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新しいはじまりの、はなし。| vol.3

お別れの朝。

 3月31日、引っ越しの朝。早々に朝食を済ませて、息子を保育園へ送っていった。
 卒園式は、すでに3週間前に終わっていたけれど、卒園後も年度内は通わせてもらえるのが通例だった。本当にありがたい。

 このコロナの影響で卒園式もぎりぎりまで、どうなるか分からなかったけれど、式次第を短縮するなどの配慮をし、式を開いてくださった。
 その後に企画していた謝恩会は、私たち保護者の判断で泣く泣く開催を取りやめたけれど(いつか落ち着いた頃に、同窓会をしようということに)、一人も欠けることなく、元気に卒園できたことに、感謝の気持ちでいっぱいだ。

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卒園式当日の写真。この頃はまだ渡航延期にはなっていなかった。


 0歳から6年間お世話になった保育園。文字通り、今日が最後の登園日だ。夕方、迎えにいくね、最後までみんなと思いっきり遊んでおいで!と息子に声をかけて見送った。

 ほどなくして、引っ越し業者がやってきた。
コロナの影響はあるものの、引っ越し繁忙期には変わりない。かろうじて、この朝の時間帯だけが、唯一空いているということで、何とか手配することができた。体育会系のお兄さんたちが、それはもう手際良く、どんどん荷物を運び出していく。あっ、という間に、部屋は空っぽになった。

 物がないと、この部屋も広く感じる。
引っ越してきた日のことを思い出した。その時、息子は、まだおなかにいたっけ。家族が増えるからと、少しだけ広いこの部屋に、主人とふたり引っ越してきた。大きくて、朝陽がよく差し込む東向きの窓。広い公園に面していて、目の前には何も遮るものが無くて。そこから見える空は、まるで故郷北海道の空みたいだと思った。すぐに気に入って、ここに住むことを決めた。6年間、本当にありがとう。あとで息子にも見せてあげよう。
…と、浸るのは、また後だ。このあとすぐに引っ越し業者と新居で落ち合って、今度は荷物の搬入だ。掃除用具を抱えて愛車に乗り込み、急ぎ、公務員宿舎へ向かった。

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毎朝、ここから空を眺めるのが好きだった。
撮りためた、ある日の空。
同じものはひとつもない。



 花見の特等席。

 とりあえず、引っ越し業者よりも先に到着した。中に入るのは今日が初めてだ。
 ひんやりした室内。あぁ、この感じ、懐かしい。前の人が退去してから、どのくらい経っているのだろう。息子はどんなふうに思うだろうか。彼のデフォルトは、あのマンションのあの部屋。彼の驚く顔が、目に浮かぶ。

 新居は、リビングのほかに和室が3部屋。大きな押入れ2つと納戸が1つ。間取り的には申し分ない。が、予想通り、照明器具もカーテンも、ガスコンロも給湯器も、何もない。少なくとも暗くなる前に、照明器具とカーテンは買わないと。あ、寒いから電気ストーブも。
 ひととおり、掃除機をかけたところで、引っ越し業者が到着した。これまた、段ボールや家具を、てきぱきと運び込んで、あっという間に搬入も終わってしまった。本当に頼もしい。

 積み残しがないか、トラック荷台の確認を終え、お礼にお菓子と飲み物を渡すと、別れ際に「タイには、いつ頃行けそうなんですか?大変でしたね」と、声をかけてくれた。世界は、こういう何気ない優しさで回ってるんだろうなぁ、と思った。

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 一息ついて、部屋の中を見回す。ここは、窓がたくさんある。北側から南側へ、風もよく通りそうだ。ふと、キッチンの窓から、あの日、息子と見た桜が目に飛び込んできた。すっかり満開だ。さしずめ、ここは花見の特等席。

 無事に引っ越してきました、今日からお世話になります。

 深呼吸をひとつする。暮らしを整えながら、ここでまた、好きと思えること、美しいと感じることを、みつけていこう。

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 温まる時間。

 一区切りついた頃、ちょうどお昼の時間だった。おなかが空いた。
この後は、ガスの開栓手続きの立ち合いや転居届、区への就学手続き、そして前の住居の退去確認、息子のお迎えと、まだまだ予定は目白押しだ。
 とりあえず、主人と二人で駅近くのミスドに入った。あぁ、そういえば、なんかこういうの、久しぶりかも。小さなカフェテーブルに向かい合って座る。

 「二人だけで、お茶するのって、いつぶりだろうね?…」
 「あ…、。うん、そだね…」
 「え、や、何にやけてんの、うける…。」

 主人の意外な反応に、お互いこそばい感じになる。付き合いはじめの高校生かよ。今ので、体温が一度くらい上がったかも知れない。

 甘いドーナツと温かいコーヒーで、ほっと一息ついた後、駅ビルの中の区役所へ向かった。コロナの影響はありつつも、さすが引っ越しシーズンとあって、待合スペースは、申請待ちの人たちで混雑していた。そのなかでも、互いになるべく距離をとりながら、自分が呼ばれる番を待っている。これは、しばらくかかりそうだ。
 「手続き終わったら戻るから、先に家帰って片づけしてていいよ」
 確かにふたりでいて、感染リスクを高める必要はない。お言葉に甘えて、トコトコ歩いて家に帰って、「すぐ使う!」の印が付いてる、段ボールを片っ端から開けて、片づけていった。



お別れのとき。

 主人が、区役所から戻ってきたのは、退去確認の待ち合わせ時間を間もなく迎える頃だった。慌てて、車で前の家に戻り、待っていた不動産屋さんと合流、引き渡しの手続きをする。私は、鍵を返す前にと、保育園に息子を迎えに行った。最後に、彼にも部屋を見せてあげたかったからだ。
 今日も、クラス全員元気に揃っていた。春からは、それぞれ違う小学校へ通うんだなぁと思ったら不思議な気持ちになった。園長先生、担任の先生に挨拶をし、保育園を後にした。6年間、ありがとうございました。

 息子と家に戻ると、手続きが完了したところだった。


「わぁぁぁ、すごい広い!!!!ここってこんなに広かったんだね!」
 空っぽの部屋で、息子が、子犬のように走り回っている。

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「今日で、ここのお家もバイバイだから、ありがとうしよう、か」


「うん、そうだね。ありがとう、バイバイ」


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美しい夕闇が、部屋ごと私たちを包み込もうとしていた。
寒くなってきたね、そろそろ新しいお家に帰ろう。
いままで、ずっとありがとう。お世話になりました。

「タイから戻ってきたら、またここに住みたい」と、息子が言った。

ーー

 その日の、その後のことは、ほとんど記憶にない。ただ、覚えているのは、その日に買い足した、都市ガス対応のガスコンロ、洗濯機用の長めの給水ホース、カーテン3セット、照明器具3セット。電気ストーブは、季節商品のためほとんど取り扱いが無く、最後に行ったホームセンターで、展示品だった1台をかろうじて買うことができた。
 それらを帰って取り付けて、外でごはんを食べた。何をどこで食べたのかも覚えていない。夜は3人、川の字になって、ただただ泥のように眠った。

長い一日が、終わった。

(つづく)

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これはこの春、私にあった出来事。
かわいそうだったね、大変だったねと誰かに慰めて貰いたいわけではない。
それでは、決して満たされないこと、解決しないことを知っているから。
書き綴るのは、私自身が過去に光をあて、そしてすべてを手放すため。
これは、私の新しいはじまりの証し。

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