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人と、ことばと、モノと。


うまくいきすぎている。


ぼくに降り注がれた誰かからの言葉を
身にしみて感じさせられるように、
人との出会いが繰り返されている。


ここ最近は特に続いている。


まるで、

ぼくに言葉を伝えてくれたその人は、
これからぼくが出会う誰かのことを
わかっているかのように。


まるで、

ぼくと出会ったその人は、
ぼくがその人からもらった言葉と
どのように向き合おうとしていて、
どのように抱えているのかを
わかっているかのように。


なんなんだろう。



数日前、大学時代の一人の恩師から
「デザインと向き合うことの責任」について、

熱い想いのこもった、
かけがえのないお言葉をいただいた。

それはまるで、
「生きていくことの責任」
問いかけられているような、

読み返すたびに、ぼくのこころに、
何度もなんども切り刻まれる、

そんな文章だった。


最近知り合ったひとりの男性がいる。

職種も違えば年齢も違う。
生まれも育ちも違う。

その彼との共通点といえば、
数人の友人と、
「建築を学んでいた」ということだけ。


そんな彼のことは、
まだよくは知らない。


ただ、

大学時代、ぼくたちに、

建築やデザインと向き合っていくこと、
一本の線を引くことの重みを教えてくださり、

そしていまもなお、

その責任を問いかけ続けてくださる
恩師からのお言葉を、


その彼の話すことば、声量、表情、
すべてのことから、
思い出さずにはいられなかった。


まるで、恩師からの言葉が、
その彼の話す姿と照らし合わさって、
ぼくに問いかけてくるような、


そんな不思議な感覚。


きっと彼はそんなことを考えて
話していたわけではないのだろう。


だけど、その彼の話す言葉、
建築と向き合おうとしていたという事実、
そして、そうではない現状というものが、

ぼくには到底、受け止められないほどの
強い何かを感じさせた。


それは、
苦しさなのかもしれない。

もしかしたら、
苦しさを乗り越えた先に掴み取った
明るく、輝いた、一筋の光なのかもしれない。


それが一体どんな色をしているのか、
どんな表情をしているのか、
どんな形をしているのか、

ぼくにはわからない。


ぼくは彼の生きてきた人生も
その節々での選択も、
こころの中も、

何も知らないから。


ただ、そこにはなにか、
強い思いを感じてしまう。


それは単に、その時のぼくのこころが、
すごくセンチメンタルなものだったからこそ、
そう感じてしまっただけなのかもしれない。


だけど、
そんなことはどうでもよくて。


ただひとつ言えることは、
恩師から頂いたその問いは、

間違いなく、
今のぼくが向き合うべき問いであって、

答えを出そうとする姿勢が必要なのだろう。


だからこそその彼の姿が、
ぼく自身への問いかけのように、
戒めのように、

そう感じざるを得なかったのだろう。


また人に救われてしまった。


こうやってぼくのなかで、
ある人とある人と、
ある人とある言葉とが繋がって、

そこに生まれるひとつの光に
必死にしがみついて、
必死に向かい合って、

背中を押されながら生きているんだ。


自分の進む道は自分で決めてきたつもりだった。


確かに最終的にその選択をしたのはぼく自身であって、
誰かに決められた道を歩んでいるつもりもないし、
その責任は自分にしかないと思っている。


だけど、決してそれだけではなくて、

いまぼくが歩んでいるこの道は、
誰かがいてくれたからこそ歩める道であって、
誰かがいてくれたからこその選択肢なわけだ。


だからこそ、デザインをしていくことを
ぼくは自分で決める。


その行為によって、
傷つく誰かがいたとしても、
価値を失われるモノたちがいたとしても。


デザインをしたい。それだけだ。




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