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【読書備忘録】日本怪談集から審判まで

 前回の投稿から長期間更新が途絶えてしまいました。楽しみにしていただいている方々に申しわけないです。別件の作業に体調面の問題、ほかにも金欠で新刊を全然買えなかったりと色々絡み、記事作成する気力が枯渇していました。気が付けば季節は夏。自己管理能力が試される時期だけに熱中症対策には注意しています。皆さまも何卒お身体を労ってください。というわけで今回は夏に相応しく怪談集の紹介から始めようと思います。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。


*  *  *  *  *


日本怪談集 奇妙な場所

*河出文庫(2019)
*日影丈吉(著)
 筒井康隆(著)
 佐藤春夫(著)
 吉田健一(著)
 吉行淳之介(著)
 森鴎外(著)
 稲垣足穂(著)
 内田百閒(著)
 小泉八雲(著)
 大岡昇平(著)
 豊島与志雄(著)
 幸田露伴(著)
 火野葦平(著)
 小田仁二郎(著)
 笹沢左保(著)
 都筑道夫(著)
 武田百合子(著)
 小沢信男(著)
 半村良(著)
 泉鏡花(著)
 澁澤龍彦(著)
 世界怪談集の紹介も大詰めを迎えた。河出書房新社の世界怪談集は一九九〇年前後に出版、約三〇年の年月を経て新装版として復刊。現在はすべての文庫版が出揃っているので、怪談好きなら既刊情報を見るだけで涎が垂れるのではないか。今回紹介するのは日本の怪談。豪華すぎる執筆陣を眺めると日本文学における怪談の重要性を再認識させられる。明治大正期を迎えても文豪は怪異を愛し、怪談文芸は近代以降も大いに発展することになった。怪談史は日本文学史と不可分の関係にあるのかも知れない。実際泉鏡花や小泉八雲という日本怪奇幻想文学の立役者に限らず、推理小説やSF小説を主戦場とする小説家が違和感なく溶け込んでいる点にも、日本文学と怪談の好相性を認めることができる。ちなみに『日本怪談集』は分冊になっていて、本書「奇妙な場所」と「取り憑く霊」にわかれている。主題の変化を上下巻以外の形式で現すところに趣を感じる。こちらは副題通り怪奇現象を場所に求める構成で、巻頭を飾る「ひこばえ」では呪われた家に取り憑かれた家族の哀れな顛末が語られる。そのほか、転居先で幽霊の家族と平穏無事な隠居生活を送る「化けもの屋敷」、船釣りの最中に上等な釣り竿を握り締めた溺死者に遭遇する「幻談」、酒盃収集家が髑髏盃を拵えるため墓荒らしに手を染める「髑髏盃」など秀逸な怪異譚が続く。若干話は逸れるけれど、筒井康隆氏の「母子像」にも触れておきたい。本作品を読むのは約二〇年ぶりになるだろうか。相変わらず猿の玩具は気味悪く、結末の光景は物悲しい。その読後感は昔と変わらず、胸の奥底を締め付けるものであった。



日本怪談集 取り憑く霊

*河出文庫(2019)
*森銃三(著)
 小松左京(著)
 内田百閒(著)
 結城昌治(著)
 藤沢周平(著)
 岡本綺堂(著)
 三浦哲郎(著)
 橘外男(著)
 柴田錬三郎(著)
 藤本義一(著)
 舟崎克彦(著)
 江戸川乱歩(著)
 田中貢太郎(著)
 三島由紀夫(著)
 芥川龍之介(著)
 久生十蘭(著)
 吉田健一(著)
 正宗白鳥(著)
 折口信夫(著)
 分冊形式で刊行された本作品集は河出書房新社の世界怪談集の日本編で、怪奇を空間に求める「奇妙な場所」に対し、憑依という主題を掲げる「取り憑く霊」では超常現象を動植物や器物等に求めている。いうまでもなく人間が取り憑かれる話、幽霊自体と対峙する話も収録されているので憑きものの恐怖を幅広く味わえる品揃えとなっている。古来より器物・道具が化けると器怪、あるいは付喪神と呼ばれるものに変貌するといわれている。けれども無機物である器物・道具に自我が芽生えることと、生物を別の自我が支配することには構造的相違があり、おなじ憑依でも、両者は似て非なる現象といえるのではないだろうか。収録作品を振り返ると、器怪類は斬り捨てられた雲助の怨念、死者の血痕、生前愛用していた用具、形見の履物といった残留思念を匂わせる話型が認められるように、器怪は器怪でも心霊現象に特化したコンセプトで編集されているため、妖怪話とは毛色が異なる点を念頭に置いておきたい。江戸川乱歩「人間椅子」に登場する椅子職人はある意味妖怪だけれど、不気味すぎる変態をねっとり表現することで強烈な怪異に昇華させる手腕はお見事。結末は自分の中で賛否わかれるものの非常に印象的な作品だった。幽霊との生活を淡々とした筆致で語る「幽霊」にも不思議な面白味を感じた。吉田健一の怪談は「化けもの屋敷」然り、幽霊を非日常から日常に引き込む独特の語り口で、あまり類似するものを見ない。



田園の憂鬱

*新潮文庫(1951)
*佐藤春夫(著)
 近年鬱小説という呼称をよく見かける。後味の悪さを肝とする小説を指すようで、なかなか味のある表現法だと思う。憂鬱な文学・小説を追い求めるのであれば『田園の憂鬱』は鬱小説の最高峰として取りあげなければならない。都会の喧騒に見切りを付けた神経質な青年は、妻と愛犬と愛猫を連れて武蔵野の片隅に移住する。けれども安息を求める彼の期待は裏切られ、新生活を始めるなり愛犬を嫌がる隣人と仲違いし、風呂の世話を受けている反対側の隣人には私生活を探られるようになる始末。犬の粗相を根に持っている隣人は自宅の鶏たちをこちらの庭に迷い込ませて糞尿をばら撒かせ、反対側の手癖の悪い隣人は薪を盗もうとする。どちらも弱みに付け込まれているかたちなので強硬な姿勢にも出られない。しかも村には犬食の風習があるという噂を小耳に挟んだ以上、愛犬が酷い目に遭うのではないかと青年は気が気でない。生来の神経過敏、梅雨の陰気な天候、閉鎖的な田舎。彼の苛立ちはさまざまな要因で漠然とした不安に変わっていき、幻覚的な現象を起こし始めてしまう。庭から眺望できる風光明媚な丘陵を眺めながらフェアリィを認め、真夜中には通るはずのない貨物列車の音を聞き、光のない闇の中で屠殺された狂犬の霊に相対する。ここまで精神的に追い詰められると日常は非日常に変貌していく。ある夜には何度潰しても現れる蛾の群れに悪霊の気配を感じ、恐怖のあまり始末できなくなるありさまである。被害者は彼だけではない。ある意味彼以上の被害者といえる妻もまた、都会に未練を残しながら窮屈な田舎生活を強いられた上、神経過敏な夫の面倒を見るのに疲弊していた。青年一家の物語に希望はない。あるのは田園地帯に投影された、憂鬱の虫に取り憑かれた人間の心象風景だけである。



書を捨てよ、町へ出よう

*角川文庫(1975)
*寺山修司(著)
 前衛芸術家・寺山修司自身が監督を務めた映画は非常に有名。ただし映画版は写実的に再現したものではなく、原作の方は著者の思想を評論・詩歌を交えながら語る不定形な文集となっている。不定形という表現は語弊があるかも知れない。とはいえ月光仮面の変装が意味するものを考察し、名馬クリフジが引退後「年藤」に改名された事実に哀惜の念を抱き、理想的な自殺の方法を模索する寺山修司のテクストは極めて空想的であり、一般的なエッセイの範疇を超越している。この書物は何に分類できるのだろうか。文章形式がしばしば変化するばかりか、語られている事柄も額面通りには受け取れない。寺山修司という天性の夢想家は、現実を超現実的に語り、超現実を現実的に語ることで知識を次々物語に換えていく。彼の語るキーストンは現実のターフで散ったキーストンではなく、空想の世界を駆けているキーストンなのではないか。寺山修司の語りは、こうした疑問を抱かせる不思議な音色を持っている。それをエッセイの一言で片付けられるのかどうかわからない。けれども見方次第では小説にも詩文にも批評にもなる『書を捨てよ、町へ出よう』という奇妙な書物は、特定の分野に固定するより分類不可能な文集として、文学界・映像界・演劇界といった世界を流浪させておきたいのが本音ではある。



アフリカの印象

*平凡社ライブラリー(2007)
*レーモン・ルーセル(著)
*岡谷公二(訳)
 二〇世紀初頭のフランスの小説家レーモン・ルーセルは言語的実験を凝らした作品を発表し、ダダイスト、シュールレアリストといった芸術運動家に賞賛された作家として知られている。けれども世間の目は厳しかった。彼の革新的な作風は二〇世紀初頭の文芸愛好家の琴線に触れることはなく、文学的価値を見出されるどころか猛烈な酷評を受けていた。自著を演劇化すると上演中にもかかわらず観客は罵声を浴びせ、終いには支持する芸術運動家と怒れる観客が乱闘騒動を起こす始末。現代の俗語で例えるなら「炎上」騒ぎである。生涯社会的に認められなかった可哀想なレーモン・ルーセルだけれど、二一世紀初頭の視点でもかなり読者を選ぶことには変わりはない。例えばここで紹介する『アフリカの印象』の大まかな筋は、二〇世紀初頭のアフリカ大陸沿岸部で客船が座礁、救助された船客一同はポニュケレ国の皇帝タルー七世の意思で相応の身代金が支払われるまで支配下に置かれることになり、近々予定されている聖別式に備えるため原住民と交流を深めながら見世物を考案するというもの。が、本作品の本質は物語られる事柄以上に物語る方法にあるのだ。その特殊性は構成と文体に認められる。上記のあらすじは正統的な物語の流れである。でも『アフリカの印象』では冒頭でいきなり見世物の模様を語りだす。クライマックスから始まり、登場人物とポニュケレ国の背景を語ることで終息するという変則的な構成に面食らった。しかも読者は眼前で如何なる儀式がおこなわれているのかわからないのに、語り手は自明のこととして奇怪な人々による奇怪な行為を語っていく。突然処刑が決行される。正体不明の道具類が出る。経緯を知っていても混乱するような奇想天外な展開を問答無用で次々見せてくる。それでいて文体は無感情に細部の描写に徹底する。まるで不条理演劇を観客の後ろから観測するような、現代でも常識破りの小説形式を取っているのだ。



「悪」と戦う

*河出文庫(2013)
*高橋源一郎(著)
 言葉の魔術師による世にも奇妙な幼児の冒険譚。高橋源一郎氏は奇抜な発想と言葉の遊戯で、純文学に分類されながらも正統的な純文学とはまったく毛色の異なるオリジナリティに満ちた世界を構築する小説家で、それでいて現代日本文学の立役者でもある面白い人である。とにかくジャンルという概念に縛られない。それではゼロ年代の終焉とともに発表された本作品では如何なる技巧が凝らされているのか。物語は父親である小説家の視点から始まる。彼の家庭には二人の息子がいる。驚異的な早さで言語を習得する兄のランちゃん、言葉の発達が遅れている弟のキイちゃん。もっともキイちゃんは一般的な言葉を使えないだけで、独特の発声を通して兄とは意思疎通できるのであった。三歳児のランちゃんが弟の通訳を務めたり、両親が自然体でその状況を受け入れている様子は非常に荒唐無稽に映るけれど、幼児が大人顔負けの知識とロジカルシンキングを披露しても不思議ではないのが高橋源一郎氏の世界なのだ。我々が勝手に一般的なる家族観を作っているだけで、もしかすると「幼児の論理的思考とかテレパシー能力とか観測範囲外では普通に発揮されているのかも知れない」と納得させられてしまう。平易な文体に込められた説得力に、読者は頷きながら読み進めることしかできないのである。だから突発的に世界崩壊の危機が訪れても、「世界を守る鍵」であるキイちゃんが「悪」の手先である奇形の美少女に連れ去られても、怪しげな英語を話す謎の少女に導かれるまま旅に出ることになっても、諸事万端「そういうこともある」と素直に受けとめられるのである。



女であるだけで

*国書刊行会(2020)
*ソル・ケー・モオ(著)
*吉田栄人(訳)
 国書刊行会より刊行開始された「新しいマヤの文学」シリーズの先陣を切る作品。著者ソル・ケー・モオ氏はユカタン州出身のマヤ語話者で、先住民文学の立役者として注目されている。水声社の『穢れなき太陽』でマヤ文化の光と影を独特な語り口で表現した彼女の小説は、現代社会におけるマヤ系先住民族とジェンダーに関連する諸問題を凝縮した新感覚の文学である。先住民女性に対する差別は一六世紀以前に端を発し、スペインによる植民地支配下で決定的な従属化を強行されることになった。その植民地制度に育まれた差別意識は昔日のものではない。今、この瞬間も存在する。そうした不条理な社会システムの犠牲者である先住民の嘆きを、夫殺しの罪で服役していたオノリーナという女性に託した『女であるだけで』は著者の面目躍如たる小説ではないだろうか。物語の始まりでオノリーナは恩赦を受けて自由の身になる。しかし、彼女は何故夫を殺害したのか。疲労困憊の様相を呈する彼女は、弁護に努めてきた新米弁護士のデリアと報道機関向けの記者会見に不承不承臨むことになる。この会見では保守的な記者の不躾な質問に異議を唱えるのだが、彼女の「インディオの女は不幸の塊」という主張に込められた被抑圧者の悲鳴に記者が気付く様子は見られない。先住民問題に否定的な彼には少女期に人身売買でマチズモを象徴するような粗暴な先住民男性の妻となり、暴虐の限りを尽されてきたオノリーナの気持ちを理解するのは困難に違いない。彼女の夫フロレンシオは支配欲と金銭欲に溺れてしまった救いようのない無頼漢なのだ。その尋常でない暴力の数々は人間の所業とは思えないほどで、私自身読みながら胃痛を覚えていた。とはいえフロレンシオもまた「男らしさ」が尊ばれるマチズモの世界で、劣等感に苦しみ、暴力に頼らざるを得なくなった哀れな先住民男性とも考えられる。性別を束縛し、暴力と差別を生みだす社会構造自体に対する糾弾。それこそが本作品の核という印象を受けた。



永遠の家

*書肆侃侃房(2021)
*エンリーケ・ビラ=マタス(著)
*木村榮一 野村竜仁(訳)
 文章を書けなくなるバートルビー症候群を患った小説家・詩人を断章形式で語る『バートルビーと仲間たち』出版後、自分自身もバートルビー症候群に数年間悩まされるという洒落にならない逸話の持ち主であるエンリーケ・ビラ=マタス氏。この風変わりな作家(と表現しては失礼だろうか)は伝統的な小説作法に囚われない前衛的な創作姿勢を貫いており、著作数は少な目ながら類似作品の見あたらない奇書を刊行している。前述の『バートルビーと仲間たち』はいうまでもなく、自伝的小説『パリに終わりはこない』にも認められる点として、断片的・断章風の語りを得意とする作家だけに短編小説集『永遠の家』にも大きな期待を寄せていた。そして期待通りの、それ以上の面白味を堪能させていただいた。当然著者が著者だから正統的な短編小説集ではない。そもそもこの短編小説集は連作短編か否かという問題を抱えている。あるいは『永遠の家』をオムニバスと解釈するか、アンソロジーと解釈するかで意見がわかれるかも知れない。というのも各物語は独立しているのに、各物語の主役は腹話術師という共通点を持っているのだ。連作短編小説と呼ぶには直接的な関係性がないし、それでいて共通性は存在するのでオムニバスとアンソロジーの両要素を併存している。しかも物語群の関連性をメタフィクショナルに匂わせる語り口と構成がさらなる混乱に招き寄せるのである。これが計算通りの結果なら、改めて著者の技量に脱帽するしかない。意図的なものでなかったとしても、それぞれの腹話術師の物語に魔術的な魅力があるのは確かだ。



プリンストン大学で文学/政治を語る

*河出書房新社(2019)
*マリオ・バルガス=リョサ(著)
*立林良一(訳)
 プリンストン大学の図書館にはバルガス=リョサ氏に関する資料が収集されており、ラテンアメリカ文学界の頂に君臨する小説家の研究所としても機能している。それだけにラテンアメリカ研究講座の主任教授、パリの『シャルリー・エブド』襲撃事件の被害者である新聞記者、聴講に訪れた学生諸氏を交えて開催された講義は、リョサ氏の文学観・政治観の理解を深めるとともに新発見をもたらす有意義な行事だった。講義では彼の政治的小説を題材とした対話がおこなわれる。そもそも歴史的事実と文学的創作の融合を旨とするリョサ文学において文学と政治は不可分の関係にあり、作品を語る上で政治問題を無視することはできない。例えば『世界終末戦争』も『楽園への道』といった、講義で言及されていない作品もまた然り。バルガス=リョサ氏は常にラテンアメリカの政治史を自身の文学に取り組んできたのだ。なおこの講義録で取りあげられているのは『ラ・カテドラルでの対話』『マイタの物語』『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』『水を得た魚』『チボの狂宴』の五作品。大統領選挙活動期間の回想と批評を兼ねた『水を得た魚』以外は長編小説で、残酷な歴史的事実を小説という俎上で加工するリョサ文学の真髄を確認することができる。ほぼ結末まで語られるため未読の人には悩みの種となるかも知れない。先に対象作品を読了するか、多少のネタバレは覚悟の上で読み進めるか、それは読者の判断に委ねるとして、私見を述べさせていただくなら結末を知ったところでリョサ作品の面白味は損なわれないし、何なら予備知識を蓄えておくことで初読時の理解度が高まる可能性もある。この世界的文豪が手がけてきた小説は、ネタバレにまつわる不安を一掃するほどの盤石な土台と価値を有しているのである。



審判

*岩波文庫(1966)
*フランツ・カフカ(著)
*辻瑆(訳)
 不条理という言葉は非常に便利なもので、常軌を逸する事象・状況を説明する場面ではしばしばその利便性と汎用性に甘えて使いがちになる、といった話を以前したことがある。そのときもカフカ作品の紹介だった。またカフカに関しては「カフカ的」なる表現も頻繁に使用されるように、その独創的な小説世界は色々な言葉で喩えたくなる魅力に満ちている。それは著者自身を模しているであろう主人公の異常な末路を描く『審判』も例外ではない。銀行の業務主任を務めているヨーゼフ・Kは、ある朝に監視人と監督を名乗る者たちの訪問を受けると、自分が逮捕されていることを告げられる。罪を犯していないKは無罪を主張するも、訴訟を起こされている以上は審理に出向かなければならない。ところが道順の説明が曖昧でありKは迷いながら目的地を目指すことに。しかも審理がおこなわれる場所は古いアパートの一室で、聴講者は全員役人というありさま。Kの主張が理解されるはずもなく、屈辱を味わわされた彼は皮肉を残して立ち去る。こうした調子で彼の奔走は悉く不首尾に終わっていく。裁判所事務局を訪れたら気分が悪くなり局員に連れだされる。叔父のよけいな世話で病身の弁護士を紹介される。それでいて弁護士は全然仕事を進める様子を見せず、問い詰めても話題を逸らして説教を始めるばかり。情報を求めて法廷画家を訪ねるも協力できる範囲は極めて狭い。誰に折衝しても話は噛み合わないし、解決の糸口は見えなくなる一方である。結局彼の罪状は何なのか。Kの罪も訴訟を起こされた理由も明かされることはなく、齟齬の連鎖により逃げ場が失われていくという不条理な事態に読者は終始嫌な汗を滲ませることになる。



【読書備忘録】とは?

 読書備忘録は筆者が読んできた書籍の中から、特に推薦したいものを精選する小さな書評集です。記事では推薦図書を10冊、各書籍500~700字程度で紹介。分野・版型に囚われないでバラエティ豊かな書籍を取りあげる方針を立てていますが、ラテンアメリカ文学を筆頭とする翻訳小説が多数を占めるなど、筆者の趣味嗜好が露骨に現れているのが現状です。
 上記の通り、若干推薦図書に偏りはありますが、よろしければ今後もお読みいただけますと幸いです。


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