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So, where is the Paradise?曖昧でいられない私の、集落での在り方は?

ここのところ、正確にはこの半年ほど、地域の会合に参加することが増えた。
そのたびに、私は衝撃を受ける。

そこで出される議題はもちろん地域の課題だ。けれど、その問題の事情が入り組んでいれば入るほど、話は混迷を極めて、同じ場所をぐるぐるとさまよい結論はなかなか出ない。

発言は基本的に年長者の男性、それも集落内の有力者、あるいははっきりとした意見を持った意思の強い人しかしない。別に発言してはいけないと言うようなルールではないのだけれど、なんとなく皆、発言を控える。

先日あった集落の常会(集落の戸主が集まる会合)では目的の主な議題に対して、その他という項目があって、有力な年長者の男性陣からいくつかの議題が出た。1人が1つの問題を提起すると「ああそんなこともあるかもなあ」という空気が流れそれに対して誰も回答しないままに、次の人がまた別の問題を提起しまたそれに誰も回答せず、そうしてまた別の人が問題を提起し、というのを繰り返していた。問題を提起しても議論に発展せず、実質的に発言権のない比較的若い男性(と言っても40代50代)や女性たちは、それは難しい問題だという顔をし続け、問題提起をした人は他の人の意見が出ないから、もう一度、同じことを発言する。

今までもこういう場には何度も遭遇してきたけれど、今回は私にとってあまりにもきつかった。
問題提起した人たちの意見は議論すべきことばかりなのにも関わらず、それについて真正面から議論することも、何ら前進もせず、その状態で常会を閉じる。あまりにも無為な時間で、私は2〜3日、そのショックを引きずって、ようやく今、言葉にしてみようと思った。

正直に言って、すべてがとても面倒くさかった。

きちんと向き合えば結論が出せそうな議題に対して、基本的に多くの人がだんまりを決めこんでなんとなく会合を終わせ、そうしてその会合の外で有力な人たちの中で解決策が話し合われ実行され、いつの間にかその問題は終わったことになる。

たぶん、集落にとってはそれが一番良い解決方法なのだろうと思う。なぜならば、その曖昧さというものが、小さな、基本的に移動(引っ越し)が効かぬ関係性の固定化された集落のなかで、穏便に暮らしていくための一番大切な余地だからだ。

曖昧でいることは、小さな集落にとってはとても大切なことなのだ。

それは分かっている。
重々、分かっている。

分かってはいるのだけれど、私という人間はかなり強固な自分の意見があるし、それを吐き出したいから文章を書いているわけで、なんというか、こういうのってちょっときついなと思ってしまった(曖昧でいることは山本七平の『「空気」の研究』を思い起こさせるものでもあるのだ)。

ただ、これは自分の胆力がないからだと考えている。
曖昧なことを曖昧なままでいさせることが出来ず、何らかの解決策、何らかの結論を出したがる。つまり堪え性がないのだ。
意見があってそれを黙っていることが出来ず、移住者で、独身で、女で、甲斐性もないという条件の揃った私が、この集落において今後どのように立ち振る舞うべきなのかが、よくわからなくなってきている。

たぶん、集落的な社会性から一歩引いて、ぼーっと暮らしを楽しむとか、そういう方向性が良いのだろう、なと思い始めている。

こういうことを書くのはリスキーだと思う。誰が読んでいるのか、どのような感情を私に抱いているのかが分からないのだから。ただ、このあたりのことについては正直でありたいし、共有して誰かの参考になればと思う。

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