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【読書備忘録】2666から心経まで

 お久しぶりです。久しぶりすぎて序文の感覚を忘れてしまいました。最後の投稿日は2022年7月31日なので、1年以上【読書備忘録】の更新を怠っていたことになります。継続的に読んでくださっていた方々には誠に申しわけありません。
 別に飽きたわけでもやめたわけでもなく、複合的原因でこのような予告なしの長期休止に至りました。その理由には「本を買うお金がなかったから」という身も蓋もないものから、精神的問題による停滞と別件の作業が想像以上に影響したことがあげられるのですが、こんないいわけを話し始めたら切りがないのでやめておきます。兎にも角にも「そろそろ更新しないと一生更新できないのではないか」という強迫観念に駆られていたため、再開のきっかけを掴めて安堵しています。今後もできるだけ間隔を開けずに更新したいと思っているので、何卒よろしくお願い申しあげます。

 それはそうと、これからは図書館で借りて読んだ本も対象にしようかな。


*  *  *  *  *


2666

*白水社(2012)
*ロベルト・ボラーニョ(著)
*野谷文昭(訳)
 内田兆史(訳)
 久野量一(訳)
 チリの小説家ロベルト・ボラーニョは闘病生活の末、肝不全により二〇〇三年に五〇歳で死去した。世界的な流行期で印象付けられたラテンアメリカ文学像とは異なる作風で、新たなラテンアメリカ文学を提示してきた新進気鋭の早すぎる結末だった。死後刊行された『2666』は死の直前まで執筆を続け、完成間近に漕ぎ着けながらも絶筆となった幻の遺作である。比較的簡潔明瞭な中編小説を得意としていたボラーニョが最後に手がけたのは日本語訳で八五〇頁に達する重量級の小説だった。全五部構成。第一部は四人の文学教授の探究と交流の物語で、ベンノ・フォン・アルチンボルディというドイツ人小説家の謎に迫る。第二部はメキシコ国境付近にあるサンタテレサ大学に務めるチリ人哲学教授に視点が変わり、暴力の予兆に怯え、奇行に走りがちな彼の奇妙な日常が語られる。第三部はボクシングの試合を取材するためにアメリカから国境を越えてメキシコを訪れたアフリカ系アメリカ人記者を通し、近隣で発生している女性連続殺人事件の模様が描きだされる。第四部はサンタテレサで発生している女性連続殺人事件を担当する捜査官の視点で、次々現れる被害者のプロフィールや発見時の状態などを偏執的なまでに細かく記述していく。第五部は雰囲気が一変し、唐突にあるドイツ人青年の物語が始まる。各物語は距離感を維持しながらも独立しているので、大規模な連作小説という見方もできる。これほど長大な連作小説もなかなかめずらしいとは思う。元々『2666』は一巻本として構想されていた。けれども死期を悟ったボラーニョは出版社と遺族の利益を慮り、五冊の中長編小説として出版することを遺言執行人のイグナシオ・エチェバリアに提案した。ところが遺稿の文学的価値を見抜いたエチェバリアは、当初の予定通り一巻本として出版するように取りはからった。この点の評価は難しい。著者の遺言に反する決断をくだしたエチェバリアの行為は倫理的に褒められたものではないかも知れないが、彼が遺言より文学的価値を優先しなければ『2666』というラテンアメリカ文学屈指の熱量を有する大作は生まれなかったわけであり、その点を踏まえると身勝手な読者としては彼の功績を認めたい気持ちになる。それにしても仮に分冊されていたら『2666』は如何なる作品群になっていたのか。あるいは「サンタテレサ・サーガ」なる通称を使われ、今とは異なる愛され方をしていたかも知れない。それもそれで興味深いことである。



破船

*新潮文庫(1985)
*吉村昭(著)
 連載時の『海流』を加筆修正及び改題した小説で、数々の記録文学を書き残してきた吉村昭としてはめずらしくオリジナルの作品である。舞台は僻地で漁業を営んでいる寒村。自然界の気紛れに依存する村の人々は貧困に喘いでおり、出稼ぎと口減らしのため、泣く泣く家族を年季奉公にだすことも頻繁におこなわれていた。主人公・伊作の家も例外ではない。物語が始まるなり父親は年季奉公で回船問屋に売られていき、伊作は老練な漁師である父親の代わりに年少ながら漁に出る。作中では複数の見どころが暗示される。年齢と経験をかさねていく伊作の成長、極貧の漁村に襲いかかる四季折々の試練、閉鎖的な共同体における習俗。こうした人間模様と自然現象の両面を民俗的な視点から簡潔明瞭な語り口で表現し、二三〇頁程度の紙数に豊富な題材を示すところは本作品の大きな魅力だ。



めくるめく世界

*国書刊行会(1989)
*レイナルド・アレナス(著)
*鼓直(訳)
 杉山晃(訳)
 発禁。投獄。亡命。感染。自殺。最期まで平穏無事な日常を送れなかったレイナルド・アレナス。執筆環境に恵まれなかったこともあり著作数は少ないものの、旺盛な批判精神と遊び心を覗かせる作品群は数あるラテンアメリカ文学の中でも異彩を放ち、ラテンアメリカ文学好きのあいだでは根強い人気を持っている。一九世紀前後のメキシコの政治史・思想史に名を残した革命家の物語『めくるめく世界』は初の邦訳作品なので、日本でラテンアメリカ文学が流行した時期に読まれた方も多いのではないだろうか。本作品で取りあげられているのはメキシコ出身の怪僧セルバンド・テレサ・デ=ミエル=ノリエガ=イ=ゲッラ。頭脳明晰な行動派でドミニコ派の説教師として活動するも、異端思想を咎められ幽閉されてしまう。これが引き金となり投獄と脱走を繰り返すという生き地獄を味わうことになる。獄中では死なないのが不思議なほどの仕打ちを受け、超現実的な出来事で生還してはまた投獄されるという波乱万丈な彼の遍歴は史実とアレナスの推察が入り混じり、荒唐無稽ともいえる場面を通じて語られていく。それでもおおむね史実通りみたいで、どこまで小説家の空想なのかわからなくてしばしば圧倒される。同時に読者を混乱させる誇張表現も大きな魅力である。こうした超現実的表現が随所に散りばめられているため、本作品をマジックリアリズムと見る向きもあるようだ。あくまでも個人的な意見を語らせていただくと、異端の修道士として、強靭な義勇兵として、動乱の時代を駆け抜けたセルバンド師という歴史的人物の伝記『めくるめく世界』の、その事実を支える無限の可能性をあますところなく活写する表現法はマジックリアリズムに通じるかも知れない。とはいえ厳密には幻想文学の作法で書かれた変則的な歴史小説でリアリズムとは異なるのではないか。いずれにしても無頼の小説家アレナスの代表作と称するに相応しい大作なのは間違いない。しかし、惹句の「マルケスの『百年の孤独』を凌駕する作品」は明らかに過大評価。相当な傑作なのは認めるが『百年の孤独』には及ばないと思うし、付け加えると本作品の完成度が低いのではなく『百年の孤独』という特異な小説は比較材料にするものではないという話。



銀齢の果て

*新潮文庫(2008)
*筒井康隆(著)
 問題作を書き続けて云十年。SF、ジュヴナイル、スラップスティック、純文学と文学の畑を縦横無尽に耕してきた筒井康隆氏の場合「不謹慎」は褒め言葉になる。ここで紹介する『銀齢の果て』もまた例に漏れない。老齢人口の増加問題を解消するため政府は「老人相互処刑制度」を開始。日本全国の七〇歳以上の老人達は突如サバイバルの渦中の突き落とされてしまう。政府の判断に対する反応はさまざまで、好戦的な者は意気揚々と殺戮の準備を始め、臆病者はひたすら逃げまわる。その中、和菓子司の隠居である宇谷九一郎は冷静に戦況を見詰め、鉄敷町ニ丁目地区の生存者である元刑事猿谷甚一とともに「バトル」に乗りだす。もう無茶苦茶である。同時に高齢化社会という現代日本が抱えている社会問題に笑いの種を植え、ドスの利いた風刺を芽吹かせる筒井康隆氏の意欲と発想は素晴らしいの一言。随所に散りばめられた表現法も注目すべき点だ。宮脇町の老人たちが知恵を絞り、血で血を洗うという光景は地獄絵図以外の何ものでもない。けれども出合い頭拳銃を抜く西部劇のごとき緊張感とは裏腹に、老体の宿命で肝心なところで思うように動けないといったブラックすぎる滑稽味が添加されていて、終始一貫して不謹慎極まりない場面が次々描出されていく。筒井康隆という奇才だから書ける小説であり、筒井康隆という小説家だから許されるという、筒井康隆氏に求められる要素で固められた至高の問題作。



廃墟の形

*水声社(2021)
*フアン・ガブリエル・バスケス(著)
*寺尾隆吉(訳)
 世界的大流行の終息から半世紀。勢力は弱まったとはいえラテンアメリカ文学は現代も活発だ。コロンビア出身の小説家フアン・ガブリエル・バスケス氏はその筆頭といえる。長編小説『密告者』『コスタグアナ秘史』発表後に注目を浴びていたが、政治家ホルヘ・エリエセル・ガイタン暗殺を始め、血なまぐさい事件が多発したニ〇世紀コロンビアの歴史を考察する『廃墟の形』は、ラテンアメリカの伝統的発想と西欧的技法をかけ合わせることで創出された新型の小説形式で叙述されていて、バスケス文学の価値をますます高める契機となった。物語では作者自身が主人公として舵を取る。自分自身を出演させながら実際の歴史的事件を取りあげる以上、作中では自伝的要素をふんだんに散りばめることになる。彼を取り巻く環境も、彼の置かれた状況も現実と変わらないものである。同時に彼にある依頼をするために接近を試るカルバージョという架空の存在を物語の要に据えることにより、本作品は虚実入り交じる奇書の枠に滑り込んでいく。歴史に対する偶然史観を抱いている主人公と、あらゆる事件には因果関係があるという陰謀史観に囚われているカルバージョの論争は緊張感に満ちている。カルバージョの狂気的感性があまりにも真に迫っているため、前半部の時点ではこれは小説ではなくて著者自身の実体験を告白した随筆なのではないかという疑念を抱いた。しかし、それは杞憂であり実際に展開されている光景はあくまでフィクションである。自伝的小説よりは疑似私小説に近いのだろうか。カルバージョなる陰謀論者は存在しないし、バスケス氏が陰謀論者からの依頼で『廃墟の形』を執筆したのでもない。とはいえカルバージョの役割を担う「実体験」は明確に存在し、その「実体験」に触発されたことが執筆の動機になったのも事実。こうした経緯を踏まえると、政治的陰謀論にメスを入れた『廃墟の形』という小説はそれ自体がある種の比喩なのかも知れない。



郵便局

*光文社古典新訳文庫(2022)
*チャールズ・ブコウスキー(著)
*都甲幸治(訳)
 チャールズ・ブコウスキーの処女作『ポスト・オフィス』は絶版されたまま入手困難な状況が続いていた。大好きな小説だけに復刊か新訳版が刊行されたないかと期待していたところ、光文社古典新訳文庫より『郵便局』という表題で蘇ることになった。新訳版は現代アメリカ文学の翻訳者として活躍中の都甲幸治氏。ブコウスキーの肉声が聞こえてくるような口語的でラフな文体は彼のイメージをそのまま伝える名訳だ。ブコウスキーの分身的存在といえるヘンリー・チナスキーを主人公とするシリーズの出発点でもある本作品は、彼の波乱万丈の人生から非正規雇用の郵便配達員として雇われた頃を切り取って、理不尽とも不条理とも例えられる過酷な労働環境を描きだした物語である。詳細は解説頁に記されているが、労働者のすがたを表現した小説はブコウスキーの登場を待たずとも発表されてきた。ただし、その労働者の描き方は資本主義的観点で語る成功者の物語だったり、社会主義的観点から資本家と労働者の関係性を善悪で捉える告発の物語だったりする。どちらにも優れた作品が存在するのはいうまでもない。とはいえ、双方には現在の労働環境からの脱却・解放というドラマティックな目的が設けられていて、そのために理不尽な労働の恒常性は最終的に失われることになる。ややこしい書き方になったけれど、平たくいえば「クソみたいな労働環境を終わらせる」物語なのだ。それに対してブコウスキー作品は「クソみたいな労働環境で生きる」物語であり、労働者の肖像を現実的に構築している。この手法がリアリズムに含められるのか否かは浅学な自分にはわからない。でも嫌味な上司に小さな反抗を試み、社会の不条理に巻き込まれては毒を吐き、裏切られては酒を飲みまくるヘンリー・チナスキーの日常は、劣悪な、しかも現実的な労働の情景をグロテスクなまでに生き生きと物語っている。



十一月の嵐

*松籟社(2022)
*ボフミル・フラバル(著)
*石川達夫(訳)
 松籟社のフラバル・コレクションは『厳重に監視された列車』『剃髪式』『時の止まった小さな町』という傑作揃いだけに、二〇一五年以降刊行も情報も途絶えていたのは気にかかっていた。待ち続けて七年。満を持して翻訳出版された『十一月の嵐』をお気に入りリストの最優先購入枠に加えたのはいうまでもない。本作品はこれまでの長編小説とは毛色が異なり、フラバルの自伝的要素を凝縮させた短い物語の連なりで構成されている。晩年の短編小説集として紹介されているけれど、各物語は独立しながら文体も登場人物も密接に関連しているので、正確には連作短編小説集ではないかと思う。老齢のフラバルから、プラハの酒場「黄金の虎」で出会ったチェコ文学研究者のアメリカ人女性エイプリル・ギフォードに送られる手紙の数々。その内容は自分自身の素性やチェコスロヴァキアの動乱の歴史をなぞるもので、ミュンヘン協定以後のナチスによる侵略、プラハの春の始まりとワルシャワ条約機構の侵攻、共産党体制崩壊をもたらしたビロード革命といった歴史的事件に遭遇してきたフラバルの回想録としての側面を持っていて、語り部の言葉に耳を傾けている心持ちになる。その自由気ままな語り方も面白い。話題は連想的に変化していき、悲惨な体験談からおかしな逸話まで披露される。哀愁の内にユーモラスな響きを込める作法は如何にもフラバルらしい。書簡体小説、自伝的小説、歴史小説、連作短編小説集。多面的な小説形式で書かれている本作品は色々な角度から読み込むことで、ますます小説としての輝きを増していく。



燃やされた現ナマ

*水声社(2022)
*リカルド・ピグリア(著)
*大西亮(訳)
 著者のリカルド・ピグリアはアルゼンチンの小説家。本作品とおなじく水声社から刊行されている『人工呼吸』といった話題作を残し、現代ラテンアメリカ文学の重要人物として存在感を示していたものの、残念ながら二〇一七年に筋萎縮性側索硬化症により死去。代表作の一つに数えられる『燃やされた現ナマ』は一九六五年のブエノスアイレス郊外で起きた現金輸送車襲撃事件に材を取り、文学的実験(あるいは悪戯)を好むピグリアらしい技術的手法で虚構化した社会的犯罪小説である。メレレス、ブリニョーネ、マリート、ドルダの若者グループが現金輸送車を襲撃するという計画を立て、大立ちまわりの末に成功させるところから物語は始まる。その後はメンバーたちの過去がフラッシュバックされるように描かれるとともに、犯行グループを追跡する警察や精神科医、ジャーナリストといった人々の視点を織り交ぜることで緊張感溢れる逃走劇を実録映画のように表現していく。この映像的な技法と平易な文体の合わせ技は、本作品の薄暗い社会小説的側面に血湧き肉躍るエンターテインメントの風味を加えている。実在事件と実在人物を取りあげた上に物語の内容を「事実」と銘打ったためか発表後に裁判沙汰になったり、ほかにもプラネタ・アルゼンチン賞受賞の出来レース問題等の影響で曰く付きの作品として印象付けられてしまったのだが、だからといって『燃やされた現ナマ』自体の価値や魅力が損なわれることはない。



嘔吐

*人文書院(2010)
*ジャン=ポール・サルトル(著)
*鈴木道彦(訳)
 実存主義の提唱者として、世界的に有名なジャン=ポール・サルトルの出発点といえる長編小説。長期的な旅行を終え、架空の町「ブーヴィル」の安ホテルに滞在していた独身男のロカンタンは、孤独な身ながらも金銭的には余裕のある生活を送っていた。人間との交流は少なく、図書館でひたすら乱読する「独学者」という奇妙な男、肉体関係にある居酒屋の女主人、数年間恋人関係だったイギリス人の娘アニーの記憶を遍歴する程度だった。それでも人並み以上の自由はあった。ところが学識とものに不自由していなかった彼の精神状態に大きな変化が現れる。それは今まで自然に受け入れてきた生物・物体・関係などに謎の「吐き気」を覚えるようになったことである。いうまでもなくこの「吐き気」とは泥酔後のリバースでもインフルエンザによる嘔気でもなく、嫌悪感・違和感・拒絶感といった精神的に受け付けない異常な反応の象徴的表現であり、胃薬を服用してなおるものではない。ならば「吐き気」の原因は何なのか。不快感に悩まされるロカンタンは自己探求に耽り、日常に割り込んできた「吐き気」の正体を探し始める。やがて彼は神の啓示を受けたようにある可能性に気付くことになるのだが、その答えはサルトル自身の実存主義に繋がる思想で、見方によっては非常に陰鬱な、救いのない内容とも捉えられる。勿論それはポジティブにもネガティブにも解釈できる事柄なので、受け取り方は読者次第である。



心経

*河出書房新社(2021)
*閻連科(著)
*飯塚容(訳)
 中国共産党政権の宗教管理体制下で、宗教小説を発表するには相当な困難が待ち構えている。というより出版は無理な話かも知れない。まして現代中国文学の立役者であるとともに、出版物がことごとく発売禁止になる革新的小説家の閻連科作品となると当然監視の目は厳しくなる。結果的に著者は本作品が中国語圏で読まれることはないと諦め、脱稿直後は自費出版で限られた読者に配るという手段を選んだ。大まかな内容は政府が宗教として認めている、仏教、道教、イスラム教、カトリック、プロテスタントの信徒が講義を受けている宗教研修センターを舞台に、仏教徒の研修生である一八歳の女性雅慧(ヤーフイ)の艱難辛苦を描き、神聖な宗教世界と世俗的な欲求の奇跡的邂逅を表現するというもの。端的に説明すると堅苦しい印象を受けそうだが、異教徒同士の親睦を深めるという名目で何故か綱引きが盛大におこなわれたり、宗教関係者が聖職者としての自覚を失って権力欲・金銭欲に目を眩ませたりと、荒唐無稽な世界に痛烈な社会風刺を織り交ぜることでいい感じに皮肉の効いた悲喜劇を展開させている。こうした描写は現代中国においてあながち荒唐無稽とは断言できないし、荒唐無稽の一言では済まない社会的事情が控えていることも承知している。それでも物語の随所で笑わされることになってしまう。いうまでもなく、その「笑い」は作品価値を押しあげる重要な要因となるものである。



【読書備忘録】とは?

 読書備忘録は筆者が読んできた書籍の中から、特に推薦したいものを精選する小さな書評集です。記事では推薦図書を10冊、各書籍500~700字程度で紹介。分野・版型に囚われないでバラエティ豊かな書籍を取りあげる方針を立てていますが、ラテンアメリカ文学を筆頭とする翻訳小説が多数を占めるなど、筆者の趣味嗜好が露骨に現れているのが現状です。
 上記の通り、若干推薦図書に偏りはありますが、よろしければ今後もお読みいただけますと幸いです。


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