見出し画像

私たちの心に棲む「山姥」とは ➀ プロローグ


 
無料マガジン「神話と物語から生きる知恵を汲む」は、今回から新しいシリーズ「山姥編」に入ります。

このマガジンの概要をお知りになりたい方は以下をご覧ください。
    ↓            ↓             ↓

https://note.com/komorebi1231/n/n42ce062bdbc7

 
今までグリムやアンデルセンの童話、ギリシャ神話の女神など取り上げてきました。いずれも西洋もの。さて日本のお話は?となったとき、私の頭のなかにまず浮かんだのは「山姥」でした。
 
子どもの頃、山姥が出てくるお話で、とても印象に残っていたのが「飯食わぬ女」です。ある男が飯食わずによく働く女房をもらいましたが、実は山姥で、頭のてっぺんにでっかい口があり、山ほどの握り飯を貪り食っていたという話。なんとも怖くて不気味で忘れられない話でありました。
 
そういえば、ヤマンバギャルと呼ばれる女の子たちが渋谷あたりでよく見られた時代がありましたっけ(1998年~2000年頃)。日焼けサロンでガンガンに焼いたガングロと呼ばれる黒い顔、さらに目の周りに奇抜なメイクをほどこし、素顔とはまったく違った、まるで山姥の形相を彷彿とさせる10代の女の子たちの出現に大人たちは目が点になったものでした。あれは一体どういう現象だったのでしょうか。
 
山姥というと怖いイメージしかありませんでしたが、色々調べていたら、恐ろしいものばかりではないことがわかりました。ときには、困っている人を助けたり、恵みをもたらしたりする話もいくつもあります。
 
例えば・・・
 
「ちょうふくやまの山姥」は、子を産んだ山姥が、「餅もってこい」と村人に言いつけ、村人と大ばんばが、餅を運ぶ話。途中山姥の声を聞いて村人は逃げ出す。大ばんばひとりで餅を運べずにいると、生まれたばかりの山姥の子が餅を担いでいった。大ばんばは山姥に引き留められて、しばらく山姥の世話をした。そしてそのお礼に山姥から錦をもらって、村へ帰ってみなに分けたが、不思議なことにこの錦の反物は切っても切っても減らなかったそうな。
 
「山姥の糸つむぎ」は、親を亡くして、ひとりで生きる幼い娘を山姥が助ける話。娘は麻糸をつむぎ、それを町に売りにいって生活していた。麻は硬くてなかなかうまくつむぐことができず「おっか~」と泣いていると、強い風のなか恐ろしい形相の山姥が現れ、「泣く子は食っちまうぞ」と言う。山姥は麻糸の実をモリモリ食べ、「この麻糸を食ったら、今度はおまえを食う」と言う。娘がもう泣かないと約束すると、山姥は食った麻糸をお尻から出し始めた。山姥のお尻から出る麻糸はフンワリと柔らかく、幼い娘でも上手につむぐことができた。そのおかげで娘はもう泣かなくなった。
 
というような話などなど。
 
恐ろしい負の側面と肯定的側面が表裏一体であり、登場人物のありようで、それはコロッと反転するのです。

山姥は一方には極端に恐ろしく、鬼女とも名づくべき猛威を振るいながら、他の一方では折々里に現れて祭りを受けまた幸福を授け、数々の平和な思い出をその土地に留めている

柳田圀男(1963)「山の人生」柳田圀男集第4巻

山姥は昔から人々に畏れられ、かつ大切にされてきたイメージなんですね。

山姥の話は、迫力があって、原初的な生命力を感じ、私はそこに惹きつけられてしまいます。現代社会を生きるなかで、いつのまにか削いで削がれてか細くなってしまった本能的な力みたいなものを思い出させてくれるのかもしれません。
 
山姥に似たイメージは実は外国にもたくさんあります。グリム童話のトルーデさんやロシア民話のババヤーガなど。

ババヤーガは無料マガジン「神話と物語から生きる知恵を汲む」シリーズ②「麗しのワシリーサ」に登場しています。よかったら是非お読みください。
    ↓       ↓       ↓
https://note.com/komorebi1231/n/n8827fc29c081


人間の集合的無意識にある山姥的な元型イメージとは、いったいどういうものなのでしょうか。
 
山姥について書かれている2冊の本に出会いました。

「山姥、山を降りる ~ 現代に棲まう昔話」 山口素子著
著者は、ユング派の分析家です。
 
「女性の原型と語りなおし 山姥たちの物語」水田宗子他編
編者は比較文学者で詩人です。
 
これらの本を参考に、これからしばらく「山姥」を私なりに追ってみたいと思います。お読み頂ければ幸いです。

 今まで投稿してきた無料マガジン「神話と物語から生きる知恵を汲む」シリーズも併せてお読み頂ければ嬉しいです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?