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家族とも親友ともパートナーともわかりあえない、という希望。

現代ではネットでは気の合う人とだけ接することがきるし、特に今はコロナ禍で自分と異なる存在と出会うことも減ったから、余計に「他者」が不在になる。


と、前のnoteで書いた。「南極観測隊として南極に2年間住んでいて、今は小学校の用務員をやっているおじさん」みたいな「他者」とは、なかなか出会えないよなーって話。

そしてそういう、価値観も生きてきた背景も支持政党も応援してる球団も唐揚げにレモンを絞るか否かもちがう「他者」と出会う機会がないことは、自分が「裸の王様」になるリスクが高いっていうこと。失言を繰り返すどこかの前総理大臣じゃないけど、なにか間違ったことを言っても、それが間違いだと気づけないのだ。



…って書いておいて、ふと思った。

人ってそもそも他者じゃないの? 


親子だって、パートナー同士だって、親友だって、長年付き合っているのに「あ、わかりあないんだな」と思った経験、ないだろうか?

たとえば自分とDNAがまったく同じクローンがいたとして、彼と僕とでも、きっとわかり合えない。彼は巨人ファンで僕はヤクルトファンかもしれない。唐揚げにレモンを絞るのかで喧嘩になることもあるかもしれない。



哲学者の鷲田清一さんは、そうした「わかりあえなさ」から出発した<対話>が、「ともにいられる」ことへの可能性をひらく、と言ってる。ちょっと長いけど、大事なことであるにおいがぷんぷんするので、引用してみる。


人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外の生きもののあいだには、どれほど声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。

<対話>は、そのように共通の足場を持たない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。

対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより繊細に分かるようになること、それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。

「何かを学びましたな。それは最初はいつも、何かを失ったような気がするものなのです」(バーナード・ショー)。何かを失ったような気になるのは、対話の功績である。他者をまなざすコンテクストが対話のなかで広がったからだ。対話は、他者へのわたしのまなざし、ひいてはわたしのわたし自身へのまなざしを開いてくれる。

『対話の可能性』(鷲田清一)


「他者の不在」っていう状態があったとして、それは「他者と出会えていない」っていうこと以上に、「身近な人を、わかりあえていると思い込んでしまっている」ことからきてるのかもしれない。僕らはすでに「他者」と出会っているのだ。



きっと、というかかならず、いつも一緒にすごしてる家族にだってわかりあえない部分はある。そのことに気づかなかったり、みて見ぬふりをしてすごしたほうが、楽かもしれない。

でも僕は、こんな身近にも、「わかりあえない他者」がいる、ということを嬉しく思う。彼や彼女との対話を通して、このわかりあえない存在でみたされた世界と、「ともにいられる」きっかけをつかめるような気がするので。




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