妄想日記㉑もしも私がおじさまだったら。

ビーフシチューを食べ終えたあと、俺は訊いた。
「あの小説は実録ものではないよね」
「まさか」
小夜は不敵な笑みを浮かべてワイングラスに口をつけた。
「私が主人を殺して逃げたとでも?」
「まさかとは思うけど」
今迄に見たことのない鋭い目つきをしている。
「すべての作家が実体験のもとに書いていると思いますか?」
「そんなことはないと思うよ、当たり前だけど」
「私にそんな疑いをかけるということは、私には才能が無いと仰っているんですね」
「そんなことは一言も」
「同じことですよ。いいですよ。別に。慣れているから」
「慣れている?」
「こんな小娘に何ができるっていう思い込みから来る発言を浴びせられることですよ」
ああ、もしかしてまたやってしまったかもしれないと思った。
見た目の清らかさから逸脱することを許さない大人の勝手な思い込みだ。
「申し訳ない。俺は初めて君を見た時から勝手に決めつけてかかっているんだよ」
「どんな?」
「とても清らかで純粋で、無垢な女の子だということだよ」
歪んだ笑顔がそこにあった。
「ありがとうございます。それは私の鎧でもあったけど、私を縛り痛めつける縄でもあったんですよ」
小夜は席を立ち、俺の横にやってきた。
俺は小夜を見上げた。
うっすらと涙ぐんでいる。
「聡一郎さんにはその縄をほどくことができますか?」
返事に窮していると小夜が口づけてきた。
とても柔らかで温かな唇に俺自身がほどけてしまった。
俺は立ち上がり、小夜を優しく抱いた。
「ほどけと言われたら、ほどきます」
我ながらこの言い草はずるいなと思った。


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