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気持ちを無視されるから人は傷つく

「#me too」運動が起きたのは7年前のことか。

読売新聞の『人生案内』の投稿を読みながら考えていた。つい先日も、NHK『こころの時代』で小松原織香さんのインタビュー『生き延びるための物語』を見たところだった。

小松原さんが被害を受けたのは20年前。
「#me too」運動が起きたのが7年前。

そう考えると、性暴力への認識はほとんど変わっていない。
そう思わざるを得ない。


新聞の投稿は、老健施設で働く50代の看護師女性からのものだった。施設を出て在宅介護になる利用者に対し、訪問介護を行っているという。

同世代の男性利用者宅を訪問するようになって2か月たった頃、その利用者からいきなり胸をつかまれるという性暴力を受けました。

2024.5.5 読売新聞『人生案内』より

女性は上司に相談し警察に被害届を出した。しかし証拠がなく、どうにもできないと言われてしまった。さらに施設からは、利用者が減れば赤字になると言われ解雇された。

こんな理不尽なことがあるだろうか。


わたしの心はいきり立った。
せめて施設側が、被害女性の気持ちを大切にしてくれたら。

性暴力の被害者は、被害そのものも苦しい。でもそれよりも、「気持ちを無視されたこと」に傷ついている。

投稿者の女性で言えば、献身的に人を看護する「気持ち」を無視され、「欲求のはけ口」として扱われたことが何よりも悲しい。
そして施設側は、傷ついた「気持ち」を無視して「利益」を優先した。


利益を優先することが正当化される風潮があると思う。

施設側としては話は聞いているし、他にも利用者が居る。それを考えれば、施設の存続を優先せざるを得ないだろう。

そういう甘い考えが、性暴力がなくならない原因のひとつだ。

たびたび起こるフェミニズム運動で、意識改革は進んではいるだろう。
でもスピードが遅い。

政治家がよく「スピード感をもって」なんて言っている。
でも女性の権利問題は、そのスピード感の対象にはならない。

問題としては認識されている。
でも優先順位が低い・・・。


価値観は受け継がれるものだ。差別的な価値観を持った人に育てられれば、それが当たり前だという価値観を持つ。その連鎖に終止符を打つためには「自分がすべて間違っていた」くらい、まるごと考えをひっくり返す必要がある。わたしたち世代が、まさにその世代だ。

そう簡単なことではない。

よかったこともあった。間違っていない部分もある。仕方のないことだった。などと少しでも正当化する余地を与えてしまえば、心はあっという間に流される。これは、性暴力に限ったことではない。


意識改革で言えば、女性側も例外ではない。
老人ホームに勤務する女性の話で「胸やおしりを触られることをいちいち気にしていられない」という人がいる。それくらい老人からのセクハラが横行しているということだ。

セクハラを気にしていれば仕事にならない。

気持ちよりも仕事を優先すればそういう考えになる。減るもんでもないし。と。だからといって、受け入れているわけではない。そこを勘違いしてはいけない。

投稿者の女性のように、訴えれば仕事を失うリスクがあるとなれば、声をあげることに足踏みするのも当然だ。


性暴力とはなにか。

わたしは犯罪サバイバーと公言してnoteを始めた。
自分のうけた被害が「性暴力」と言えるのかどうか、疑問があったからだ。
でも新聞記事を読んで、わたしも性暴力を受けたのだと認識した。

わたしは「#me too」運動には参加していない。
自分事であると同時に、どこか他人事だった。
女性側の性暴力に対する認識不足もまた、闇が深いと感じている。

フェミニズム運動はまた起こる。
社会的弱者が定期的に自分をさらして訴えなければ、その権利を維持できない世の中だ。


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