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苦を喜ぶ。


建築は、自ら語った夢を、
現実にしていくことのように感じていて。

基本設計から実施設計へと移り変わり、
理想や夢を語るだけでは具現化されないことを知って。

語った夢が大きければ大きいほど、
現実とかけ離れているほど、
確かな言語や計画が必要になる。

確実性を重視される価値観に嫌悪し、
そうではない価値観を追い求めるかのように
服をつくりはじめてみたりもした。

それはそれで、いまの僕にとって
必要なことではあるんだけど。

それだけだと、何かが足りなくて、
何かが違うくて。


自分にとって不都合なことや、
苦しいことがあると、
そのことから目を背ける為に、

そのもの嫌な一面に焦点を当てようとする。


その事自体は、きっと大切なことだと思う。


何かを嫌いになることができることは、
それだけ何かを愛することができる可能性を
示しているから。


何かを嫌う ということは、
自分が何を不快に感じ、何に喜びを感じ、
何を心地よく感じるのかを知ることでもある。


だから何かを嫌いになろうとする行為は、
ある意味、自己模索の過程なわけで。


好きを知る為にも、嫌いを知ること、嫌いと寄り添うことは、大切なことだ。




建築は夢を語って、それを形にすることができる。


しかもそれは自分の夢ではなく、誰かの夢なわけで。


その分、夢を語ること、実現していくことの責任は重く生じる。


この責任は、自分で自分の為に服を創ることの責任とは、違った重さと苦しさがある。



昔大学の恩師に、

対極な価値観を持つことができ、
その振り幅が大きければ大きいほど、
良いものを生み出すことができる。

というような話をしてもらったことがある。


その言葉の真意はまだまだわからないが、
あの時よりは少しは自分の中に入ってくる気がする。



デザインと向き合ったこの数年間。


いろんなことを考えて、表現をしようとしてきた。


空間を好きになって、言語を求めて、合理的であることを嫌い、不確かなものを恐れ、確実であることを憎み、服を欲し、空間を遠ざけた。


服を欲し、空間を遠ざけた。



服を欲し、空間を遠ざけ、服を空間だと感じた。



服を欲し、空間を遠ざけ、服を空間だと感じ、空間を表現したいと思った。



空間。



それは、インテリアでも建築でもない。

服でもない。


何かと何かにある 間 のようなもの。



それはきっと物質的なものというよりは、
物質を介して生まれる関係性であり、
それは物質があることで成立するもの。



目に見えるものと、目に見えないもの。



それらの狭間にある、心地よさや高揚感。



表現をしたい。




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