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【読書】誰が国語力を殺すのか


ふらりと寄った本屋で見つけた、衝撃的な本のタイトル。なんとなく手に取り、パラパラとページをめくってすぐに購入を決めた。

これから、国語の授業を極めたいと思っている私には「読まなければいけない本」だと直感で感じたからだ。

読了。

すべてを読んだ今、思うことは一つ。

子どもたちの言葉を育むことは急務であり、それは人間が健全に生きていくために必要不可欠なものであるということ。


「国語力」とは何か。文科省の定義によれば、「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の四つの中核からなる能力としている。

この図からもわかるように、土台には「語彙力」がある。

「死ね」「うざい」「キモい」

そんな短い言葉で自分の感情を表現することに慣れていってしまうと、物事や自分の思考さえもよくわからなくなってしまう。

物事を細部まで感じ取るためには、豊富な言葉が必要なのだ。

「死ね」と言ってしまう感情のなかには、「裏切られて残念だ」「仲間を信じて欲しかった」「どうして彼はああしたんだろう」といった色んな感情が隠れている。

自分の感情や相手の心のグラデーションを感じられるのも、言葉を知っているかどうかで変わってくる。

夕日を見た時に「うわっ、ヤバ。エグ」としか考えられない子どもと「山影に沈んでいく夕日を、セミたちが押し黙って名残惜しそうに見つめているね。彼らはあと何度この夕景を見られるんだろう」と考えられる子どもとでは、世の中や内面のことを細部にわたって、深く知覚する力に歴然たる差があるのは明らかだ。
『誰が国語力を殺すのか』

一つの景色を見たときでさえ、自分の中に言葉があるかどうかで見え方も感じ方も変わってくる。

ただ、言葉を知っていることだけが大切なのではなく、言葉の意味を知り、それを目の前の世界に照らし合わせて理解し、感じることができることが大切なのだ。

たとえば『切る』という言葉には、ハサミで紙を切断するという意味から、シャッターを切るという意味、料理をするときに水を切る、という意味もあり、多様である。

『愛する』という抽象的な言葉はもっと難しい。小学生でも『愛する』という言葉は知っているが、高校生の『愛する』と、30代夫婦の『愛する』と老夫婦の『愛する』は同じだろうか?

言葉は暗記して終わり、ではなく、経験や年齢を重ねてはじめて意味がわかったり、深まっていったりと長い時間をかけて育てていくものなのだという。


「国語力を育てる」ということも時間がかかる。しかも、目には見えないことの方が多い。本書に出てくるある先生の以下の言葉が私にはとても響いた。

国語力を育てることって成果主義とは真逆で、目に見えないものなんです。一つの詩を丹念に読み込んで感動の涙を流しても、テストの点数に結びつかないし、資格を取得できるわけでもない。でもそうやって内面で育ててきたものがあるからこそ、何十年か先に誰も想像しなかったような素晴らしい人間性を持てるようになるんです。

そう。そうなんです。

私は別に国語を通して、何か読解力を上げたいとか、点数を上げたいとか、そんな気持ちはほとんどない。

そうじゃなくて、国語を通して、自分や人の気持ちがわかるような人間になってほしい。

人の気持ちだけじゃなくて、人生の素晴らしさとか、自然の美しさとか、人に想いを伝える喜びとか……そういう心を育みたいのだ。


この本の後半には、ネットいじめやゲーム依存、不登校、非行少年など、たくさんの胸の痛む事例が紹介されている。

その中で衝撃的だったのは、ネットの中やゲームをする中で子どもたちが軽はずみに使い続ける言葉がいかに子どもたちを深く傷つけていくるか、ということだった。

「あいつぶっ殺す」

そんな言葉を仲間内で何度も繰り返していく中で、はじめは殺意はなかったのに命を奪ってしまった事件。

「死ねばいいのに」

友達に軽く言われた続けた言葉を鵜呑みにして、「死ねばいいって言われたし」と遺書を書いて自ら命を絶った高校生。


言葉は、人の命を奪うことすらできるのだ。しかも、本人が全く自覚していないところで、あまりにも簡単に。


そんな言葉の恐ろしさ、怖さを知った今だからこそできることがあるのではないかと思う。


それは、言葉の恐ろしさと同時に
言葉のあたたかさ、素晴らしさを伝えるということだ。


言葉によって
人は心を揺さぶられる

感動する
心が温まり
勇気が湧いてくる


そう、人を幸せにするのもまた言葉の力なのだから。


誰が国語力を救うのか


自分にできることから少しずつやっていこう。

チリも積もれば山となる⛰
がんばるぞー💪


今日は重い内容でしたが
最後まで読んで頂きありがとうございました😊




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