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【読書備忘録】服従からガラスの国境まで

 10回を超えると記事を微調整するのが習わしです。今回は31回目、30の世界に突入したのでカバー画像と当記事の説明文をちょっと変えました。字数の目安も変更。昔は500字以内だったのに、徐々に増加傾向にあり今では700字を超えることもめずらしくないですからね。また、これまでは書影を画像リンクにしていましたが、リンクとわかりにくいためそのまま埋め込む形式にしました。
 写真は自前で用意したいのですが、写真撮影はiPhone頼みですし、技術もお粗末だけに少々難しいです。でも、いずれは挑戦したいですね。それまではフリー素材を使わせていただこうと思います(著作権が関わりますので使用時は規約に充分ご注意を)。


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服従

*河出文庫(2017)
*ミシェル・ウエルベック(著)
*大塚桃(訳)
 大統領選挙でファシストかイスラーム主義者を選択しなければならない。こうした究極の選択を迫られたとき、自分は如何なる行動を取るのか。後悔しないためには如何なる行動を取ればよいのだろうか。日本は大統領制ではないが、一人の有権者として想像することはできる。この漠然とした想像を小説で表現した『服従』は、二〇一五年に発表されると、おなじ日に発生したシャルリー・エブド襲撃事件もかさなり世界的な注目を浴びた。この偶然は小説の話題性と部数を膨らませるとともに、著者自身には広報活動の断念と警察保護下での生活を強いるという皮肉な事態を招いた。西暦二〇二二年のフランス大統領選挙でイスラーム同胞党が移民排斥を唱える国民戦線を退け、フランス初のイスラーム政権が成立。この影響でパリ第三大学ではムスリムでなければ教鞭を執れなくなり、ユイスマンス研究者として教授を務めていたフランソワは解雇されてしまう。このフランソワという受動的な、生粋の傍観者は変貌するフランスの景色を目に焼き付けていく。視界に入る些細な変化。日常が政治と宗教に操作されている現実を、フランソワの現状を追体験して思い知らされていき、読んでいる内に得体の知れない不安を覚える。フランソワの目に映るものはディストピアの景色だろうか。宗教における思想、文学における思想、政治における思想。さまざまな思想を絡めて欧州に蔓延する疲労と不安を浮きあがらせる『服従』は、混迷する世界情勢を象徴している。なお、この記事を書いているのは二〇二一年。舞台である二〇二二年はもう一年後に迫っている。



O嬢の物語

*河出文庫(1992)
*ポーリーヌ・レアージュ(著)
*澁澤龍彦(訳)
 男たちからの陵辱を受け入れて、みずからの意思で絶対的服従を誓うOを通してエロティシズムの暗黒面を曝露した問題作。斬新性・独創性を尊重するドゥ・マゴ賞を受賞した世界的に有名な官能小説なので、外国文学に馴染みのない人でも表題は聞いたことがあるかも知れない。ただし道徳的観念も性的嗜好もぶっ飛んでいる上、性的表現より「支配」「服従」という概念を重視した重苦しい文体であるため、かなり読者を選ぶ小説だと思う。ファッション専門の写真家Oの人生は、城館で男たちから陵辱と調教を受けたことで転換期を迎える。たびかさなる強姦と鞭打ち。行動の自由を奪われたOは屈従するのだが、彼女は負の感情ばかり抱いているわけではない。そもそもOを城館に招き入れたのは恋人ルネである。やがてルネはOの「所有権」をステファン卿に譲り、Oは人から人の手に渡る玩具として肉体的な装飾を施されていく。束縛を受けることで充足を得るというOの逆説的な精神的変遷は奇妙だけれど、この奇妙な精神構造は『O嬢の物語』を画期的な作品たらしめる要素なのは明らかである。余談ながら著者ポーリーヌ・レアージュの正体は長年不明だった。一九九四年ドミニック・オーリーが表明するまで作者探しがおこなわれていたようだ。



郷愁

*新潮文庫(1994)
*ヘルマン・ヘッセ(著)
*高橋健二(訳)
 教養小説は自己形成を主題とする小説形式で、ドイツ語のBildungsromanを起源とする。主役の成長物語というとわかりやすい。幼少期に始まり、山あり谷ありの青春期を経て、成熟した壮年期を迎えるという構成を柱としており、オーソドックスな物語の一形態として根強い人気を誇る。必ずしも子供から始まるとは限らないし、肉体の成長を重視するとも限らない。重要なのは内面的な成長過程を描くこと。その点を踏まえると、教養小説発祥の地たるドイツの小説、それも青春期の煩悶を絶妙な筆致で表現するヘルマン・ヘッセの出世作『郷愁』は格好の見本といえる。ヘッセが『郷愁』を執筆したのは神学校退学後、古書店で働きながらヘルマン・ラウシャーなる別名で詩文集を自費出版していた頃。つまり彼自身Bildungsromanの世界でもがいていたのである。牧歌的な村に生まれたペーターは、自然児の資質と詩人の資質を備えていた。彼は芸術の道を選択して故郷に背を向ける。けれども都会で文筆業を営みながらも、友情を失い、恋に破れ、閉塞感に囚われるペーターは酒に溺れていく。そのすがたは袋小路で悶える青年像を象徴的にかたどっている。青年期を終わらせるためには何が必要なのか。彼はある身体障碍者との出会いをきっかけに、その答えを見付けることになる。



旅路の果て

*白水Uブックス(1984)
*ジョン・バース(著)
*志村正雄(訳)
 ポストモダン文学の定義を決めるのは難しい。近代主義からの脱却を目指す思想運動を基礎に、不条理劇を演じることもあるし、社会問題に迫ることもある。近代文学における合理的な構造に背を向けるところはリアリズムの放棄と喩えられるが、ガジェットとしてリアリズムを取り入れる場合もあるので安易に反リアリズムと解釈できるものではない。こうした不定形な面を特徴とするポストモダン文学を具体的に定義付けるのは、却ってその本質を損ねるのではないかという懸念がある。強いて小説技法に注目すると、思想も文化も言語も文学的実践の装置に換えることで、物語のパッチワークをおこなう節がある。乱暴にまとめると、リアリズムもシュルレアリスムも何でも自由に利用するのだ。この無法地帯の開拓者の一人であるジョン・バースは第二作目『旅路の果て』で、再生復帰院という施設で治療を受けている精神疾患者ジェイコブ・ホーナーに致命的な失態を演じさせることにより、合理主義的な生き方の失敗例を描きだしている。自我が欠落しているため頻繁に空虚に陥るジェイコブ・ホーナー。彼は社会復帰を志すとともに担当医師が提唱する「神話療法」を実践し、他者の自我(仮面)を借用するという方法で自己表現の道を模索する。しかし英語の規範文法教師としてウィコミコ州立学芸大学に務めるものの、生来の詭弁家に加え、不適切な仮面ばかり付けるせいでたびたび悶着を起こすのであった。不器用な理屈屋ジェイコブ・ホーナーは教員仲間のジョーゼフ・モーガン(彼も相当な理屈屋)と知り合うと、彼の妻レニー・モーガンの手ほどきで乗馬の練習を始めるなど交流を深めていき、間もなく悲劇の火蓋を切ることになる。その先に待ち構えているのはやはり空虚である。



飢餓同盟

*新潮文庫(2006)
*安部公房(著)
 安部公房の小説は非常に凝縮されている。大長編ではないのに頁数以上の充足を与える。前衛芸術家としての奇抜な発想と構成の賜物なのはわかるものの、具体的にその奇抜さを説明するのは案外難しい。理想郷を実現するため誕生した「飢餓同盟」の顛末を物語る本作品も例外ではない。飢餓同盟は尻尾の生えている花井の発案で結成された秘密結社で、工場の主任である花井を盟主に、紙芝居屋の矢根、診療所長の森といった人物たちをメンバーにしている。もっとも花井は工場主に怨恨を抱いており、矢根は宣伝部員に採用されたのに子供相手に紙芝居をやらされており、森は診療所に転勤するも有力者が診療所設置に反対したため飼い殺しに陥っている。この中に絶望のあまり帰省して自殺をはかる織木も混ざることになる。けれども付け焼き刃の同盟の行く末が順風満帆であるはずもなく、彼らは約束されたも同然の結末に向かって突き進むのであった。革命思想と狂気を境界線で揺さぶる表現力は見事の一言。超現実や寓意をおさえた概要は安部公房としては写実的な方なのに、町の政治経済を司る支配者が権勢をほしいままにし、支配者の下でおのずから秩序が生まれていき、秩序に溶け込めない人間が孤立するという世知辛さは現実における不条理にほかならず、そういう意味で安部公房が安部公房であることを証明した逸品といえる。



ウィトゲンシュタインの愛人

*国書刊行会(2020)
*デイヴィッド・マークソン(著)
*木原善彦(訳)
 実験小説といっても多種多様なので十把一絡げにはできないが、相通じる小説技法を用いている作品はあるし、小説における実験性を漠然と想像することはできる。けれども『ウィトゲンシュタインの愛人』の試みはこちらの想定を超えていた。概要を説明するだけでも頭を抱える。何しろ明確な起承転結はなく、大きな謎が解き明かされることもないのだ。はっきりしているのは、この物語は人類最後の一人となったケイトという人物の独白であること。地上から人類が消えた理由も、ケイトだけ生存している理由もわからない。海辺の家で孤独な日常を送る彼女の語り口、そのタイプライターで綴られる彼女の文章は淡々としている。過去には生存者を求め、捨てられた自動車を乗り継いで各地を旅したこともあった。その旅路の果てにあったものはタイプライターだった。即興的な彼女の文章は脱線と跳躍を繰り返し、話題は時間軸を無視して自由奔放に飛びまわる。家族の話を語っていたら洗濯物の話に移り、旅の話からウィリアム・ギャディスの話に変わる。自由連想法を思わせる想像の跳躍は物語の欠片を落とし、呟きを寄せ集めたような不思議な小説世界を構築していく。適切な例えであるか自信はないけれど、彼女の文章には『徒然草』の序文を想起させるとともに、芥川龍之介の「話らしい話のない小説」を連想させる語りの妙がある。



水いらず

*新潮文庫(1971)
*ジャン=ポール・サルトル(著)
*伊吹武彦(訳)
 白井浩司(訳)
 窪田啓作(訳)
 中村真一郎(訳)
 哲学と文学は簡単に切り離せるものではないけれど、実存主義の作家には取りわけ境界線を設けない印象がある。サルトルは代表格といえる。実存主義の思想家であるサルトルは、第二次世界大戦以前の若い時分から両分野を渡り歩いた強者だった。その足跡は短編小説集『水いらず』の収録作にも残されている。各作品の発表時期は長編小説『嘔吐』とほぼおなじで、実存を追究するサルトルの思想を覗き見ることができる。表題作は破綻寸前の夫婦の物語である。性的不能者である夫と、絶望して愛人の元に逃げようとする妻。ここでは肉体的な嫌悪と疑念が鍵を握り、妻が夫に希望を見出すまでの過渡期が入念に表現されている。そのほか、処刑間近の死刑囚が皮肉な顛末を迎える『壁』、狂気に取り憑かれた娘婿に対する父・母・娘の思惑に迫る『部屋』、ヒロイズムをこじらせた人物が大量殺戮と自殺を計画する『エロストラート』、自我を見失った少年が他者の視線に自己を見出していく『一指導者の幼年時代』という実存を主題とする物語が続く。とはいえ実存主義を理解していなければ楽しめないということはないし(私自身理解しているとはいいがたい)、躊躇する人はあまり前提を設けないでリラックスして読む方がよいと思う。いうまでもなく実存主義を意識して読むもよし。読みやすいスタイルで読むことをおすすめしたい。



彼女とあの娘と女友達と俺と 海辺の彼女編

*インゲン書房(2020)
*松代守弘(著)
 noteで連載中の連作短編小説集『彼女とあの娘と女友達と俺と』より、海辺の彼女と呼ばれる美しい人妻とのエピソードを収録。積極的に電子書籍出版を進めている松代守広氏の通算三冊目となる。意味深長な表題からただならぬ女性関係を想像するのは容易だと思う。このシリーズは自由気ままに複数の女と交わる中年男「俺」の日常を綴るもので、現代社会における生活模様を撮影するように残していく。いつもカメラバッグを担いで出かける主人公は海辺の町で出会った人妻と逢瀬をかさねる。あるときはサザエの抜き方に苦戦し、あるときは共食い看板を掲げる店で鍋を突き、あるときは球場で消化試合を見ながら弁当を平らげる。その中で二人は濃厚な性交渉に耽るのであった。第一話『海辺の彼女とサザエのつぼ焼き』から始まる九つの物語は、確かに男女の不倫を素材とするものだ。けれども彼らの関係は軽快なリズムを刻んでおり、物語全体には仄かな哀愁とともに安らかな時間が流れている。不倫自体に焦点を合わせるというより、ソーシャルメディア、娯楽、風習、人間関係といった周囲の事物を浮きあがらせる表現法が特徴で、彼らの足跡を辿っていると世間を俯瞰している気持ちになってくる。その風景は悪いものばかりではない。体験する事柄は、それぞれささやかな思い出として淡々と記録されていく。最初に述べた「生活模様を撮影するように」という感想は、こうした印象から引き起こされたものだ。



なにかが首のまわりに

*河出文庫(2019)
*チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ(著)
*くぼたのぞみ(訳)
 著者はナイジェリア南部出身の小説家であり、世界中から注目されている現代アフリカ文学のカリスマ的存在である。アフリカに対するステレオタイプの認識を浮き彫りにするとともに、その固定観念を叙情的な語り口でたしなめるスタイルは人を惹き付ける魅力に満ちている。表題作に選ばれた『なにかが首のまわりに』は、そうしたアディーチェ氏の真髄が現れている出色の逸品といえる。主人公はラゴスからコネティカットに移住した黒人女性。彼女はやがて白人男性と交際を始め、絶えず周囲から冷めた視線を投げ付けられるはめになる。アフリカに対する偏見と黒人女性に対する差別意識を含む人々の視線は、異なる生活環境を経験してきた二人の溝を深めていく。いうまでもなく差別意識を抱きながら対等な関係を築くことはできない。しかし差別意識とは往々にして無意識下で育まれるものである。結婚を取り決められて渡米するも、アメリカかぶれの夫との息苦しい生活を強いられる妻の苦悩を描く『結婚の世話人』然り。白人に抵抗するために息子に英語を学ばせるも、結果的に息子を西欧文化とキリスト教に染めることになる『がんこな歴史家』然り。収録されている一二の物語はいずれも差別意識の本質に迫り、アフリカ、黒人、女性にまつわる固定観念の刷新を試みている。



ガラスの国境

*水声社(2015)
*カルロス・フエンテス(著)
*寺尾隆吉(訳)
 カルロス・フエンテスは数々の名著を残すだけではなく、同業者を積極的に支援したことからラテンアメリカ文学ブームの火付け役として活躍した。小説家としては作品同士が呼応する「時間の年代」という枠組みの中で、母国メキシコ独自の文化を実験的技法で築きあげてきた。晩年はおなじ主題の反復と実験にこだわりすぎる姿勢を揶揄されたフエンテスではあるが、全盛期の小説は物語の面白さも手法の巧みさも抜きん出ていた。これは確かなことだし、私自身主張したいことである。彼の描きだすメキシコのすがたも印象に残る。スペイン語を公用語とするためラテンアメリカに含まれても、北アメリカに位置するため中南米には含まれない。言語と地理のどちらを優先するかで立ち位置が変わるという複雑な事情も絡み、メキシコは国境を隔てたアメリカとは穏やかならぬ歴史を刻んできた。その国境という概念を象徴的に物語化した『ガラスの国境』ではメキシコの情勢が濃密に語られる。原書初版に「九つの物語で書かれた小説」と付されていたように、本作品では九編の短編小説が集合して一編の長編小説を形成する手法が取られている。その中心には裕福な権力者レオナルド・バロソがいる。最初の物語「首都の娘」で主役を務めるほかは脇役として顔を見せており、奨学金の送り主や工場の社主として、または飛行機で偶然一緒になる乗客として登場する。レオナルドに接する各物語の主役は、総じて不遇な、抑圧下にある人ばかりで、そのほとんどは隣国アメリカとの摩擦の犠牲者といえる。本作品は世界的流行を生みだしたラテンアメリカ文学、その中においても特殊なポジションであるメキシコ文学の逸品といって間違いない。



【読書備忘録】とは?

 読書備忘録は筆者が読んできた書籍の中から、特に推薦したいものを精選する小さな書評集です。記事では推薦図書を10冊、各書籍500~700字程度で紹介。分野・版型に囚われないでバラエティ豊かな書籍を取りあげる方針を立てていますが、ラテンアメリカ文学を筆頭とする翻訳小説が多数を占めるなど、筆者の趣味嗜好が露骨に現れているのが現状です。
 上記の通り、若干推薦図書に偏りはありますが、よろしければ今後もお読みいただけますと幸いです。


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