「知ってるつもり 無知の科学」を読みました

職業柄結構何でも知っていそうと思われることがそこそこあるように思います.学生の頃クイズをやっていたせいか,単語と1エピソードのみ知っていて1往復くらいは話を合わせられる話題が多いのも拍車をかけているかもしれません(2往復目に化けの皮がはがれる.苦笑).

この本は「人間は個人では理解できていることはほとんど無いのだけれども,そのことに自覚的であることは難しい」,簡潔には「無知の無知」について,具体的なエピソードを心理学研究の実例に基づき豊富に示してくれます.

「知っていることの範囲,知らないことの範囲に自覚的である」というのはコンパクトに「無知の知」と呼ばれていて,高校倫理の超序盤,ソクラテスと合わせて勉強する概念です.私自身は高校3年で倫理を勉強したときに「それはそう」という程度にしか感じませんでしたが,実際実感するのは大学院で研究を始めて論文を書く段階に入ってからでした.

実験の準備ってこんなに難しいの?ぜんぜん手順がわからん!

論文ってどんだけ読めばいいの?きりがないじゃん!

そもそも個人が理解できる範囲と量には限界があります.人間社会全体としては個人の理解力からは信じられないくらい高度なシステムが運用されているわけですが,それは人間が社会的な動物であり,社会を形成して不完全な知識を補いながら発展してきた結果であるわけです(そうしたことを納得できる事例が数々紹介されます).その機能の背後の構造や設計がわかるのはほんの一握りの専門家ですが,むしろそうであるからこそ高度なシステムが成立するわけですね.

したがって個人の理解力の限界そのものは問題ではなく,システムをうまく使える程度の理解とシステムを作れる程度の理解には大きな隔たりがあることに自覚的かどうかが重要である,という本書の主張が続きます.「無知の知」の態度を練習して,自分と他人の知識を精度よく区別しよう.よくわかっていないことに対する態度,特に攻撃的な態度を改めよう…という方向に展開します.本書での事例紹介の一つは,「ある政府の判断を批判している人の多くがその判断の意味を理解できていなかった」という笑えるような笑えないような調査結果です.

ただ,自分と他人の知識を精度よく区別できるかどうかは個人の資質や訓練に依存するものです.自分と他人の知識を区別していないことはある種の知的な冒険心を持つとも言い換えられます.こういった人々の行動が偉大な発見につながってきたり,これからもつながるかもしれないよね,というエピソードで本書が締めくくられています.

多様である個々人,補い合っていい社会になるといいですねぇ.

(2023年3月読了)

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