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【読書備忘録】帝都最後の恋から草迷宮まで

 人には独自の読書法があると思います。手あたり次第に読む人も、ある程度順番を決めて読む人もいることでしょう。私は恐らく後者に分類されるでしょう。具体的な数は決めませんが、いつも初読・再読併せて一〇冊前後候補を用意します。そのため【読書備忘録】における選書に(意図しているわけではないのですけれども)テーマ性が生まれることがあります。もしかすると、今回の選書にも何らかの法則がうかがえるかも?


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帝都最後の恋 占いのための手引き書

*松籟社(2009)
*ミロラド・パヴィチ(著)
*三谷恵子(訳)
 ミロラド・パヴィチ(本書ではパヴィッチ表記)は現代セルビア文学を代表する小説家で、翻訳家であり文学史研究家でもあった。創意工夫された小説は既成概念を覆す構造をしていて、読者はこれまで体験してこなかった読み方を試すことになる。事典形式の小説『ハザール事典』然り、二つの物語が両面から進んでいく『風の裏側』然り、パヴィチ作品は常に読み手の想像を超えていく。いうまでもなく『帝都最後の恋―占いのための手引き書―』も特殊な細工がなされている。物語はナポレオン戦争時代に活躍するセルビア人家族の運命を追ったもので、二二の章で幻想的なスペクタクルが展開される。同時にこの二二の章は大アルカナと呼ばれる二二枚一組のカードに対応していて、巻末に付いているタロットカードで占いながら読むこともできる。つまりタロット占いの結果とおなじ名の章を読むと、その秘密が明かされる仕組みになっているのだ。発想の時点で飛び抜けている。これがパヴィチ作品の特徴で、まるでおもちゃを本来の用途とは異なる方法で用い、独自の遊びを開発するような柔軟性を見せるのである。

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カンガルー・ノート

*新潮文庫(1995)
*安部公房(著)
 文房具会社の提案箱に投函した「カンガルー・ノート」が入選するも、翌朝脛から無数の「かいわれ大根」が生えてきたので皮膚泌尿器科に駆け込むと、麻酔で眠らされて生命維持装置付きのベッドに固定され、医師の指示で硫黄温泉に向かって旅立つ。ベッドは世界に知られるアトラス社製。自動操縦式の水陸両用で、建造物に変形したり、動物のように意思疎通することもできる優れもの。この万能ベッドを足代わりに「かいわれ大根」の生えた男は、神出鬼没のトンボ眼鏡の看護師、賽の河原で仕事に励む小鬼、死んだ母親、共同病室の縄文人たちと交流していく。この爽快感を覚えるほどのぶっ飛びぶり。安部公房の小説はあらすじの時点で突出している。その奇想を極めた小説作品は世界的に高く評価されており、世紀をまたいでも異彩を放ち続けている。なお、安部公房は次回作『飛ぶ男』執筆中に病没したため『カンガルー・ノート』は完成品としては遺作である。作中では死を連想させる現象・事象が滑稽に表現されているが、作者が発表後間もなく病に倒れたことを意識すると、一貫して陽気に描かれている死のイメージが暗示的な、はかなげな色を帯びてくる。

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別れ

*水声社(2013)
*フアン・カルロス・オネッティ(著)
*寺尾隆吉(訳)
 本書はフアン・カルロス・オネッティの短編小説集である。表題作は短編小説としては長めなので、中編小説と短編小説を収録した作品集という方が正確だろうか。表題作『別れ』では、病気療養と称して田舎町に滞在する男の動向が飲食系の店を経営する主人の視点で語られる。男と関わりのある年配の女、男とおなじ家に泊まる若い娘、唐突に現れた二人の存在が病身の男を不気味に染めていき、やがて大きな事件を引き起こすことになる。ここでは小説技法「意識の流れ」が巧みに使われており、結末に用意されている重要な事実は、的確に読者の虚を突いてくる。こうした魔術的な文章表現はオネッティの特徴でもある。盟友ルイス・バッジェから聞かされた実話を競馬欄担当の新聞記者に迫る前妻の復讐譚に換えた『この恐ろしい地獄』然り、死者との結婚を信じてウェディングドレスすがたで徘徊する狂女を語る『失われた花嫁』然り、恐怖も悲哀も幻想的な文体を用いることで、物語全体を柔らかなヴェールで包み込むのである。

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日本近代文学入門 12人の文豪と名作の真実

*中公新書(2019)
*堀啓子(著)
 三遊亭圓朝は師匠の無理難題を交わしながら『怪談牡丹燈籠』を作り、二葉亭四迷は圓朝の創作落語とロシア語に着想を得て『浮雲』を著した。二人の苦心惨憺は口語をそのまま文章化する言文一致体の誕生に結び付いた。現代の文法に繋がる画期的な文体は、圓朝と四迷という近代落語と近代小説の先駆者たちの連携によって生まれたのである。このように本書は明治大正期という日本文学史の過渡期に重きを置き、日本近代文学を形成してきた重要人物をとりあげていく。近代初の女性職業作家として活動した樋口一葉。文学結社「硯友社」を結成した尾崎紅葉。理想の創作を新聞小説に求めた夏目漱石。反自然主義作家として日本流自然主義に背を向けてきた森鷗外。機知に富む短編小説を次々発表するも「ぼんやりした不安」を理由に自殺した芥川龍之介。錚々たる顔触れである。小説家だけではなく、落語家やジャーナリストのエピソードも交えて明治大正期の文学界を概説しているので、当時の文豪たちの交流を詳細にうかがい知ることができる。表題通り入門として読んでおきたい良書である。

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金閣寺

*新潮文庫(2003)
*三島由紀夫(著)
 金閣寺こと鹿苑寺放火事件を題材とした三島由紀夫文学の最高峰にして、日本文学史に名を連ねる不朽の名作。未読の人も表題を見聞きしたことはあると思う。放火犯は同寺で学問に励んでいた学僧。子供の頃から吃音症に悩まされていた彼は、徒弟として鹿苑寺に預けられた後も苦悶の日々を送っていた。師匠に対する不信感は募り、母親からの重圧は強まり、理解者である友人を失う。何よりも苦悩を引き起こしたのは金閣寺の美しさだった。敗戦後も美の象徴であり続ける金閣寺は、憂愁に駆られる青年を魅了するとともに、彼を無力な存在に貶める呪縛として君臨した。故に学僧は現状からの脱却を試みるたび金閣寺の幻影によって挫かれてしまい、愛憎入り乱れる自己感情に悶えるはめになる。この愛憎の念が呪縛の根源を葬る方法として放火を選ばせるのであった。小説『金閣寺』は放火に至るまでの経緯を告白する放火犯の主張である。その複雑怪奇な心理の描き方は見事で、三島由紀夫の驚異的な才知に触れることができる。いうまでもなく金閣寺の焼失も放火犯の正体も自明なので、宿命的に読者は結末を知りながら読むことになる。けれども物語の深みは未知の世界だけが持っているものではない。約束された結末までの道程に意義を与え、放火犯の告白を芸術に高めた『金閣寺』の偉業が色褪せることはないだろう。

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対岸

*水声社(2014)
*フリオ・コルタサル(著)
*寺尾隆吉(訳)
 短編小説の名手フリオ・コルタサルの初期短編集。収録作品はいずれも地方教員時代に書きあげたもので、コルタサルの奇抜な発想と、幻想的にして不気味な表現の原点に触れることができる。原点とはいっても各短編(中には掌編もある)のインパクトは強く、独特の鋭利な語り口はすでに完成の域に達している。この時期のコルタサルは退屈な田舎町でフラストレーションをためるばかりか、フアン・ペロン政権下におけるナショナリズムの勃興も影響して、友人に死を仄めかすほど精神的に追い詰められていたようだ。この極限状態で生みだしたものが『対岸』だった。なお『対岸』は第一部「剽窃と翻訳」、第二部「ガブリエル・メドラーノの物語」、第三部「天文学序説」で構成されている。第一部・第二部では吸血鬼や魔女といった亜人、あるいは突発的な手の巨大化や幽体離脱といった悪夢を模写したような怪奇幻想譚が主流であり、第三部では趣が変わって、異星人との交流や会社による星の清掃などSF寄りの奇抜な物語が続く。その筆致は後期の作品より自由気ままであり、コルタサル作品を読んだことのない人にもおすすめしやすい内容である。

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アイロニーはなぜ伝わるのか?

*光文社新書(2020)
*木原善彦(著)
 俗世を生きているとことあるごとにアイロニカルな言葉を耳にする。私たちは日常的にアイロニーに接している。しかし、そもそもアイロニーとは何だろうか。一般的に「皮肉」「反語」と定義されるものだが、単語の意味を知るだけでは説明不足で「どうしてアイロニーは成立するのだろうか」という疑問が晴れることはない。文学研究者として、翻訳家として数々の英米文学を紹介してきた木原善彦氏の『アイロニーはなぜ伝わるのか?』は、その疑問に答える絶好の教科書である。まずアイロニーを理解するには、嘘と皮肉との区別、いいたいことの逆・反対であることの正確な意味、アイロニー自体が持つ非対称的な性質、明言による失効といった特徴を把握しなければならない。ここで活躍するのがメンタル・スペース理論。メンタル・スペースとは認知言語学者ジル・フォコニエが確立したものであり「談話理解のための心的な表象空間」(本文より)のこと。このメンタル・スペースを取り入れることでアイロニーの理解は格段深まるので、本書のもう一つのテーマとして念頭に置いておきたい。いうまでもなく一筋縄ではいかない理論ではある。けれども木原氏が噛み砕いて説明してくれるおかげで、混乱することなく読み進められるため身構えなくても大丈夫だ。

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さかしま

*河出文庫(2002)
*ジョリス=カルル・ユイスマンス(著)
*澁澤龍彦(訳)
 フランスの自然主義文学を震撼させた伝説の奇書。エミール・ゾラに触発されて自然主義的小説を執筆していたジョリス=カルル・ユイスマンスは、デカダンスという相反する表現法で『さかしま』を書きあげ、新聞の書評欄を混乱させた。当時の批判は大変なものだった。それでも新境地を開拓したユイスマンスの挑戦は象徴派運動を促進し、芸術全般に多大なる影響を与えることになった。その物語は異様だ。貴族の末裔ながら遊蕩で遺産を失い、俗世に飽きたフロルッサス・デ・ゼッサントは祖先の城館を売り払って隠遁する。彼は大規模な改装を施し、ラテン語の書物、ボードレールとマラルメとヴェルレーヌの詩、モローとルドンとゴヤの絵画で書斎を埋めると、大海原を空想するため食堂を船室に変えてしまう。それだけでは飽きたりないばかりか、あるときは不可思議な宝石と食虫植物を愛で、またあるときは花々の色彩と香料を堪能する。装飾に装飾をかさねられた部屋はデ・ゼッサントの理想そのものであり、この人工楽園の成立と構造こそ『さかしま』の主題にほかならないのである。余談ながら澁澤龍彦は、本作品の原文は非常に難解であり、参考資料の乏しさもあって「これほど苦労した翻訳はない」とあとがきで告白している。

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出家とその弟子

*新潮文庫(1949)
*倉田百三(著)
 浄土真宗の開祖親鸞は幾度も文芸作品で扱われてきた。この潮流の火付け役となった『出家とその弟子』は、信仰と愛欲の狭間におかれた若者の苦悩を始め、人間がおちいる罪業と信仰の衝突を描きだした戯曲である。素地は親鸞の教えをまとめた『歎異抄』で、主要となる登場人物は親鸞、弟子の唯円、息子の善鸞、遊女のかえで。悩める「人間」と「顔蔽いせる者」が問答を繰り広げる序曲に始まり、幼少期の唯円と親鸞の出会い、唯円と遊女かえでの恋路、勘当された善鸞の煩悶が描かれていく。また本作品は浄土真宗の教義を基礎としながらもキリスト教の概念を交えるなど、別の教義や表現を折衷している点が特徴で、本来の親鸞像とは相容れない台詞がちらほら見受けられる。そのため発表当時は文学界と仏教界から批判を寄せられた。けれども『出家とその弟子』の執筆動機はあくまで芸術的衝動であり、教義を伝えるためでも布教するためでもなかった。いってしまえば親鸞にインスパイアされて戯曲化したフィクションなのだ。ロマン・ロランは本作品における宗教の調和を激賞し、フランス語版の序文まで書いたという。私はこの見方を推奨したい。

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草迷宮

*岩波文庫(1985)
*泉鏡花(著)
 明治大正期を代表する浪漫派作家にして、日本の怪奇幻想文学の先駆者である泉鏡花。彼の作品は何度語られてきたのだろうか。令和を迎えても鏡花節の異彩ぶりは健在で、あっさり年月の壁を超えると、戸惑う読者を超現実に引き入れてしまう。中編小説『草迷宮』は、諸国を旅する小次郎法師が茶店の老婆から秋谷の屋敷(秋谷邸)に関する因縁話を聞かされたことに端を発する。供養を頼まれた小次郎法師は秋谷邸に住み着いている葉越明なる青年と出会い、屋敷内で起こる数々の怪異を聞かされるとともに、亡き母の手鞠唄を恋い慕い、詳細を求めて放浪してきた経緯を知る。ここから展開する現世冥界入り乱れる場面の描き方は神業である。泉鏡花は雅俗折衷や言文一致を吸収しながら独自の文語を作り、能楽的な幽玄の美を実現することに成功した名文家なのは言をまたないが、彼の表現する幻想は練り込まれた構造の賜物でもある。例えば『草迷宮』では、入れ子構造の物語形式である枠物語、時系列の変動、語り手の交替を混ぜることで現実と幻想を交錯させ、読者に自分の居場所を見失わせる効果を生みだしている。泉鏡花の文学は浪漫と精微な表現技法で構築された仙境なのだ。

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〈読書備忘録〉とは?


 読書備忘録はお気に入りの本をピックアップし、短評を添えてご紹介するコラムです。翻訳書籍・小説の割合が多いのは国内外を問わず良書を読みたいという筆者の気持ち、物語が好きで自分自身も書いている筆者の趣味嗜好の表れです。読書家を自称できるほどの読書量ではありませんし、また、そうした肩書きにも興味はなく、とにかく「面白い本をたくさん読みたい」の一心で本探しの旅を続けています。その旅の中で出会った良書を少しでも広められたい、一人でも多くの人と共有したい、という願望をこめてマガジンを作成しました。

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