放蕩息子の兄
新約聖書にあるイエスキリストの有名なたとえ話に「放蕩息子」がある。ルカの福音書第15章全体をとおして、父親とその息子たち(兄と弟)について書かれた物語だ。
父親は財産を二分割し、従順な兄は父親の元で父の手伝い(仕事)を続けるのだが、弟は旅立って放蕩の限りを尽くす。しまいには全財産を使い果たしてしまう。貧乏になった弟を助けるものはなく、激しく後悔した弟は父の元へ戻ってくる。すると父親は温かく弟を出迎えるのだ。20節あたりから口語訳聖書を引用してみよう。
多くの教会は弟の立場に立つ。そして、「神の赦し」を強調する。あまり兄の事には触れない。たとえ触れたとしても「兄は神に子ヤギなどを求めなかったから与えなかっただけ」などという解釈や、「兄は日々の暮らしに満足していたはずだが、弟の出現で急に不満を覚えた」などという説教まである。
ひとつ、異を唱えたい。
同じ新約聖書「マタイによる福音書」第6章で
多くのクリスチャンはこの部分を引用し、働きを行ってもそれを表明する行為を良しとしない傾向がある。もともと日本のように謙遜を良しとする文化では、自分から進んで褒美や褒章をもとめない部分を評価しがちだ。
しかし、欧米とくにアメリカが裁判文化であることを考えれば、兄が不平不満を覚えて裁判を起こそうとするのを父がなだめるシーンと解釈してもおかしくはないだろう。それを、日本では「褒美や褒章をもとめること自体がおかしい」「無私に生きる、献身は美徳」などとする方向へもっていきがち、なのである。
兄は褒美を求めたかったのかもしれない。あるいは、心のどこかで満たされない思いを抱えながらも、褒美を求めること自体に無自覚だったのかもしれない。
そうであったとしても父が兄の日々の働きを「当たり前のできごと」ととらえ、感謝の言葉を一切あたえていなかったとしたらどうだろうか?
「何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。」
日々働くものをねぎらわない。これが神の正義だろうか?
こういった話を展開すると
「お前は褒美が欲しいがために働いたり施しをしたのか?」
そう問い詰めるクリスチャンらがいる。
ならば、こう切り返してみよう。
「あなたは天国に行きたいために、施しをしたり働いたりしているのですか? 主のみこころをなすこと自体にに満足するのであれば、たとえ地獄へ行ってもそれを良しとして主に感謝すればよいではありませんか。主がそう判断されることに異議を一切となえない、その覚悟をお持ちですか?」
その上でこう言い添えよう。
「私は私のなしたこととを『褒美が欲しいがために働いたり施しをしたのか?』と問いかけた皆さんを許せない。ですから一緒に地獄へ行きましょう」
もしこの言葉で表情を変えたり態度を変えるようなら、その者はクリスチャンとは言えないかもしれない。
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