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私にヨガの先生はできません!【第五話】ヨガ研修の受講生

第四話「あの日のこと」はこちら
第一話「無理です!」はこちら

【第五話:ヨガ研修の受講生】

 ヨガのインストラクター研修は、週に二度ある。
週に一回、全店共通で設定している休館日の水曜日に六時間。それから閉店時間が二十時と、平日よりも短い日曜日の勤務後に二時間だ。
 一週間にトータル八時間を研修にあてる。約半年間の研修プログラムだ。
もちろん、仕事の一環としてお給料も交通費も発生する。
「お金も時間もかかるのに、そうまでしてスタッフをインストラクターにしたいってことですよね」
 以前、えりかさんに思っていることを言ってみたことがある。
「そうなのよねえ。いと葉はどうしてだと思う?」
「フリーのインストラクターさんが急に休まれるときに備えて? 店舗スタッフにインストラクターがいればカバーできますけど、そうじゃないと会員さんに帰ってもらわないとダメですし」
「それも理由のひとつよね。あとは、人件費かしら?」
「あー。それはありそうですよね。外部のインストラクターさんにお願いするより、スタッフが担当する方が安くなるのかも」
 私はそう言いながら、ふむふむとうなずく。
「それに、店舗スタッフがヨガに詳しいってことは、プラスにしかならないわ」
 その通りだ、と思った。
 どうやら会社はお金と時間を費やしてでも、スタッフを育てようとしているらしい。そう理解すると、どんどん「本当はデビューしたくないんです」と伝えにくいような気がしてくる。
 すでに、インストラクター研修が始まってから二ヶ月が経ち、十二月になっていた。家の近くの田んぼからは、秋の虫の気配が消えた。木々の葉は一枚もなくなり、小枝が頼りなさげに揺れているだけ。まるで、スイッチ一つで季節がぱちりと切り替わったような感じがする。
 そのくらい、体感としてはあっという間だった。
 ヨガ研修の会場は姉妹店のフィットネスクラブ・Altairアルタイルだ。
 そこに集まった受講生たちは、RIKOりこ先生からヨガの基礎知識や体の動かし方、ポーズのインストラクションについて学んでいる。
 大きなお団子ヘアがトレードマークの彼女はもうずいぶんと長く、うちの会社のヨガ研修を担当しているらしい。
「では、最後にポーズチェックですね。今日は、立位の三日月のポーズ、パールシュヴァチャンドラーサナです」
 RIKOりこ先生が言った。
 毎回、研修のラストには、ポーズのチェックがある。
 インストラクター自身が正しくポーズをとることは、レッスンにおいても大切なこと。
「それではみなさん、マットの中央に立ちましょう」
 RIKOりこ先生の言葉に従い、私を含めた八人の受講生がヨガマットの上に立つ。先生はすらすらとポーズの手順を説明してくれる。
 両足を揃えて立ち、両手を胸の前で合掌。私はいわれるがままに体を動かした。足の裏でしっかりとヨガマットを踏みしめ、呼吸を繰り返し、集中力を高めていく。
「次の吸う息で、両手を天井方向へと伸ばしていきます」
 その言葉を合図にするように、八人の受講生は合掌したままの手をすっと頭の上へと伸ばす。
「吐く息とともに、体を右側へと倒していきましょう。目線は指先の方向です。その体勢をキープ。ゆったりとした呼吸を繰り返していきます」
 太ももやふくらはぎ程じゃないけれど、体の側面も柔らかいわけじゃない。私はなるべく深く側屈できるようにと、ぐぐっと体に力を込めた。
 あとは、以前習ったことを思い出し、上体が前に倒れないように意識する。
 うん。たぶん、ちゃんとできてる。
笹永ささながさん。呼吸止まってない?」
 RIKOりこ先生が近くにやってきてそう言った。
 私は慌てて酸素を取り込む。ヨガのポーズを正しくとろうと頑張るほどに、つい呼吸を忘れてしまう。
「あと、かなり力入ってるね。今、気張っているところの力、すっと抜いてみて」
「え?」
 私は体を深く横に倒すためにあえて力を込めていた。だから、驚いた。
「いいから」
 RIKOりこ先生がほほ笑む。
 ひとまず、やってみよう。
「はい」
 さらにびっくり。
 力を抜いた方が、楽に体は横に倒れた。呼吸もうんと楽にできる。
「うん。いい感じ」
 RIKOりこ先生がうなずいたのが、視界の片隅に映る。
 一度、体を起こしたら、次は左側に体を倒していく。力を入れすぎず、呼吸を止めずに……。あ、スムーズにできたかも。
 私は嬉しくなった。
 うまくいかないことも、小さな何かを意識するだけすんなりクリアできることがある。でも、自分では気づくことが難しいし、何をどうしていいのかわからない。人によっては、自分には無理だと言って諦めてしまう。
 そんな人のために、インストラクターのような教える側の人はいるんだと思う。
 以前、たまに考えることがあった。
 温かい環境にこだわらないなら、わざわざヨガスタジオに行かなくても家でお手本の映像や本を見ながらポーズをとればいいんじゃないかなって。
 でも、ヨガ研修を受けてわかった。
 教えてくれる人がいるのと、いないのとでは同じヨガでも全然違う。とくに、初心者にとっては……。
 ああ、インストラクターって凄いんだな。
 私はしみじみと思った。
 その日の研修があと少し五分で終わるというとき、RIKOりこ先生はこう言った。
「いいですか? 前屈や側屈、柔軟性を求められるポーズは、力を入れて筋肉を伸ばそうとする方もいらっしゃいます。ここにも何名か」
 私はうなずく。
 他の受講生、何名かと動きがシンクロする。
 どうやら、ここにいる皆がべたりと開脚前屈ができるくらいに体が柔らかいわけじゃないみたいだ。
「でも、それだとよけいに辛くなるだけ。力を入れるのではなく、抜いた方がうまくいくことがあります。「肩の力を抜く」という言葉もあるくらいですから、ヨガのポーズをとるときだけでなく、日頃から覚えておきたいことです。あと、呼吸にも注意してください。止めないように意識することが大切です。いいですか? このことは、あなた方がレッスンを持ったとき、会員さんたちにお伝えできることでもあります」
 本当にその通りだ、と思った。
 ヨガをやってみたいのに、柔軟性が気になるという声は実際によく聞いたから。
 正面の鏡越しには、約四ヶ月後、四月からのインストラクターデビューを控えた受講生たちの顔が見える。
 八人皆が、真剣な面持ちだった。
 八人、か……。
 私は心の中で呟いた。
 これじゃまるで、私もデビューするみたいじゃないか。
 そりゃあ、ヨガの奥深さや効果、柔軟性に優れた人だけが楽しむものではないということがわかるたびに、誰かに伝えたいと思う気持ちも強くなっていった。
 私も肩こりが楽になったし、体が軽くなった。久々に会う友人からは「顔色がよくなった」なんていわれることもある。
 そのくらいヨガの効果は実感している。
 でもまだ、インストラクターになる決心がついたわけじゃない。

「あ! いたいた。笹永さん! 岩倉いわくら店長から聞いていますか? 今日、マッサージボールのサンプルを渡すようにいわれているんです」
 研修後、声をかけてきたのは、会場となっているフィットネスクラブ・Altairアルタイルの社員の雲井くもいさんだった。黒髪のおかっぱボブが愛らしい。厚めの前髪とベビーフェイスの影響か、十代といわれても疑う人はいないだろう。
 たしか、高校卒業後、少ししてから入社したと聞いている。
 私と業界歴は同じくらいだけど、年齢は二十一歳だったはずだ。
「え、知りませんでした」
「やっぱり。そうでしたか」
 そもそも岩倉店長は、女性専用のうちの店舗にはあまりいない。
休館日や閉店後には現れることもあるけど、営業時間だと最低限の報告をしたり、書類を届けにきたりするくらい。
 それに、最近は新店出店の準備で日本中をあちこち移動している。そのせいか、こんな風に私やえりかさんが「聞いてない!」という状況になることがたびたびある。
 ほぼえりかさんがリーダーとなりお店を回している。以前、早く店長に昇進した方がいいですよ、という本音を本人に零したことがある。
「会社的には、女性の管理職を増やしたいみたいでね。そういう話もないわけじゃないんだけど……」
 えりかさんはそう言って言葉を濁したから、私はあんまり深入りしないことにした。
「そのマッサージボールのサンプルを私が店舗に持ち帰ればいいんですよね?」
「はい! 先日、岩倉店長がそちらの店舗に持って行く予定だったらしいんですけど、忘れてたみたいで……。すぐに持ってくるんで、フロントのところで少しお待ちいただけますか?」
「わかりました! ありがとうございます」
 私よりも三つも年下なのに、しっかりしているなあ。そんなことをぼんやりと考えながら、フロントを眺める。
 大型のフィットネスクラブは、うちのホットヨガスタジオの何倍も広い。フロントカウンターは、ホテルの受付みたいに長いし、手続きをするエリアも、ゆったりとしたスペースが確保されている。
 系列店なのに、内装や雰囲気が大きく違っていて興味深い。
 十年以上、営業している割に綺麗なのは、きっと丁寧に掃除しているからなんだろうな。
「お待たせしました! これです」
 雲井さんは、手のひらの上のボールを見せて言った。テニスボールより一回り大きいサイズで、色はおしゃれなエメラルドグリーン。
「ありがとうございます。これって、体の上転がすんですよね?」
「そうです。デコルテらへんとか、ほぐれてけっこう気持ちいいですよ! あと、首とかにも」
「あ、ほんと!」
 私はボールを首のあたりに転がしながら声を上げた。
「仰向けになって、背中やお尻にあてるのもおすすめです。こっちでは、近いうちに発売予定なんですけど、もしかしたらホットヨガスタジオの方でも需要あるかもって、岩倉店長が仰っていました」
「そうだったんですね。これ、本当に良いですね。私も欲しいくらい」
「もし、何か気になることや質問があれば、私までご連絡いただけると嬉しいです」
 雲井さんは、ハキハキとした口調で言った。
「あ、雲井さんが担当されているんですか?」
「はい。まだ先輩にフォローしてもらいながらですけど、物販系の業務、させてもらってるんです」
「へえ! 凄いですね」
 物販は毎月の売上に直結する重要な業務。Altairアルタイルのような大型店舗だと、年数の長い人が担当しているイメージがあった。
 うちの場合はえりかさん。といっても、まだ取り扱っているアイテムはほとんどない。たまに、フロント前でヨガウェアを販売するくらいだ。
 ふと、面接前に見た募集要項を思い出す。意欲のある人は、どんどんチャレンジできるみたいなことが書いてあったな。
 私はただ就職したかっただけで、やりがいや挑戦を求めていたわけではなかったから、ふうんとだけ思ったっけ。
 でも、こうやって、環境を活かして成長している人もいるんだ。
「いやいや、ほんと、なんとかやってるって感じです。このヨガの研修も」
 彼女はそう言って笑った。
「あの、雲井さんは自分から、インストラクターになりたいって思ってここに就職したんですか?」
 この機会だと思い、気になることを聞いてみた。
「まさか! もともとはフロントと事務の担当を想定していました。なので、最初に話を聞いたときはびっくりですよ。それに、私にできるんだろうかって。正直なところ、まだ思ってます」
「……わかる」
 私の喉の奥からは、自然と言葉が零れ落ちる。
「あ、笹永さんもですか? ほんっと、不安だったんですよ。人前で話すのとか全然得意じゃないですし……。仲間がいたみたいで、ちょっと嬉しいです」
 雲井さんの表情が晴れやかになる。
 心なしか、話し方も少し砕けたような気がした。
「へんなこと聞くんですけど……。えっと、研修受けていて、やっぱり止めておけばよかったって思うことは、ないですか?」
 私の質問に、雲井さんは少しだけ間を置いた。私に話そうかどうか、迷っているようにも見えた。あ、こんな踏み込んだこと、聞いちゃダメだったのかも。一緒に研修を受けているという仲間意識に惑わされ、私はつい距離感を誤ってしまったみたいだ。
 やっぱり気にしないでください、と言おうとするよりも早く、彼女は口を開いた。
「うーん。ないですね。……私、高卒なんです」
 その声のトーンがさっきよりも、低くなった。
「学歴のこと、ですよね?」
「はい。なので、ヨガでも事務でも少しでもスキルを身につけておきたくて。私、勉強とか苦手ですけど、今後のためにも、そういうのには備えておかないとって思うんです。いつか転職するとき、大学出ている人に比べて、選択肢は少ないなって新卒のときも実感したので……」
「凄いと思います。私は、雲井さんの立場でも、積極的にはいけないかもです……」
 私はただ感想を伝えた。たぶん、雲井さんは学歴がどうであろうと、色んな会社が欲しいと感じる人材だと思う。
「違うんです。もちろん、体を動かすことは好きですし、ここの職場も気に入っています。だから、頑張れます。でも……。私のこと、やる気があるとかって褒めてくださる方もいるんですけど、そんなにきれいなもんじゃないんです。自分のためって感じです。あ、今回のヨガ研修も、アルタイルの社員は希望制だったんです」
「じゃあ、雲井さんは立候補されたんですね」
 ホットヨガスタジオの社員は全員が対象だと岩倉店長は言っていたっけ。どうやら、こっちは事情が違っているらしい。
「はい。ヨガができるようになっていれば、ホットヨガスタジオに異動するっていう選択肢ができると思ったんです。うちの会社、フィットネスクラブよりもホットヨガスタジオの方が数多いじゃないですか」
「たしかに」
 私はうなずく。
「なので、どの店舗でも働けるようにしておきたくて……。それに、本来ならヨガのインストラクターになりたいって思ったら、お金を払ってスクールに行くじゃないですか。それが、無料どころか、お給料をもらいながら学べるっておいしくないですか?」
 雲井さんが人差し指をピンと立てて、にんまりと笑う。
「それは、そうですね」
 もしも、いつかここを退職することになっても、他社で働いたり、フリーのインストラクターとして活動できたりする。
 その気になれば、自分でスタジオをオープンすることも。
 ちゃっかりしている? 
 ずる賢い?
 会社を利用してる?
 いや、彼女は自分の人生をちゃんと考えているだけだ。
 それで、ちゃんと会社にも貢献するのだから、どちらにとってもプラスになる。
「あ! なので、もしもいつか笹永さんのいる店舗に異動になったら、そのときはよろしくお願いしますね」
 雲井さんは両手をパチンと合わせて叩くと、冗談めかしたように言った。
 


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