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「他者のまなざし」は地獄にもなり、救いにもなる。映画『朝が来る』を観てかんがえたこと。

ここのところ「帰る場所とはなにか」ってことを考えていたのだけど、僕にとってその問いは、言いかえれば「他者とともに生きるとはどういうことか」っていうものになる、と気づいた。


「問い」はいい出会いをひきよせる。この前の日曜日に何気なくみた河瀬直美監督の映画『朝が来る』が、「他者とともに生きるとは」ということを考えるうえで、すこぶる刺さる作品だったのだ。


ちなみに『朝が来る』は、こんな映画です。


一度は子どもを持つことを諦めた栗原清和と佐都子の夫婦は「特別養子縁組」という制度を知り、男の子を迎え入れる。それから6年、夫婦は朝斗と名付けた息子の成長を見守る幸せな日々を送っていた。

ところが突然、朝斗の産みの母親“片倉ひかり”を名乗る女性から、「子どもを返してほしいんです。それが駄目ならお金をください」という電話がかかってくる。当時14歳だったひかりとは一度だけ会ったが、生まれた子どもへの手紙を佐都子に託す、心優しい少女だった。

渦巻く疑問の中、訪ねて来た若い女には、あの日のひかりの面影は微塵もなかった。いったい、彼女は何者なのか、何が目的なのか──?
(引用:映画『朝が来る』公式サイト


ネタバレになってしまうので内容はあまり触れないけれど、作品を見て思い出したのが、「まなざしの地獄」の話。

社会学者の見田宗介さんは『まなざしの地獄 - 尽きなく生きることの社会学』のなかで、現代社会における「まなざし」の暴力性を指摘してる。以前noteでも紹介したので、ちょっと引用してみる。


一人の人間は、「こういう人間である/ありたい」という思いを持って生きている。でも、人を労働力としてしかみない社会では、そうした思いや自由はじゃまなものでしかなく、その人が「どこ出身なのか」「なに大学を出ているのか」「どんな服を着ているのか」「どこにつとめているのか」によってその人を判断する(これが「まなざし」)。

だから、一人の人間はそんなまなざしのもとで生きていけるように、まなざしに合わせて自分を変形していく。自分の「こういう人間である/ありたい」という思いをないがしろにしながら…。

「まなざしの地獄」と「わたしの語り」|山中康司/生き方編集者|note


現代社会に生きていると、いやおうなく「所属や肩書きや学歴やSNSでの影響力などで人の価値を判断するまなざし」にさらされて、ちょっとずつ尊厳のようなものがすり減っていく。


そんな「まなざしの地獄」とも呼べるような社会のなかで、自分を他者から閉ざしてしまったり、あるいは見田宗介さんが『まなざしの地獄』のなかであつかった、無差別殺人を犯した19歳の青年N・N(永山則夫元死刑囚)のように、他者の存在を否定してしまったりする。


でも一方で、『朝が来る』で描かれていたのは、他者の「まなざし」は、自分という存在をありのまま受け入れるきっかけにもなる、ということだ。

たとえば所属や肩書きや学歴やSNSでの影響力などを知らないこどものまなざしは、自分という存在のありのままをうつすからこそ、自分を受け入れるきっかけになるのだと思う。



「まなざしの地獄」とでもいえる社会で、それでも足をふんばって生きていけるのは、所属や肩書きや学歴やSNSでの影響力なんて関係なく、わたしという存在をそのままわたしとして受けとめてくれるようなまなざしがあるからなんじゃないか。


そんな存在は、僕やあなたにいるだろうか。そして僕やあなたは誰かにとってそんな存在になれているだろうか。



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