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自殺がある世界で良かった

前回でも書いたように、今私はなんだか抑うつ状態。ただ最近、この鬱っぽさの退会手続きが進んでいるのでここで共有しておきたい。まだちゃんと人に伝えられるレベルの言葉にできるかわからないが、このnoteの趣旨として自分の思ったことをなるべく文字に起こすという行為はなるべく怠りたくない。頑張って書いてみまっする。

結局鬱はなんだったのか
少しこれは客観的な視点から見ていきたい。哲学者のジルドゥルーズが指摘したように、人間は習慣によって行動や物事について次第に意識しなくなる。これはこの前哲学の授業で習った考え方だ(エッヘン)。確かに。で、私はこの考え方を自分なりに解釈して、それは目の前に現れる「問い」を汲み取れなくなっていくということではないかと考えている。ただ、鬱によってこの目の前になかった(本来はある)「問い」がよりリアリティを増し、どんどん浮き彫りになっていくその様が見えた。そして急激に降り注いだ大量の「問い」が私を苦しめたと言うことなのではないかと今のところ感じている。その量は高校の時の冬休みの数学の宿題に匹敵する。短いくせに多い。その苦しみだったのだ。でも結果的に鬱は私をより高みに上げてくれた。沢山思考を重ね様々な"もの"を一生研磨に見るようになった。

積乱雲から見えた一つの着地点
そして、ここらからはだいぶ内的な要素強めでいくので、少々読みづらくなるかもしれないがご了承ください。
つい先日私がYouTubeを観ていたら、たまたま出会った動画がある。それはペシミズム(悲観主義)の解説動画。悲観主義とは……やっぱりこればっかりは私が言葉にするよりも動画の方がわかりやすくその内容を解説しているので是非見ていただきたい。↓

説明怠慢で申し訳ない。つまり、「この世に意味はない、目的やら夢やらあるがそれが一体何だというのだ?」ということであると思う。この動画で紹介されている悲観的な考え方がどうにもこうにも私に突き刺さっていく。ものすごくしっくり来たのだ。で、ここで頭をよぎったのがジョン・レノンが残した有名な言葉、
"人生とは、人生以外のことを考えている時にあるのだ"
である。人間とははっきり言って飯食ってセックスして寝ればそれで充分なはずなのだ。これはある種生物学的視点からでも生きるために必要であり、また神の計らいかなんだか知らないがこれらを行うと無条件の幸、つまり「欲」が満たされるという。人間の三大欲求ともよく聞く。生きるために必要&欲も埋め込まれてる、と、なんともWin-Winすぎるものであり、人間の人生、正味これだけでいい。いいはずだが…本当にそうなのか。私の人生振り返ってみても、確かにこれらは自分の礎ではあると言えるが、結構それ以外のことばかり考えていたり行動していたりする。例えば、音楽。私にとって音楽は欠かせないものであり、音楽がない世界が信じられない。だが、それと同時にどう考えても無意味な存在なのである。もっと細かいもので言うとコーヒーや髭剃り。これらは私が日常的に考えている、また行っているものであり、費やした時間を計れば恐らくとんでもない量になるだろう。そして時には先ほどの三大欲求をも潰す行為に出ることもある。私はないのだが、例えばダイエットという考え方。自らの食欲を殺し、その対価として新たな利益とビジョンを求めようという姿勢である。こんなこと、絶対そんなことないはずだがまぁまぁ一般的な考え方である。あるいは睡眠。睡眠も被害に遭われやすい。徹夜とか夜更かしとか、私もめっちゃする、てかこれも夜更かししながら書いているのだが。絶対寝た方がいいのだが、寝ないことから生まれる対価がどうしても魅力的に感じてしまう。そして性欲も…これはまだ蓋を閉じていた方が見栄えが良さそうだ。てな感じで、そもそも我々がやることなすこと考えること、結構な割合でバカバカしくなんの意味もない無意味なことなのである、と、いう意味で私はこのジョン・レノンの言葉を解釈している。ちょっとジョン・レノンの話が熱くなりそうなので、ここで一旦悲観主義の話に戻りましょう。兎にも角にもその思想と考え方が色んなアプローチから随分と私に刺さりに刺さりまくったんです。で、気になって調べたところ、どうやら悲観主義者はしばしば鬱状態になりやすいと書かれていて……おいおいおいそれわしやないかい(陣内)となりましたね本当に。鬱状態だったからこそ自分に刺さったんでしょうね。そして色々調べたら、なんだか心ケアだのセラピーだの、あと実際に視聴者の方からDMで病院に行った方がいいとか勧められたたんですが、それはそれでなんだかずっと悔しくて。せっかくの鬱だ。新しい発見もあった。色んな感じ方をした。なんか一つ答えを出したい‼️となって私が見つけた答えは『全否定主義』です。まぁ完全に悲観主義のサブジャンル的な存在ですね。

『全否定主義』 
「主義」とか言ってなんだかカッコつけちゃって。ちょい恥。
キーワードは否定と自虐と皮肉と矛盾とあともちろん悲観。
「人の暗さが世の中を平和にする」
「マイナスの対話というのはもっとも俯瞰的である」
「暗闇だと少量の光でさえも温もりを感じ、居場所となる」
もしかしたらこの時点で共感してくれる人もいるかもしれない。いてくれると嬉しいな。つまり、全てにおいて否定的考えを持つことが心としても、そして人との関係を築く上でも大事なんじゃないかなと直感的に思ったのだ。否定の対象は自分にとっての意見と相手にとっての意見どちらにもである。わざわざ悲観主義と分けて考えているのは、こちらの方がメタ的視点を強めにあると考えているからだ。言ってしまえば悲観的視点すらも否定しようではないかということである。対となる存在をも否定する。全てが否定的な思考で見れるようになった時にとても平和を感じる。よく映画やアニメで2人が喧嘩している時、仲介に誰かが入って「どっちも悪いから!」と言う人のセリフ。あそこにすごく愛と平和を感じる。どっちも悪でありどっちも間違っているという状態。どっちらも良い存在になってはいけないのだ。いい存在になるというのは自己を確立しようとすること。つまり「否定」ではなく「肯定」に重きを置くということだ。ただ、そうして肯定を繰り返してしまうと自分の正義が生まれ、アイデンティティが確立し、そしてプライドが生まれてしまう。正義がありプライドも生まれてしまうと、私はそれはなんだか自分のことも、そして周りのことにも盲目になってしまう危険性があると感じている。プライドや正義はなんとも人にとって鋭利なものだ。そしてあとは戦闘態勢に入りひたすら自分と対立をなすものを攻撃するのみ。また、自ら攻撃しないタイプの人でも周りに「地雷」を埋め込むことになる。そして、踏まれたら、キレる。なんか自分のアイデンティティが確立されている方がいいとか正義は絶対みたいな風潮あるけど、まぁあくまでもこれは私の視点にすぎないのだが、こう考えてみるとそれってよくないよね、ってなる。じゃあわかった否定だ。悲観だ。互いに自分の立場が「悪」であり悲観的なものであると了解するということは、物事を俯瞰して理解していることができている何よりの証拠であり、これができればよりよい世の中が生まれるはず。そのように私は感じてしまってしょうがない。で、ここで大切なのは「自虐」である。否定と一言で言ってしまうと、それもまた先ほどの肯定とやることは一緒で、ただ人を斬り刻むだけのことをやればいいと思う人もいるかもしれない。考え方としてはそこの肯定の席に自虐の席を代わりに用意するということ。相手の否定と自虐を同時進行的に考える。ネットとか見てると、否定はできるけど自虐ができない人の割合がかなり高いと感じている。そりゃそうじゃんと言われればまぁそうだ。俺もお前もヤバいし悪いとか思うのはかなり矛盾していて理にかなっていないと思うかもしれないけど、矛盾こそが宇宙であり全てを超越した世界観だと私は勝手に思っている。それは肯定もしくは否定のどちらにも寄り添いたいから、という意味ではない。矛盾は矛盾でまた別世界に説明を求めることである。そして出来上がったその矛盾世界にこそ私の「本心」が生まれる。悲観的であることを自覚すれば今の自分は間違っているため、正しい世界、つまり「悪い」ではなく「良い」が目指すべき世界となり、そしてこの目指すべき世界を目指すべき世界の「まま」にしておくことが大切ではないかと思っているのかもしれない。否定されたとしてもそれは自虐の器で受け止めることができるという考えであり、またそれと同時にこの対話においては否定した側にも自虐の器を持ち合わせていることが必要不可欠なのである。で、ここで似たようなニュアンスとして「謙虚」という言葉があると気づく。謙虚…うーん、確かに謙虚な心を持てということなのかなとも思うが…それはなんだか私が今感じている感覚とはちょっと違う。もっと自分と相手に対して攻撃的な否定であるべきなのだ。謙虚な人とは何かしらや誰かしらを目標に置いてそこに直向きに走る人のことである。ただ謙虚な人は自らを謙虚であるとは言わず、大抵自分の目上の人あるいは目指している人そのものから指摘された時にやっとその人は「謙虚な人」だと定義される。ただこれ謙虚な人もそして謙虚と定義付ける人も両者共に結局は正義のために戦っている人であり、盲目であるとしか思えないのだ。そしてなんとなく謙虚な人というのは相手を奉った上で自分を下に下げると言う行為であるとも感じとれてしまい、そこもまた少々ニュアンスが違う。こちらの考えとしては自分を下に下げると同時に相手も下に下げる。そうすることで最終的にはなんの毒も色味もない無意味な世界を作り出すことができる、真の対話と平和を作り出すことができるのではないか。忘れてはならないのは無意味の定義は先ほどジョン・レノンの言葉について言及した時のようなことである。これはお互いが気を使うのではなく「本心」を曝け出してできる行為であるが故に最も人間らしい行為なのかもしれない。無意味こそが生命活動。
ある意味シリアスになりすぎないと言うことでもあると思う。大きく受け止めず全てにおいてなぁなぁになること、怠慢であることが重要だと感じる。悲観的に見ると言うのはある意味楽観的なのかもしれない。ある意味全てにおいて否定的なるというのは、全てにおいて興味を示さないということでもあると思う。これもし全て肯定的な考え方をするとなると、それは全て受け入れる姿勢にあるということであり、全て理解しなければならないということである。私もどちらかというと元々このような考え方を持っていたが、とてもじゃないがこの考え方は頭がパンクするほど非合理的な思考である。頭のキャパシティが追いつかないのだ。

と今こんな具合です。うまく言葉に乗せて皆さんに届けられたか不安でふ。正直まだこの私のたどり着いた答えは隙間だらけだと思うし、議論の余地大有りだなぁと書いてて感じた。これはなんだか「分人」のテーマともどこかしら接点がありそうだなとも薄々思った。ただこのヒントに辿り着けただけでも鬱状態に感謝…と言うと語弊が生まれるかもしれないが、新しい視点が生まれてとても面白かった。鬱もやりようによっては楽しめるのかよ。これは是非様々な意見を聞かせてほしいと思っている。自分の考えを広げるためにも大きなヒントになると思う。あれでも待てよ、もし仮にこの考えに否定的な意見が出たとしたら…それも別に否定主義の枠組みに入れれることができるのでは?おいおい強そうだぞなんか。ただその人に自虐性とメタ的視点があるかというので区切るとなると、もしかしたら違うのかも。その人なりの正義があるならちょっとそれはチピチャパ(夜更かしによる発作)。結構考え方として包括できる範囲が広いものなのかもしれない。まぁとにかくこういう解釈もできました、とかでも大歓迎なので是非是非色々思った事あればDMでもなんでも教えてくださいませ。そしてこれを読んでいる人にも何かいい質問を投げかけられていたら私としては幸いです。もしかしたらそもそもの事の発端であった「死ぬのが怖くなくなった」という思考に及んだヒントはここにあったのかもしれない。んーわからないがとにかく今は晴々とした気分を取り戻した感覚にある。悲観的に晴々としているのだ。マイナス太陽です。いい具合に。あと最近拒食症で食べ物を食べると吐き気がしてしまうのでそこも治します。それもあってかタバコも今能動的に禁煙中。でも健康診断終わったら吸っちゃうかもね。


最後に、私が救われた言葉とも言える先ほど紹介した動画にも登場していた哲学者のエミール・シオランの言葉を共有しておきたいです。

"自殺という可能性がなかったら、私はとうに自らの命を経っていただろう。"

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