社会の窓はとじよう。他者への窓は、どうしよう。
タモリさんは笑福亭鶴瓶さんのことを、「自閉症ならぬ、自開症」といったとか。
「自開症」っていうのは、ようするに他者に対して自分をめちゃくちゃに開いてる、ということ。「自開症」。さすがタモさん、めちゃくちゃ言い得て妙である。『鶴瓶の家族に乾杯』を観たことがある人なら、鶴瓶さんがいかに開いているかがイメージできるんじゃないかな。
鶴瓶さんははじめて会う人と、たちまちに打ち解ける。それは鶴瓶さんが「開いている」からにちがいないのだ。
(開きすぎて、テレビでちんちん出す癖があるのも周知のとおり)
ほら、普段接していても、「あ、この人いじって大丈夫だな」って人と、「いじっちゃだめだな」って人、いるじゃないですか。鶴瓶さんは「いじって大丈夫だな」界のトップオブトップでしょう。そして「いじって大丈夫か」は、「開いているか」とほとんど同じ基準な気がする。
「自分を閉じている」ということもきちんと考えるべきことなのだけど、さしあたり僕が考えてるのは「開いている」ことと、「混ざっている」ということはちがう、ということで。
自分と他者が「混ざっている」ような状態って、あるじゃないですか。別の言葉で言えば、「依存」とか。あるいは、他人の気持ちを考えすぎるあまり自分の意見を言えない、とか。そういう状態は、「開いている」のとはちょっと、というかけっこうちがいそうだ。
「自開」できるのは、自分の輪郭がたしかだから、なのだと思う。輪郭がたしかだから、他者に対して開いても、自分がうしなわれることがない。他人を侵食することもない。
じっさいに鶴瓶さんも、ドキュメンタリーなんかをみるとかなりエゴイストっぽいところがある。自分が譲れないところは譲らない。自分と他者の、たしかな境界線を引くことができるからこそ、「開いている」ことができるんだろうな。
他者に対して開く。だけど、まざらない--。そんなあり方を、意識せずともできてしまう人もいる。あー、うらやましい。僕、できないものまじで。つい踏み込みすぎたり、閉じすぎたりしてしまう。
どうやったら、鶴瓶さんみたいにすこやかに自開できるんだろうか。人前でちんちん出せばいいのか。いや、いかん。ちがうぞぜったい。社会の窓は閉じておこう。他者への窓は開けて、風通しをよくしておこう。
そんなことを近頃は考えてます。
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