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言葉の価値観。


言語はなぜ、言語として存在しているのだろう。
言葉には「意味がある」とされている。

ここでいう「意味」とは、価値の有無の話ではなく、
国語辞典に掲載されるような、品詞や用法などのように、
他者あるいは自身との意思疎通を図る上でのツールとして
機能するために必要とされるものを示している。

例えば、「美しい」という形容詞には、

色・形・音などの調和がとれていて快く感じられるさま。
人の心や態度の好ましく理想的であるさま。

などという意味が添えられることがあるように、
言語には何かしらの意味が付き纏う。

「意味」とは、他者や社会、あるいは自身との意思疎通を図る為のものであり、
その意味があるからこそ、人は他者を理解し、共感し、誤解し、時として反感を抱く。

そして言語とは、情報の伝達や表現をよりスムーズに行う為の規則、
ルールのようなものであり、意味に対して共通の認識を持つことが、
スムーズな意思疎通を図る上では重要とされている。


最近感じることがあって。


この言語の在り方や「意味がある」ということが、
意思疎通を行う上での妨げになることがあるのではないか、ということ。

例えば、誰かのことを好きでいるために、敢えて「嫌い」という表現をすることがあるように。
例えば、その人の成功を祈って、その人が最も不快に感じる言葉を放つことがあるように。

このように言葉は、世間から用意された意味とは異なる意味を持つことが多々あるように感じている。

そこに作用している要素としては、例えば、感情であったり、
その人との関係性であったり、あるいは自身の心境や価値観というものも、
言葉本来の意味から離れた意味を持つきっかけになるのではないかと感じている。


つまりは、言語や言葉、あるいはそれらが持つ「意味」というものは、
表層的なものでしかない場合もあって、その言葉を選択するその人の真意は、
その言葉の背景に隠されていることがあるのかもしれないということだ。


しかもそれは、その言葉を発する本人ですら理解できていない領域で行われる、
「無意識のうちの選択」である可能性も秘められている。


人の深層心理で行われる情報の整理や、言動の選択というものは、
一見、無意識のうちに行われている、本人の意思の届かないことかのように
捉えられることもある中で、僕は、無意識の領域にこそ、
その人の、より「純粋な感情」が存在しているのではないかと感じている。


さらにいうと、無意識の領域で行われる情報の整理や言動の選択に対して、
何かしらの操作を行うことができれば、他者や自身の「純粋な感情」に
触れるきっかけになり得るのではないかとも考えている。


具体的な話でいうと、口頭表現力に関わってくることなのかもしれないが、
例えば会話における語尾や間の取り方、声量や会話の構成などもそうなのかもしれない。

そのうちの一つとして、言語の在り方や「言葉の意味」というものは、
ここでいう「純粋な感情」とも深く関わりがあるように感じている。

世間から与えられた言葉の意味と、自身の感情が異なることがわかっていながらも、
敢えてその言葉を選択し、表現をするのには何かしらの意図があるわけで。


そう考えると、言語や言葉に「意味がある」ということ自体が、
より純粋な感情を伝え合うための意思疎通を行う上で、
支障をきたすことがあるのではないかと感じるのと同時に、

それを技術として身につけることができれば、
より深度の深い意思疎通を行うことができるのではないかとも考えている。

そしてそれはある種の、自己対話でもあり、その先にある他者対話において、
自己の理解や開拓のきっかけにもなり得ることなのではないかと考えている。

言語や言葉の意味について、長々と文章を書いてみたが、
この文章を介して、特に重要だと感じていることは、

一見、対極に位置しているかのように思われる価値観と対面した時に、
それに対して善悪の判断を下すことに、どれほどの価値があるのか?
善悪の判断を下すことに囚われた時に、絶たれる可能性があるのではないか?

ということだ。

言葉に意味があることが、いいことなのか、それとも悪いことなのか?
論点はそこではなく、意味があることで意思疎通において弊害が生じるのと同時に、
意味があるからこその可能性はいくらでも見出せるわけであって。


価値観に対する自身の許容度。


それは、誰かのために身につけるものであると同時に、
自分自身が生きていく上であったほうが為になる考え方なのかもしれない。

引き続き、考えたい。


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