発達障害日記0517(障害の統合モデルの話)

 発達障害的な記録を書き溜めておこう&発達障害的脳内多動のアウトプットの書き散らしをしようというこの日記ですが、同時に福祉を学ぶ大学生の日記でもあります。
 というわけで、本日は習ったことのアウトプットも兼ねて発達障害者の実感を綴っておこうと思います。障害の統合モデルの話。

・大前提として、障害の捉え方には医学モデルと社会モデルがありますが、さらに統合モデルもあります

 まず、障害の「医学モデル」「社会モデル」を踏まえてから「統合モデル」の話をしないといけません。

 まず、障害の医学モデルとは、例えば両足がマヒしたこと、そのため歩行不能になること、こういった物理的な不利益からスタートして様々な不利益を受けるという視点。個人因子(足が動かない)に着目しています。1980年にWHOで試案が発表されました。ICIDH、国際障害分類と言います。

 社会モデルとは、医学的なこと(足が動かない)を原因とし、両足マヒ患者が車いすで移動するときにスロープが用意されていない土地に住んでいる、そのため通勤に困難が生じて出勤時間を遅らせてほしいが職場が理解を示さず仕事を解雇されてしまうなどの不利益、こういった不利益を以て社会的な障害がある、という視点。環境因子(車いすで行動ができない土地、柔軟性と理解に欠ける労務条件)に着目しています。ICF、国際生活機能分類と言います。2001年WHO総会で採択された概念です。

 そしてこの双方・・・個人因子も、環境因子も含み、「背景因子」と呼ぶことで、医学的な障害と、社会的な障害、双方をひっくるめた不利益のこと を「統合モデル」と主張する専門家がいます。

 主張する専門家~~という語りの通り、統合モデルはWHOで共有されている概念ではありません。今は社会モデルが主流です。しかし、わたしは障害当事者として、統合モデルである必要性を感じています。

・最近の実感。社会モデルで捉えてくれるのは嬉しいけど、それってお仕着せになっちゃってるとこがあって


  医学モデルは個人に責任を返すし、社会モデルは環境に責任を返します。
 医学モデルは自己責任論につながります。出発点が個人なので、対処も故人が行うことになってしまいます。
 まずは車いすを買うところから始まり、スロープがないならスロープがある土地に引っ越したり、理解のある職場に転職したり。それって大変ですよね。障害がない人と同じ環境、とは言えません。大きな制限があります。「わたしの頑張り」に依存します。
 一方、社会モデルは環境に責任を返します。環境とは、土地の形状や労務関係などもそうですが、人間関係なども含みます。根本的に障害を「社会の現在の物理構造・社会構造・常識」に捉えまので、スロープを作るよう要求したり、労働環境の是正を要求します。それはもちろんありがたいんですが・・・

 わたしの頑張りってどうかな、必要だと思うんだけど?というのは。

 医学モデルはもちろん批判されるべきで、これを柱として採用されたら大変です。社会に変わってもらわないと太刀打ちできません。でも、社会が変わったからってわたしが頑張ることはあるんです。

 ここ最近、「発達障害者は社会が厳しいから増えた」という言説があります。
 発達障害は先天的な障害である神経系障害なのでそもそも誤りではあるのです。ただ、その許容値が上がってしまい(社会が厳しい)、昔はグレーくらいの発達障害者も、現在だと服薬につながらなければいけないのではないか?という視点にはうなずけるところもあります。
 
 しかしどうでしょう?「社会」はどのように変わればいいんでしょうか。
 特に発達障害という超個性的な、様々なパターンのアウトプットを持つ障害に、社会がどのようにフィットしていけばいいんでしょうか。
 わたしはそれは「ディスカッション」しかないと思っています。先日、利用施設と利用者(障害者)がすり合わせをして目的を達成する合理的配慮についてエントリを書いたのですが、合理的配慮は施設(環境)だけでなく、障害者の利用者(個人)が話し合って共に作り上げるものでした。

 正直なところ・・・現状社会の方で「こうしたら生活しやすくないですか?これは働きやすいのでは?」というアプローチが、全然足りていません。発達障害の求人が明らかにASDの特性向けのものしかない、など。
 でも、それはそうだろうと思うんです。だってわたし自体、わたしの障害特性を事細かに話すことってできません。自分の症状を話すことはできても、定型発達の人と「どのくらい違う」のかを「証明する」のはとても難しいです。本人ですらそうなのに、社会の側でわたしにピッタリの業務の調整ってできないですよね。

 さきほどの「社会が厳しいから~」論で言えば、じゃあどこまでも甘くしてほしいか、と言われたら、別にそんなことはないです。むしろ、仕事先で1日1枚のテキストを書いてあとはもう仕事がない、みたいなのも、それはミスマッチですよね。
 「じゃあどうしたらいいんだよっ!」という、人事の人の声が聞こえそうですが・・・w
 なので、すり合わせましょう、
 そういう提案です。
 それをわたしは、「障害の統合モデル」に見ています。

・バランス、両輪ですよね。少なくとも今は。わたしが話せるうちは。

 いえ、障害の社会モデルはとてもありがたいですよ!
 ともすれば自己責任どころか、「障害を負ったのも自己責任」とまで言われる世の中です。「まず社会が変わりなさい」と言ってくれる社会モデルは障害者の人権保障に不可欠です。
 ただ・・・
 わたしは障害者のことをこうも捉えています。

 「困りごとが定型でない人たち」。

 身体に欠損がなく、五感、また神経系、精神、内部障害(心臓疾患など目に見えづらい障害))などがない人たちの困りごとって、ある程度のレイヤーの幅に収まるんじゃないか?と想像しています。
 どんなに遅くたってここまで30分~1時間あれば来られるだろう、とか、この程度の小さい文字でもまあ読めるだろう、とか、15分~30分立ちっぱなしでもまあ頑張れるだろう、とか。
 むしろ、そういう幅に収まる人たちのことを「健常者」と呼ぶのじゃないかなと思います。
 で、こういう困りごとすべてにまんべんなく対応しておくのって、不可能だと思うんですよ。
 だから働きかける。
 社会の側では、受ける気持ちと柔軟で、でもできる範囲での対応、を持ってほしいと思います。
 でも、こちらからも働きかける。
 そういう両輪がいいし、そうじゃないと無理じゃないかなって思うんですよね。
 障害の統合モデルを紹介した上田敏氏は、統合モデルは「人が生きる全体像であり、それらは本人・家族が最もよく知っているため、専門家と協力して自己決定権を正しく行使するべき」と言っています。そうそうそうそうそれ!!って思ってしまって。

 わたし、今は、服薬して自分の特性理解をして自分の特性について話せます。だからわたしの話も聞いて。年を取って、話すのもしんどくなったら社会モデルの方がいいかもしれない。でも、今は話しませんか、その方がお互い、いい打ち所があると思うんです、って。

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