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『翼の翼』著:朝比奈あすか(光文社)

「成績が振るわず医者になれないなら人を殺して切腹しようと思った」

令和4年1月15日、大学入学共通テストの会場である東京大学前の歩道で、受験生を含む三人に刃先を向けた高2少年は、犯行後こう話したという。愛知県下随一の進学校に通っていた彼は、入学した当初から「東大の理IIIに入る」と公言し、両親も困惑するほど「東大」に執着していたと雑誌記事で読んだ。
(太字は評者による)

無論、表に出る情報だけでわかることなど限られるし、編まれたものもあり、真実は定かではない。しかし、彼の成育歴、とくに親子関係が、いかにしてこの闇深い思考や行動に繋がったのかは他人事でなく、重い鞄を背負い予備校に向かう我が子の背中をしげしげと眺めた親は少なくないはずだ。当時高2の娘がいた評者もその一人だ。

同様に、まだ子どもが学童期であるにもかかわらず、事件に当事者のように胸を痛めたクラスタ、いわゆる教育熱心なご家庭では、この、中学受験をこれでもかというくらいリアルに描いた小説、朝比奈あすか著『翼の翼』は読了済みかもしれない。妻に

「この本、あなたも読んでおいたほうがいい。きっと身につまされる。私も反省した。息子(娘)に自分のエゴを押し付けるのは間違っている。もっとあの子に寄り添う親になるためにも。さ、読んで。」

なんて言われてしぶしぶ手に取ったものの無我夢中で読みふけり、そして涙し、本を閉じたあと、机に向かう我が子を背後からぎゅっと抱きしめ「もう受験やめてもいいんだよ」と語り掛けるところまで経験済みかもしれない。(笑)

しかし今回

「ああ、あの東大の事件。無縁の世界だわ。あれは親が子どもの人生に介入し過ぎるせいでしょ。程よい距離感が大事なのにね。では、失礼。」

そう鼻マスクを直しながら足早に通り過ぎようとしたあなた。あなたはこの本の主要人物である真治(しんじ)とよく似ている。
(マスクは評者の妄想であるが)

本書は、一人息子の翼の年齢ごとに章立てされている。

第一章「八歳」。専業主婦の円佳は、翼に生まれて初めて「全国一斉実力テスト」を受けさせ、好成績をとったことを誇りに思う。文武両道で友達も多く、素直で優しい翼。円佳は「塾に行きたい」と思わせるよう八歳の翼に人生を語る。そして翼が関東最難関校の制服に目を通す姿、いやその姿に目を細め送り出す自分を夢見るようになる。

そこに冷静に釘をさすのが真治だ。中国に単身赴任中のエリートサラリーマンである彼は、自分が小さい頃は野原を駆け回っていた、中学受験塾のお世辞や勧誘には乗せられるなと、ことあるごとに円佳に言う。しかしどこか上から目線だ。彼も実は中学受験経験者。第一志望には届かなかったが大学受験でリベンジを果たし、希望の国立大を出て今の収入と地位を得た。人生は成功だけでなく、失敗も貴重な経験の一つであるのは確かだ。自分が歩んできた道を肯定したい。そんな彼のプライドを傷つけないよう、精一杯気を遣う円佳だが、反面そのプライドを利用し、夫の両親をも巻き込んで中学受験行の列車に乗せてしまう。

我が子の翼を広げようと円佳と真治が静かなる狂気を帯びていく「十歳」。そして「十二歳」。ピリピリとした静電気を浴び続けた翼の翼から、次第に血が流れだす。それなのに、途中下車できないのだ。

ホラー映画さながらの展開だが不自然さはない。なんて身勝手な両親だと非難することもできない。未だ我が国に根強く残る学歴志向、東大ブランドを崇めるテレビ番組。開いていく格差。終始、円佳目線で語られる本書だが、翼を一本ずつ抜き取っている得体のしれないものの正体は真治を通して見えてくる。

最終ページ。真治からのLINEに、あなたなら何と返信するだろうか。

冒頭の事件の少年は罪を償ったあと、新たな列車を探すことができただろうか。翼は再生するのか。今、飛躍が困難な時代と社会を生きている私たちが、当事者として読み、考えるべき一冊だと言えよう。

#読書感想文 #朝比奈あすか #読書

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