私にヨガの先生はできません!【第八話】カレンなんか!
【第八話:カレンなんか!】
休館日の清掃業務が終わったのは、午後六時前だった。窓から目にする空は、学生の頃によく見たわら半紙みたいな色をしている。
今にも雨がざあざあと降り出しそうだ。
「いと葉は、このあと友達と会うんだったわね」
えりかさんが尋ねる。
「はい。下のカフェで待ち合わせしてます」
「そう。じゃあ、先に失礼するわね。鍵、よろしく」
「はい! お疲れ様です」
えりかさんはメイクを直した後、ポスティングチラシの束が入った紙袋を持って店舗を後にした。
今月は一人800枚ずつ。割り当てられたエリアのマンションのポストにチラシを入れていかなくてはいけない。明後日までに完了しておくようにと、岩倉店長から言い付けられている。
「まあ、明日でいっか」
今はそれどころじゃない。私はバッグからスマホをとりだし、彼に「来週、どこかで話しがしたい」とメッセージを送った。
それから忘れずに戸締りをして、ペンタスガーデンの一階のカフェ・くじら座へと向かう。
ここは夜九時まで営業しているから、仕事帰りにも利用しやすい。
「いらっしゃいませ」
オーナーの一ノ瀬さんがコーヒーの香りとともに笑顔で出迎えてくれる。ファミレスや居酒屋に人が流れる時間帯だからか、店内は空いていた。女性の二人組が、入口近くのテーブル席で話に花を咲かせている。
「ここで、友達と待ち合わせしてるんですけど、まだみたいです」
私はコートを脱ぎ、カウンター席に座りながら言った。
「先に、注文しますか? どちらでも大丈夫ですよ」
「あ、じゃあ先に。ホットのカフェオレでお願いします」
ここ最近のお気に入りメニューだ。
「だと思いました」
一ノ瀬さんは小さく笑うと、キッチンスペースの方へ去って行った。すぐに、入口の方でカラン、という来客を知らせる音が鳴る。
「いと葉。ごめんなあ、遅くなったわあ」
そう言いながら、隣の席に腰掛けたのは高校時代からの友人の詩丘カレンだ。
中学校まで大阪で育った彼女は、今でも関西弁を話す。
外ハネのおしゃれなボブヘアは、ころころと色が変わる。今日はワインレッド系だった。
「ううん、今来たとこ。仕事忙しかったの?」
「十七時ぎりぎりで書類整理頼まれて残業しててん。ほんま、もっとはよ言ってって感じやわあ」
カレンはふうっとため息を吐いた。
彼女はこの近くにあるオフィスビルの一角に通勤している。本人いわく、面白味がなく、安月給な事務だそう。
高校卒業後、美容室でアシスタントとして働いていたけれど、三年前に辞めたのだと聞いている。なんでも、性に合わなかったらしい。
ちなみに、彼女がことあるごとに髪について教えてくれるから、私はヘアスタイルの名前に詳しくなった。人を覚えるときにもけっこう役立つ。
「いらっしゃいませ。それから、お待たせしました」
一ノ瀬さんがやってきて、私の前にカフェオレを置いてくれる。香ばしくも甘い香りが漂う。
「あ、それええな。あたしもおなじのにするわ」
カレンが言った。
「かしこまりました」
カレンと会うのは一ヶ月ぶりくらい。
なにげない世間話から、人生のことまで、あらゆることを肩の力を抜いて話せる貴重な相手。お互いに、そういうこともあるよねって軽く流す感じが心地良いのだと思う。
ヨガの研修が始まって依頼、電話やチャットではたまに愚痴や弱音を聞いてもらっている。
「雨、降ってた?」
「まだ降ってへんで。一応折り畳み傘、持ってきたけどな。あ、そういや、会うん久々やなあ」
「言われてみれば。カレンは最近どうなの?」
私が尋ねると、彼女はうーんと少し考えるそぶりを見せた。
「相変わらずって感じや。電話とって、データ入力して、ペーパーレスの時代やってのにコピーしての繰り返し。可もなく不可もなくやな」
カレンは風で乱れた毛先を指先でくるくるといじりながら言った。猫のようなアーモンド形の瞳に、よく似合う赤みブラウンのアイシャドウ。長いまつげは緩やかなカーブを描いている。
彼女はメイクや服もおしゃれで、顔も可愛い。学生時代から性格も明るくて、おまけに運動神経も素晴らしく、バスケットボール部のエースだった。
あの頃から女子からも、男子からも人気があったっけ。
一方、私はというと、運動はダメダメ。それでも、国語や英語ではそれなりの成績を残せていた。だから、当時は彼女にそこまで引け目を感じることはなかったんだ。
「そっかあ」
そういえば……。
カレンからは悩みをほとんど聞いたことがない気がする。えりかさんもだけど、悩みとは無縁な星のもとに生まれてきた人っているんだろうな。
そう思うと、胸のあたりがもやもやした。
自分のことがイヤになって責めてしまいそうなあの感じ。それから、身近な人に八つ当たりしてしまいそうな危うい感覚。
「お待たせしました。カフェオレです」
一ノ瀬さんが、カレンのもとにコーヒーカップを置く。私たちは、一口それを飲んで同じタイミングでうなずく。
「美味しいわあ」
カレンがうっとりと呟く。
「うん」
カフェオレの温かさとほのかな甘さが、胸のわだかまりを優しく溶かしてくれるよう。ついさっきまでぴたりと聴こえなくなっていたジャズ系のBGMが再び心地よく耳へと届いてくる。
ああ、なんだか気持ちが落ち着く。
「それで、例の研修はどうなん? もう腹は括れたん?」
カレンはカップをソーサーに戻しながら尋ねた。
「うーん。やってみたいって気持ちがあるのは本当。でも……」
カウンターに沈黙が流れる。
「前から思ってたんやけどさ、引っかかってることでもあるん? なーんか、話聞いてると違和感あんねん」
カレンが言った。
「……あのさ、高校のときに弁論大会があったこと、覚えてる?」
私が問いかけるとカレンはああ、と思い出したように口にする。
「いと葉は一年のときに出てたよな。たしか、テーマは地域のごみ問題やったような気がするわ。覚えてる、覚えてる」
カレンはそう言いながら、ふんふんとうなずいた。
覚えてるのなら話はスムーズだ。そう思う気持ちと、いっそのこと忘れていて欲しかったという感情がどちらも湧き上がってくる。
「あのときさ、私、忘れちゃったから……」
語尾に近づくにつれて、声はどんどん小さくなる。そのことが、まだ過去を引きづっているのだと、わざわざ知らしめてくる。
「そんで?」
カレンの口調が少しばかり、強くなったような気がした。
「……だからさ、怖いんだよね」
私はそう言って、震えそうな手をコーヒーカップへと伸ばす。
「なあ、いと葉。まさか、そんなこと気にしてんの?」
カレンの言葉はやけに乾いていた。そんなこと? 今、そんなことって言った?
心を落ち着かせようとカフェオレを飲み込む。それでも込み上げてくる感情は収まりそうになかった。
「そんなこと?」
ガチャリ、とカップをソーサーに戻す乱暴な音が響く。
「そや。昔のしょうもないこと気にして、前に進まれへんとかもったいないわ。気にし過ぎやで」
こちらの怒りに気づいているのかいないのか、カレンは淡々と言った。
「しょうもないことって……。そりゃ、カレンにとってはそうかもね。でも……。でも、私にとってはずっと気になってることなのに」
私の声はかすかに震えていた。
「それがもったいないんやって。学生のときの上手くいかへんかったこと、大人になっても引きずる必要なんてないやん。な?」
なだめるように、同意を求めるように、付け加えられた「な」の音がうっとうしい。
正直、びっくりした。
カレンなら、もっと不安に寄り添った言葉をかけてくれると思っていた。「過去を気にする気持ちはわかるけど大丈夫」って、優しく言ってくれるんじゃないかって期待していた。
でも、違った。
「カレンには……。カレンには、わかんないよ」
ぽつりと呟く。
今にも消えてしまいそうなくらい、弱弱しい声しかでない。
「そりゃ、いと葉のことなんでも知ってるわけちゃうけどさ、こればっかりはあたしやなくても、思うって」
カレンは変わらず、自身の意見を曲げようとはしなかった。あの出来事は、はたから見れば、ちっぽけなこと。そして、笹永いと葉が過去を気にしすぎなのだ。
そう、責められているような気がした。
「……カレンはさ、いいよね」
ダメだ、と思うよりも先に喉から言葉が零れ落ちてくる。
「いと葉?」
「昔からなんでもできて、皆から期待されてそれにちゃんと応えられて。今も、大変だとか言いながら、なんだかんだ楽しいんでしょ?! だからさ、私の気持ちなんて、わかんないよ。カレンになんて、相談しなけりゃよかった!」
一方的に言葉を吐き捨てる。
店内がシンと静まり返り、空間がぴりっと張りつめる。
やってしまった、と思いながらもどうしようもない。
私はカフェオレ代をテーブルに置いて、コートを掴んだ。勢いに押され、イスが地面に擦れるぎーぎーというイヤな音が響く。
カレンと一ノ瀬さんの視線から逃れるように、私は早足で店の外へと飛び出す。
「いと葉!」
カレンの切羽詰まったような声が聞こえた気がする。
「もう、知らない」
そう呟いて、駅までの道を歩く。
いつからか雨が降っていて、頭皮や顔を濡らしていく。落ち着かなくてはと思い、息を吸う。肺の中に充満したのは、湿った土と草の匂い。
気分はちっとも晴れなかった。
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