主観的な意思

「主観的な意思」が必要な理由。


あなたは今、
消費を繰り返しながら生きています。


商空間、商行為が今後どうなっていくべきなのか、
ということをついて考えた時に、

「消費について考える場」であることが
重要なのではないかと考えています。


人は、誰しも生きていく上で数え切れないほどの
消費を繰り返し生きています。


何かを食すという行為。

何かを着るという行為。

何かを使うという行為。


生きていく上で必要とされるほとんどの行為には、
消費というものと常に隣り合わせになっています。

消費。

それは、「何かの命を奪う行為」とも言えます。


そして、商行為では、

その消費を促すことが前提に
ものごとが構成されているのです。


モノを売ることで、お金を稼ぐために。


その上で、どのようなことを目的とされてきたかというと、
消費しているという意識をどれだけごまかせるのか。
というようなことだとも言えます。


例えばファッションを事例に考えると、
大量のブランドや商品、
激しく移り変わる流行など。

これらの背景にも、「消費を促す」
という目的が存在しており、

洋服を購入する上で、どれだけ消費欲を
刺激することができるのか?

ということが根本にはあります。


その消費による経済の循環を
いかに効率的に、合理的に回すのか。


その方法として、

消費者の消費に対する意識を
どこまでごまかせるのか、騙せるのか、
ということが重視されているように感じます。


大量に商品を並べ、ブランドを並べ、
消費者に対してあたかも「自由な選択肢」
与えているかのようにふるまい、

ファッション、流行という共通の情報を拡散することによって
自然と消費をコントロールしているのです。


誰かが選んだその一着の服は、
いかにも自分が選択しているかのように見えて、
実は、誰かに選ばされた一着であるとも言えます。


まるで騙し合いです。詐欺です。


ですが、そのことに消費者が気づくことがなければ、
あるいは、主観的な意思を持つことがなければ、
だれもなにも気づくことがなく、

消費を繰り返し行うのです。

なにも考えずに、意思を持つこともなく、
何かの命を奪っているのです。


これは比喩的な表現ではありません。


事実です。


主観的な意思。

私が何かを食す理由。

私が何かを着る理由。

それは、
周りの誰かにコントロールされたものではなく、
私がそれを選ぶ理由。

それが「主観的な意思」であると、
僕は考えます。


今流行っているから、とか
安いから、とか

それはあくまでだれかにコントロールされた、
客観のうえに生まれる意思であり、
主観的な意思とは言えません。


僕が目指す商空間、商行為は、
この「主観的な意思」を持てる場。


私が、私が心の奥底から着たい。
この服を着なければ私自身を
保てなくなるほどに強い意思。


「誰か」ではなく「私」。

それ以上でも以下でもなければ、私。


それほどの強い意思を抱き、
私の中にいる私自身と、
向き合うことのできる

そんな商行為であり、空間です。

そして、そのような主観的な意思を
保てる商空間は、

決して今のような表装を取り繕った、
客観の上に生まれるような場ではなく、
あくまで個。

個を保てる場である必要があるのではないかと考えます。


消費をしてながら生きていく責任を
感じるきっかけともなるような。

そんな商空間を。




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