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ジェジュンの尾崎豊カバーについて思うこと(2019年12月、追記2020年1月)


*ブログの過去記事の中から反響の大きかった記事をnoteにアップしてます。


 NHK「SONGS」の尾崎豊特集を見ました。


感想としては、
若いアーティストが自分の解釈で、
自分なりのアプローチで
「尾崎」を歌ったのだな、と。

でも、というか、
やはり、ピンと来ませんでした。

「尾崎のカバー」は昔から
よく試みられてきました。
名曲揃いなのでカバーしたくなるのかもしれませんが、
が、誰のカバーを聴いても結論は一つなんです。

「尾崎の歌は尾崎でなければ」


ですが、そんな固定観念を
覆してくれたのがジェジュンでした。
去年のFNS歌謡祭で偶然耳にした
「Forget-me-not」は衝撃でした。

↓ 去年12月のツイート



なぜ、ジェジュンのカバーは他の歌手と違うんだろう?

自分なりに考えて、思ったことがあります。

尾崎は、歌詞がいい、メロディーがいい。
尾崎自身、声がすごくいい。歌声、あの叫びがいい。

昔、尾崎が活躍し始めた頃に、
NHKが彼の特集を放送したことが
あって、ライブ映像を見たら、
顔もいいし、スタイルも良くて
「完璧じゃないか……」と打ちのめされたことがありました。


尾崎は天才だと思ってます。

端的に言えば
「10代の痛みや苦しみを10代で表現してしまった」。

自分の思いを表現するには、
「その思いは何なのか」を
客観的に見る必要があって、

10代で誰もが味わうモヤモヤとしたものの正体は、
孤独、欲望、絶望、自己愛、自己顕示欲といった
カタい言葉だけで
表現し切れるものでもなくて、

目立ちたい、愛されたい、
好きな人がいれば独占したい。
やりたいことが分からない、
自分が何者なのか分からない。
自分は何がしたいのか、
自分は将来何になりたいのか。

そもそも「何かになりたい」と思ってるのか、、、

いろんなものが混ざり合ってる上に
「自分を大きく見せたい」
「自分は特別なのだと思いたい」
そんな欲望や願望、強がりも
邪魔をして、
1コ1コ抜き出してみることは難しい。

「思春期の孤独、欲望、衝動、絶望」は、その渦中にいる時、
客観的に見つめるのは
ほぼ不可能な気がします。

時間が経ち、ようやく自分のズルさや弱さや、
「こうありたい」という願望までも冷静に見つめて、

むき出しの自分と向かい合うことが
出来た時に、
やっと「表現」し得るものなのだと思うのです。

ですが、中には、
もがき苦しみ、あがきながら
「10代の痛みや苦しみ」に対して、
10代のうちに真正面から向き合い、
作品として表現してしまう人がいる。

それができた同世代の「天才」が、
尾崎豊なのだと僕は思います。


年齢でいえば、尾崎は2歳上。
僕は「年上でよかった」と
心の底から思ってました。

同い年が「清原・桑田」ですが、
彼らがどんなに活躍して、
巨額の年俸を手にして、
六本木や麻布で遊びまわったり、
不動産を買った、高級車を買った、と
聞いても何とも思わなかったです。

が、尾崎豊だけは、
羨ましい、そして妬ましい、
そう思っていました。

あの才能の足元にも及ばない自分は
なんてみじめなんだ、とも。


尾崎が亡くなった時はショックでした。

自分も社会に出ていたので、
10代の頃のような
「羨ましい、妬ましい」だけではなく
(羨望の気持ちはまだ持っていたし、それは今もあります)

「30代、40代で尾崎は
どんな歌を歌うんだろう?」
そんな風に思ってましたから。



時は流れて、
2018年のFNS歌謡祭で、
ジェジュンの「Forget-me-not」を
聴いた時、

尾崎を聴いて
「この人には到底及ばないんだ」と
思い知った10代の感情が生々しく蘇ってきました。


画面を見ながら「尾崎がいる」と。


尾崎の歌は、高い声が出る、
大きな声が出る、
じゃあカバーしよう、なんていう
安易な姿勢で歌って
何とかなるものじゃないんです。

尾崎の歌は魂から発せられた言葉。
だから、尾崎の書いた歌詞を
ただなぞり、
メロディーに沿って声を張り上げても
何も響かない。

ジェジュンは違うんです。
彼は魂から言葉を絞り出して歌う。
だから心を強く揺さぶられる。
10代、20代前半に受けた衝撃が
鮮明に蘇ってきました。


ジェジュンには
なぜそれが可能なのだろう?
母国語ではないことは大きなハンデのはずなのに…。


きっと尾崎が歌の中に込めた「思い」、
もっと言えば「痛み」「苦しみ」「あがき」を、
ジェジュンは理解し、共鳴して、
彼もまた魂から振り絞って歌っているのだと思います。


だから「素晴らしい」と思いながらも、
やはり、どこかで心配にもなります。

尾崎と同時代に生きた者として、
彼が荒れて、壊れていく過程も見ていたわけですから。

ジェジュンのカバー集も聴きました。
「奏」はスキマスイッチのオリジナルが大好きですし、
ジェジュンのカバーも「上手いな」と。
「最後の雨」のカバーも動画で見て「やっぱり上手いな」でした。

感想は「上手いな」です。
やはり「Forget-me-not」の
カバーだけが、
僕には他とまったく違って聴こえます。


以前は「ジェジュンに尾崎のカバー集を出してほしい」と思ってましたが、
今はそこまでどっぷりと
尾崎に浸かってしまうのは危険な気もしてます。


ジェジュンという素晴らしい才能が、
もっともっと世界中に知られることを祈っています。



<追記  2020年2月24日>

当ブログにたくさんのアクセス、ありがとうございました。
これがバズるということなんですね。驚きました。

NHK「the Covers」が放送されて、
またまたこの記事へのアクセス数が急増してます。

「the Covers」で語られた、
ジェジュンの「尾崎」との向き合い方、
「尾崎ファン」への配慮で、

このブログで書いた
「なぜジェジュンがここまで尾崎を、
Forget-me-not を表現できるのか」の謎は
ほぼ解けた感じがしました。

ジェジュンが尾崎や彼の作品を
リスペクトし、その上で
「どう向き合うか」を考え抜いた。

その結果、あえて
「キーを上げて、無理をする」ことを
選んだ。
己の肉体を削ることで
「尾崎のForget-me-not」に迫った。

上手く歌おう、ではなく、
「当時の尾崎」にどこまで迫れるか。
そんなアプローチをした人が
これまでいただろうか?


ジェジュンの「Forget-me-not」は、
「尾崎」を聴き込んできた人にこそ聴いてほしいです。

あの不朽の名曲が、
その魂をも継承された瞬間を
見てほしいと思います。



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