許すの手前にあるもの
子どもの時、学校での出来事は友達同士のトラブルも含めて何でも母に話していた。いつも母は私の話を聴いてくれていた。
母は子どもの前でいつも穏やかで自分のネガティブな部分は見せない人だった。母にだって好きになれない人はいただろうにそんな話を人に聞かせたりしなかった。
私が傷ついて怒りを抱いた時も母は私に「怒りを握りしめず、許した方が自分のためにもいいよ」というような話をしてやんわりと諭されていたことを覚えている。
「人の陰口は言わない方がいい」
「相手を許すこと」
知らず知らずのうちに私の中にでき上がっていった理想の生き方を、母は自分の言動で示してくれていたけれど、いつの日からか自分の中にもやもやとたまっていった物が気づいたら自分の心を縛り付けてしまっていた。
「人間だもの」
どうしても許せないそんな思いもあった。
恨む気持ちを持つ自分を知らずに責めていた。苦しかった。
母にはとても感謝しているし、尊敬してる。大事なことを背中でたくさん教えてくれた。
けれど自分に娘が生まれて母のような子育ては自分にはできないと分かった時に、ふと思った。
許すことをする前、その手前に大事なステップがあってさらに「許す」ことは必ずしも「ゴール」にしなくてもいいのではないかと。
「許せないほど」傷ついた自分をまず受け止めることせずに相手を「許さなきゃ、許さなきゃ」とは思わないでいいのではないかと。
自分が傷ついた時、怒りや落ち込みやさまざまなきれいとは言えないかもしれない感情に包まれるのも人間らしさ。
そう思う自分を決して責めずに「そうだよね許せないよね。」と自分の感情を否定しない時間が必要で、最終的に「許せた」としても人それぞれそこにたどり着く時間もそれぞれで、ずーっと「許せないまま」もあっていいと思うんです。
ある本に書いてあった。「自分の子ども」を殺されてしまったお父さんが16年苦しんだ結果「犯人を許す」ことにした理由をこう言ってました。
「ほとんどの人は、加害者を許せば相手を解放するだけだと思っていますが、まったくの逆です。許すのは自分を解放するためなのです。」
このお父さんは16年もかけずに早く許せば良かったのか。
私はそうは思えなくて、16年はそのお父さんに必要だったもの。
「許す」の手前にある必要な思いと時間。
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