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嘘と正直とコミュニケーション。アンビバレントな自分について。

昨日今日と、完全に風邪を引いてしまい、猫と寝ている2日だった(今日の朝は仕事に行ってきた)。風邪薬が効いてかなり体調も回復してきたので、PCに向かうことにした。

先々週から日記を書いて有料で公開をしている。本来であれば誰かにとって情報的価値がある人間ではないので無料で十分だとは思うのだが、私が普段は書かない、人との関係性の話も出てくるのでプライバシーの観点から有料にしている(有料にすることの安心感はとてつもない)。

購入者はほとんどいないのだけれど、1週間に一回、日記を書くことによって、その時々に考えていることや考えるきっかけになったことの軌跡がきちんと残せて、自分にとってとても有効で驚いている。
昔、大学の入学式で学科長だった藤原成一先生が式辞として、人間の思考とは常に移ろい忘れるものだからとにかくメモを取りなさいと言っていたことの確かさを、20年経った今になって噛み締めている。この先生は筑摩書房の取締役を務めた人で、入試の面接の試験官をしてもらった。その試験で自分の読書の傾向を話したら、「あなたは自分を探していたんですね」と言われて、試験を受けたことよりもその指摘をされたことに大きな衝撃を受けたのだった。藤原先生は退任間近でゼミ生になることができなくて非常に残念だったのだが、今から考えれば先生に食らい付いていれば良かったと思う。おまけに調べたら著作や研究分野は今の私が興味のある分野ばかり。若いとはいかに視野が狭くて自ら絶好の機会を失っているのかを思い知らされる。

ふと書いておきたかった思い出話はここまでにしよう。

さて、唐突ではあるけれど、私は同世代や近い世代の女性からかなり嫌われている。

言うほど嫌われてないですよと言ってくれる人もいるのだけれど、自分の認知できる範囲と人というのは限られているし、その限られている範囲の中では、その萌芽も含めて体感の嫌われ率78%といったところだろう。私を好きという人の方が変わっている(これが自分よりも20歳ぐらい年上の人になると体感好かれ率82%ぐらいになるし、とにかく老人、子ども、犬猫となると好かれ率98%ぐらいだろう)。
以前は仲良くしていたような人たちのグループから明確に私だけがパージされているという状況も把握しているし(それについてはまったく何も思ってないし、彼らがそうするのは自然なことだと思う)、仕事先でも私が嫌われていることも確認している(もちろんこれについても何も思っていない)。
けれど、嫌われていることによって嫌がらせを受けたということは一切なく、グループからのパージはおそらくそう言ったことが起きているだろうなという私の推測で、仕事先で嫌われているというのはある子が私にいくつかの具体例と共に漏らしたものだ。

博覧強記で物を書く友人と話していた時のこと。
私は私自身のことについて、自分に対して正直でいることをモットーとしていると言ったら、彼女は彼女自身のことを「私は嘘つきですよ」と言った。
一見すると正直でいる私の方が良い人間のように思えるのだが、話はそう単純ではない。
話を聞けば彼女が嘘をつくのは人間関係やその場を円滑にさせる時なのだという。おそらく彼女はコミュニケーションというものや人間というものを信頼しているのだろう。
翻って、私が自分自身に対して正直でいる理由はコミュニケーションというものはそもそも不確かで、人間というものが多面的であり発する言葉と本音とが違うと考えているからなのだ。
同じ事象や同じ体験を共にしてそれを言葉にしたとしても、コミュニケーションは個々人の考え方や受け取り方によって大きく意味が変わってくる。

人はその人本人の尺度でしか、ものを見ること考えることはできない。だからこそ、いくらコミュニケーションを重ねようとも、齟齬が出てくるのは疑いようもなく、だとしたら私は自分に対してだけは正直でいるしかないと考えるのだ。
少なくとも自分が発する言葉は正直に、そして自分の発した言葉の責任はきちんと引き受ける。だから自分でも厄介だとは思うけれど、人から嫌われたり忌避されることは仕様がないし、当然のことと考えている。

ただし、ここで非常に面白いのは、職場で1人の人が私のことを「虚言があるから」と言っていたらしいということだ。
まさに、これはコミュニケーションの齟齬が起きていると思う。いくつかそれにまつわることだろうと思う出来事があるのだが、私からすればいくつかの事情が重なっていて、その経緯を説明する機会もないし別に自ら進んで釈明するつもりもないから、それはその人にとっての嘘、虚言ということになるのだろう。

もう一つ、私が厄介なところを挙げてみる。

それは私が人や物事について良く思った部分も悪く思った部分も話をするところだ。けれど人からすれば悪く思った部分が印象に残るので私がその人や物事を嫌っているという認識になる。けれど実際の私はまったく等しく捉えているのだ。
その良く思う部分と悪く思う部分の差があまりにも激しく極に振れているので、私の中では整合性は取れているのだけれど、他の人からすればあまりにもアンビバレントに思えて、きっと私という人間を理解し難く感じたり嫌気がさしたりするだろうなと思う。

けれども、少なくとも私は私に正直にしているし、そのアンビバレントさが受け入れられないのだとしたら、それはどうしようもないお互いのコミュニケーションの齟齬なのだから、諦めるだけのことだ。

何せ私は嫌味で批判的で、猫と、わずかばかりの信頼できる裏表のない友人さえいれば満足なのだから、仕様がない(ちなみに自分のことを嘘つきだと言った友人はもちろん信頼に足る正直で大切な友人だ)。

こんなことを書けば、また露悪的に自分のことを書いてと思われるのだろうが、人や物事に批判的な意見を持つことと、人や物事に対してナイスに振る舞うこともまた、両立すると思う。私もある種の人に対しては亡きが如く振る舞うが、ある種の人に対しては自分の労力を注ぎ込むことを惜しまない。

さてさて、この話が信じられるかはこれを読んでいるあなた次第、ですね(私の虚言の可能性も大いにありますから)。

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