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書くことに纏わる諸々を見直すべき時期が来たらしい。

正確な言い回しは忘れたけれど、人から書いたものを公開することについて「どうだって思っているのかと思いました」と言われた。
どうだと言うのは、おそらくこれ見よがしに公開しているように思っていたということだろう。

その言葉はここ最近では一番の衝撃だった。
私にとって文章を書く時のスタンスは、自分に対して冷徹に、切実で率直に、なるべく虚飾というものを排除して、というものだ。自分の内面のとても柔らかく脆い部分に到達して晒し、それを人に読んでもらう。
なぜそうするのかと言えば、日々、私の内にいる獣が人を蝕んでいくのを少しでも食い止めるため、というのが理由だと思う。
内なる私というのは、冷徹に人や物事・出来事を観察して、人を侵蝕するのを厭わない、そんな人間だ。

人を侵蝕することを厭わないとは、人を自分の考えに感染させることだ。それは両親共々が持っている資質で、彼らは自然とそれらを行使している。私は身近でまざまざと見てきて、自分の中の最も忌むべき受け継いだ資質だと思っている(人に対する影響力があると自分自身を捉えている傲慢さがあるというのは前提として頂きたい)。

けれど、その資質が最大に生かされるのは、文章を書く、表現をするということにおいてでもある。
言葉や表現は自分の考えを人に感染させることであり、自分の考えを世界に拡張していることに他ならず、結局のところ、私自身が忌むべき資質と思っているところに、最も自分がしたいことがあるという、なんとも皮肉な話なのだ。

文章を書くということは、とても暴力的だ。
何かしら起きた事に対して自分なりの見解を述べる。それは同じ事象を見た人とは大きく意見が異なるかもしれない。特に身近な人との出来事を書く場合、発した言葉と内心で思っていることがずいぶんと違ったり、相手に対して何を感じていたかをつまびらかにすることは、相手を傷つける可能性が大きい。

そう思っているからこそ、その暴力性を発揮するのは主に自分自身に限定せざるを得ず、なるべく自分に対する虚飾を排して文章を書くという事になる。

そうやって文章や表現に対しては真摯に考えているけれど、だからと言って態度でそれを示しているわけではない。私自身の能力として高い位置にあるものが文章を書くということなので、それを卑下するつもりは全くなく(おそらくここが私の変わっているところなのだ)、冒頭の「どうだ〜」につながったのだろう。

ただし、これには理由もある。
それは、人生において、私が私自身に正直である以上に大事なことはない、と考えているのだ。
人の自分に対する見方・捉え方をコントロールしようとは思わない。どれだけ上手くコミュニケーションをとっていようとも、人と人との考え方が違うのは当たり前なので、人が私という人間をどう捉え、どう考えるかは、どうだって良い。だったら、自分が自分に対して正直であることしか出来ないのだ(好きな人たちに対して優しく誠実に接するというのが基本的な生き方ではある。まあ、私を知る人、特に私を嫌いな人の中で異論はあるだろう)。

なので、文章がうまく書けたら自分でも嬉しいし、自分の書く文章が好きでなければ、今まで細々と書き続けていないという話なのだ。

とは言え、「どうだ〜」と思われていることは、自分の文章を書く上での一番遠いところにあるスタンスなわけで、文章を読んでもらうためのノイズにしかならないことを考えると、私は諸々、失敗していたのだと思う。

自分に対して正直であれば良いと、そう考えてきたけれどその態度や、自分自身の中での文章を書くということ、どう表現するのかということを、考え直すべき時が来たのだ。

「どうだ〜」と言ってくれた人は、読書家でとても素晴らしい友人だ。さすがに言われた当初はショックだったけれど、感謝しかない。ありがとうございました(ここを読んでくれていることを祈りつつ)。

追記 今後ですが週に一度、週間日記を少額の課金にて公開していこうかと思います。とりあえず、最初の一回目は無料で公開いたしますので、よろしかったらぜひ。日記以外に書きたいことは今まで通りの公開にしていきます(書きたいことはずいぶん溜まっているので)。

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