白質」は手を取り合って
  跳ねをあげながら泥の道をゆく
  笑いながら振り返り、振り返っては笑う

 という描写があり、彼らの様子がいかにも楽しげであることから、二人は希望に満ちた道を歩んでいるのだと分かります。そのことを裏付けるのが、語り手は結婚しなければならなかったのに対し、この二人はそうではない結びつきを果たしているという事実です。この詩の語り手は、この「孤島」の歩む道に憧れを抱いているのだと想像されます。そう考えると、この女優が人々から「孤島」と呼ばれたというエピソードも、この女性の、超然として我が道を行く、颯爽とした姿を想像させます。そうした人物は、往々として、一匹狼のような孤独な立場になりがちですが、自分の行く道に確信を抱いているため、幸福感に満たされた人生を送るものだと言えるでしょう。「孤島」は、そのように、結婚という一般的な道を選ばずに生きる女性でした。論者自身は、結婚や家族制度というものは社会を構成する大切な要素であると考えていて、彼女の生き方に必ずしも諸手を挙げて賛成する者ではありませんが、それでも「孤島」のことを格好良い女性であると感じます。

  「甘い兵隊たちがわたしの背中を
  やさしく踏みつけて通り過ぎていった」

 というのは、おそらく「孤島」の「日記」の内容だと考えられますが(「日記」の存在は作中で仄めかされています)、これは数々の男たちとの恋愛の記憶を綴ったものでしょう。このような「孤島」の生き方が一般的でないことは、「例外の船」という表現からも分かります。
 そのように我が道を行く「孤島」に対し、語り手は、ついに、結婚というありふれた道を選んでしまうのでした。そのことは、語り手の心にある変化をもたらしました。
 それについて考察するために、まず、結婚する前の語り手の心情を見てみましょう。

  世界の中心に廃屋がある
  そこではかすり傷がいつまでも治らない

  昨日の夢のなかを、いまだ行き迷う
  一匹の犬が、しっぽをたれて
  水たまりの溟い水をぺろぺろなめている
  するとしずかにうらがえる窓

  廃屋の内側で雨がふりはじめる

 とあります。この箇所について順番に考察していきましょう。
 そのために、まず、作中の事実関係を把握しておく必要があります。語り手は、ある日、家族の前で婚約者を紹介しました。それが、「不機嫌な」と形容される「木曜日」の話です。この、「犬」が水たまりをなめている場面には、「昨日の夢」という描写があり、この「昨日」とは「木曜日」のことを指していて、犬が水たまりをなめているのは「木曜日」の翌日であると考えられます。なぜなら、この家族との集まりは、語り手にとって不快なものであったため、翌日になってもまだそのことで思い悩んでいたのだと推測されるからです。それが、「昨日の夢のなかを、いまだ行き迷う/一匹の犬」という表現になっています。「犬」とはすなわち語り手の分身と思われるのですが、それについては後で説明します。いずれにせよ、もう一度繰り返すと、語り手は「木曜日」に家族の前で婚約者を紹介し、その翌日に、「犬」が水たまりをなめているのだと考えられます。
 次に、作中において、語り手が、結婚相手のことを「私より背の高い水」と表現していることに注目して下さい。「私より背の高い水」とは、もちろん、「私より身長の高い男性」という意味ですが、ここでは、「私の身長よりも深い水」というニュアンスを含んでいます。その「深い水」とは、語り手の身に降りかかった「雨」、つまり地上に降る「雨」のことを指していると考えられます。なぜなら、「深い水」(婚約者)と会った翌日には、地面に水たまりができているため、「深い水」とはすなわち「雨」のことであると考えられます。したがって、婚約者は「雨」に喩えられているのだと分かります。
 その地上の「雨」が止むと、今度は地下に「雨」のような引力が降ります。この地下に降る「雨」(引力)は、地上の「雨」と対の存在として登場すると考えて良いでしょう。地上の「雨」とはすなわち、婚約者のことでした。これは、結婚というものが降らせる「雨」であると考えられます。そのような結婚という名の地上の「雨」と対になっているのは、結婚への批判であると推測されます。つまり、結婚へのアンチテーゼが、地下に降る「雨」なのです。この、地下の「雨」は、結婚という問題が持ち上がった時、その反動として降るものです。なぜなら、地上の「雨」が上がると、地下には「雨」のような引力が降る、と作中には綴られているのですから。つまり、結婚を控えた女性が、「自分にとって、結婚という道は幸せな生き方なのだろうか」という疑問を抱くという現象が、ここでは描かれているわけです。
 さて、やっと引用部分に辿り着きました。「昨日」の「雨」の影響を受けて、世界の中心に存在する「廃屋」の内側で雨が降り始めます。この、「廃屋」の存在している「世界の中心」とは、一体どこを指すのでしょうか。それについては、文字通り、私たちの住むこの地球という球体の中心部を指すと考えたいと思います。なぜなら、作品冒頭には、「地上」とか、「地の下」とか、「引力」などの表現があるからです。よって、先ほどから見てきた、地下に降る「雨」とは、地球の中心に存在する「廃屋」に降る「雨」と等しいのです。
 では、「廃屋」や「犬」は、作品上で何の意味を持ってるのでしょうか。先に結論から述べると、「廃屋」は語り手の社会に対する反抗心の比喩として、「犬」とは語り手の分身のような存在として、それぞれ機能していると考えています。「廃屋」に降る「雨」は、すなわち地下に降る「雨」なので、結婚へのアンチテーゼです。したがって、「廃屋」は、そこに降る「雨」とセットになることによって、社会への反抗心の象徴として機能するのです。一方、「犬」というのは、地上に降った「雨」の残りである「溟い水」をなめている存在です。この「溟い水」というのも、地上の「雨」の残りなので、つまり結婚のことを指し、この箇所は、「昨日」の家族との集まりの影響で、語り手が結婚について思い悩んでいることを表しています。つまり、「犬」は、地上の「雨」や地下の「雨」という一連の喩えとは少しレベルの異なる、具象の存在として登場しているのです。
 そのように、「廃屋」、つまり地下では「雨」が降っていて、また、「犬」は水たまりをなめていたのでした。この二つのことは、語り手の胸に、結婚という制度への批判がよぎったことを示しています。しかし、語り手が結婚生活を開始すると共に、語り手の心に一瞬だけ宿ったそのような炎は掻き消えてしまうのでした。
 このように、この詩では、語り手が、一瞬だけ批判精神を抱き、覚醒するという状況を描いています。その覚醒とは、具体的には、結婚制度への批判が語り手の胸をよぎることを指します。しかし、そのような反抗心は、語り手が結婚することにより、再び眠ってしまいます。

  けもののにおいが床をひくく流れ
  「孤島」の残した日記の鍵が割れる
  世界の中心で廃屋が消える

 この「けもののにおい」とは、おそらく、語り手とその夫のことを指していて、二人の初夜が仄めかされています。語り手が結婚し、夫婦の生活へと踏み出した途端、世界の中心に存在していた「廃屋」も、そこに降る「雨」も、消えてしまいました。これはつまり、語り手の社会への反抗心が消え去ってしまったことを意味します。また、「孤島」の考えを覗くことを可能にする唯一のアイテムである、「孤島」の日記の「鍵」も割れてしまい、語り手は二度と先進的な女性の頭の中を覗き見ることはできなくなりました(この、日記の鍵が割れるという描写と、廃屋が消えるという描写が連動していることから、「廃屋」とそこに降る「雨」が、語り手の反抗心の象徴であるという説が補強されます)。これはつまり、せっかく覚醒した語り手が、結婚をしたことで、再び、世の中の常識に縛られた考え方しかできないようになってしまったことを意味します。

  「ふかいふかいプールに降りていくのです
  梯子を使って。
  けれど、どうしても水まで届かない」

 この表現も、語り手が二度と「廃屋」に降る「雨」に触れることはできなくなったことを表しています。「ふかいふかいプールに降りていく」とは、ここでは、地中の世界へ入っていくことと等しいのです。そのように、地中深く潜っていき、地球の中心部に辿り着いても、そこに雨の降る「廃屋」はありません。そのことが、「水まで届かない」という表現を生み出しているのです。
 そして、作品の末尾に辿り着きます。

  私の顔がある
  深い水のうえに
  紺色の水着を着て
  もう六十歳
  雨は上がったのに
  父も母もいない
  犬も

 語り手は、結婚生活を送り、すでに六十歳を迎えていました。かつて、水たまりの「溟い水」をなめて、結婚することは果たして幸せなのかという思索に耽っていた、「犬」としての自分はもういないのでした。ここで、語り手は「水着」を着ているため、プールにいるのだと分かります。彼女は、いまだに「深い水」、つまり地上の「雨」である「配偶者」と共に生活していました。彼女は、ついに、自分を貫くことなく、世間に合わせる人生を送ってしまったのです。
 さて、この詩の特徴は、結婚するという行為を、社会によって「傷」を付けられることだと捉えている点にあります。「世界の中心に廃屋がある/そこではかすり傷がいつまでも治らない」とあるため、この「傷」に自覚的な存在が「孤島」のような女性であると言えるでしょう。一方、「傷」に対して無自覚で、痛みすら感じていない存在が、語り手のような女性なのです。尤も、語り手自身も、一瞬だけ覚醒した際は、この痛みを感じていました。しかし、その痛みは、「傷」への自覚、つまり社会の方が間違っているという自覚には至らずに、消えてしまいます。
 このように、この詩は、結婚制度への鋭い批判を核に持つ作品であると言えます。


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