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ギンポと放哉

訳知り顔をするわけではないけれど、悲しい生き物だな人間って。 哀れみ、憐憫、そこらあたりの感情そのものが人の思い上がりにも思えてくる。 絶対優位のポジションからその他を見た感想です。みたいなね。

三浦漁港での釣りが週末の恒例だった頃、リールは忘れてもビールを忘れることはなかった。なぜかと言うと、僕にとっての釣りは家庭や仕事から逃げ出す方便に過ぎなかったからだ。当然、釣果もそれなりのものでしかなかった。そんないい加減な釣りではあっても。たまには間違えて針に食いついてくれる奇特な魚もいないことはない。

酔いにまかせてほったらかしておいた竿にギンポがかかったことがある。知る人ぞ知る(お前が物事を知らないだけだろうとの言有り)江戸前天麩羅の高級魚だ。 野締めがいいと聞いていたので、ナイフを手にした。少々太めではあるが柔らかなそうにうねる魚体は、わずか20センチ程度とは思えぬほどの力で押さえ込む手から逃れようとする。一見柔らかそうに見えた筋肉は、思いがけないポテンシャルの塊。

ナイフは何度も弾かれた。その抵抗は、理不尽な力と小さくはあっても命を奪われまいとする意志の戦いという感さえ抱かせた。 その時、初めて命奪っているという意識が浮かんだ。抵抗を続けるギンポに怯えや恐怖さえ感じた。

今思い出したが、それ以前にも活イカをさばいたことがあったな、でもそのときは別になんとも思わなかった。スズキを締めたときなどは尾っぽを鷲掴みにしてコンクリートの柱に思うざま叩きつけるという荒業に出た。命だの、罪深き身などの考えは一切浮かばなかった。

別に話をそらそうとしているわけではないのだが、つまりそういうことだとオレは思っている。 そのとき、その場のみにてそれぞれの思いがあるだけなのだ。

人はときに愚かになり、考え深くもなる。 心の袋小路に入り込んでしまったような時には、いつも尾崎放哉という人のことが頭に浮かぶ。

自由律俳句について答えろといわれても無理だし、そもそも俳句はもちろん、詩にも和歌にも興味はない。いやいやカッコよさそうなこと言おうとするなオレ。興味以前にまともな素養にかけていると言ったほうがいいと思うぞ。それから付け加えるんだ。和歌と短歌、狂歌や川柳などの違いもわかりませんって。

だけどだ。だ〜け〜ど、活字でもwebでも、放送でも尾崎放哉の名を見聞きした瞬間に言いようのない気持ちになる。気どっていう訳じゃ無いけど、彼の句はいっそX(ツイッター)にこそフィットするように感じる。“咳をしても一人”、“とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた”こんな感じでどちらかといえば暗いイメージ、寂寥感という評価も有るようだが、オレはそうとばかりも思わない。

女よ女よ年とるな

言ふ事があまり多くてだまつて居る

すぐ死ぬくせにうるさい蠅だ

働きに行く人ばかりの電車

放哉さんの作には、こんな感じのもやつもある。これだったら俳句もなんだか面白そう。
生意気を言わせてもらえば、いっそ心地よい。
自分の今を自由に表現する手段としてのフェイク放哉か。
できたら、心が軽くなるのかな。
その程度の軽さいい加減さで、瞬間瞬間の真実を湧き出る一瞬の言葉に
勝手な妄想だけど、そういうのいいな。


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