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自伝的小説 『バンザイ』 第四章 天井裏から愛を込めて


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 赤信号を待つ。目の前には横断歩道を渡る、複数のサラリーマン。ヘッドライトの光が足元を照らす。

 敷かれたレールからは決してはみ出さず、無理も無茶もせず、現状維持、腹八分目、省エネルギー、毎日同じことを繰り返し、貯金をし、年金を払い、老後の準備をし、ゆっくりと、のほほんと、まったりと、焦らずに生きていく。
 僕には理解できないこと。

 信号が青に切り替わる。ラーメン屋の行列を横目に、時速六十キロ近いスピードで風を切る。大通りに面した駅の向かい、出来たばかりのライフハウスの前にも人集りが見えた。

 今しかない。全ては今の連続だ。今を生きないで、いつを生きるというんだ。いつ死ぬかなんてわからないのだから、セーブをしている場合じゃない。未来の為に今を犠牲にするなんて、あまりにも勿体なさすぎる。

 大通りを左折し迂回。住宅街を抜けると、大きな公園に辿り着いた。バイクを停め、紳士服店を過ぎ、しばらく歩くと、そこは小田急梅ヶ丘駅。
 構内を反対口まで歩き、コンビニを左へ進み、ケーキ屋を横切ると、緑色の蛍光看板が見えてくる。先の階段を登り、二階のバーの喧騒を抜け、さらに上へ。
 手書きの張り紙には「酒アリ〼」の文字。
 その横にある扉を開けた。
  


「月何本ライブしてんの?」

 と僕は尋ねた。

「二、三回ですかねー。サポートのバンド含めるともう少しあります」

 と彼は答えた。

「ノルマは払ってんの?」

「メインのバンドは払ってますけど、サポートは一銭も払ってませんね」 

「ベースは毎日弾いてんの?」

「そりゃ弾きますよ。一日でもサボると取り戻すの大変ですから」

「そんなにベースが好きなの?」

「うーん、好きというか、もうずっとやってますからね。高校生の頃からなんで、もう生活の一部みたいなもんです」

「ベースの何が楽しいの?」

「んー、やっぱりいい音作れた時とか、スラップやってる時とかですかね」

「ベースで食っていきたいの?」

「まぁ、そうですね。可能であれば」

「バンドで売れるってこと?」

「そりゃー、売れるもんなら売れたいですよ。僕個人でもベースのレッスンとか、スタジオミュージシャンとか考えてます」

「最終的な夢は?」

「そうですねえ……、やっぱり音楽で食いつつ、幸せな家庭を築くとかですかねえ」

「結婚願望とかあるんだ?」

「そりゃーまぁ、人並みには」

「子供も欲しいの?」

「うーん、まぁ、二人くらい?」

「名前は?」

「そんなん決めてるわけないじゃないですか!」

「今の彼女と結婚すんの?」

「そーれはわからないですねえ。向こうも音楽やってますし、お互いお金もないし、忙しいですし。とりあえずお互い音楽優先って感じで」

「そうなんだー」

「もう、絶対興味ないでしょ! ってか俺これからバンド練なんでもう行きますよ? レジ金とか大丈夫でしたよね?」

「問題ないでーす」

「はーい、じゃあお疲れ様です。また交代の時にでも!」 

 と言うと、マツはベースを背負い、急ぎ足で扉を開け出て行った。

 この店の仕事仲間。三つ年下で、唯一のベーシスト。ホシくんと同じく、少し天然でぼんやりしているが、気のいい男。
 適当な質問にすべて答えてくれ、突っ込みまで入れてくれる。後輩なのにこちらが甘えている感覚なのは、マツが長男で僕が末っ子だからかもしれない。もうしょうがないっすねえ、なんてノリで何でも許してくれる。
 ここにいる人たちは、お客さんも含めて皆いい人ばかりだ。ここだけはきっと磁場が違う。悪い奴が来られないように、バリアで守られているみたいだった。

 深夜十二時。この時間になると、店内の慌ただしさも落ち着きを見せ、時の流れが緩やかになる。受付内にひっかけてある、レンタル用の赤いストラトキャスターに手を伸ばす。
 あとは掃除を終わらせるだけ。その後は何をするも自由。練習したければすればいいし、眠りたければ眠ればいい。受付内でギターを弾いても、誰にも怒られることはない。

 こんな恵まれた環境、他にはない。一生続けてもいいと思えるくらい、今までの仕事とあまりにも違い過ぎる、奇跡の空間。

 しかしこんな状況、いつまで続くかわからない。
 今も一応、防犯カメラのデータをリアルタイムで監視できるらしい。何年かしたら、もっと厳しくなってしまうかもしれない。常に監視され続け、今までの自由が奪われてしまう可能性もある。来年にはパソコンが導入され、スタジオ予約管理の方法が変わるという噂も耳にした。

 やはりそうだ。これはボーナスタイムみたいなもの。今のうちにやってしまうしかない。この恵まれた環境を最大限に活かし、己を磨き、そのままバンドに昇華させるんだ。エノさんの助言もいつまでもらえるかわからない。ドラムの練習も、受付内で弾くギターも、誰もいない時にする昼寝も、コソッと読む文庫本も、いつまで続けられるかわからない。

 今しかない。



 バイクを路上に停め、ヘルメットを中に仕舞う。主婦やサラリーマン、部活帰りの学生で賑わうスタジオヒノーズ前。時刻は夕方六時。店のドアを開け、階段で三階へと上がる。

 ロビーには既にメンバーが揃っていた。しかし何やら、いつもと空気が違ってる。

「ういーっす。どうしたん?」

 僕は誰に言うわけでもなく問いかけた。

「あ、コジー、おはよう」

 ホシくんが浮かない顔で言う。

「コジマ。ちょっとカメから話があるから、聞いてやってくれ。俺らも今聞いたところだけど」

 クボタがいつになく神妙な面持ちでそう言うと、カメが少し震えた様子で口を開いた。
 
 いいニュースでないことは明らかだった。

「ごめん、俺……、突然なんだけど、バンド辞めなきゃいけないくなったわ」

 あまりにも唐突すぎる告白に、僕は驚いた。

 今にも泣き出しそうなカメのこんな姿、初めて見た。練習でもライブでもどこに居ても、クボタと戯れているのが常だった。

「まじで? なんでそんな急に……」

 動揺しながら僕がそう言うと、下を向いたまま彼は答えた。

「今手伝ってる家の仕事がやばい状況でさ、親二人だけじゃ手が回らないから、俺も明日から毎日フルで出なきゃいけなくなっちゃって、借金とかもあるらしくて……」

 カメの両親が不動産屋をやっていることは知っていた。ちょくちょく手伝っているという話も。

 僕は少し間を置き答えた。

「そっか……。それならまぁ、しょうがないよ。家庭のことには口出しできないし、そんな状況でバンドなんかやってらんないよな」

 僕がそう言うと、カメは涙混じりに答えた。

「ごめん。こんなことになって悔しいけど、俺がやらなかったら店潰れちゃうからさ。本当に申し訳ない。高校から今までやってきて、唯一続けてきたものこれで、ずっとやりたかったけど、俺はもうできない。折角いい感じになってきたところなのに……、ごめん。本当にごめん……」 

 下を向き涙を拭っているカメにクボタが近付き、肩を強く叩いた。

「おーい、カメ! もう泣くな! そんな理由だったら誰も文句ない! 俺らはお前がいなくてもやっていけるから心配すんな! それより親孝行してやれ! みんな同じ気持ちだから」

 クボタが僕とホシくんの顔を見る。僕らは黙って頷いた。僕は少し目頭が熱くなった。

 唐突に突きつけられる現実。
 当たり前にずっと続くと思っていた日常は、幻想みたいなものだ。奇跡的なバランスで世の中は成り立っている。バンドなんて少しの揺れで崩れてしまうほど、不安定なものなんだ。

 僕らは少しずつ前には進んでいた。しかしそのスピードはあまりにも遅かった。焦りも憤りもたくさんあった。それはまだこの先に道があると、信じて疑わなかったからだ。
 いつ終わってしまうかなんて、誰にもわからない。もしかしたら、このまま終わるかもしれない。カメがいなくなったら、クボタはどうなるのだろうか。代わりの人間なんて見つかるだろうか。

 いや、これを機に、僕らはもっとすごいバンドにならなきゃいけないんだ。新しい人を見つけて、カメが離れたこと悔やんでしまうほどに。
 きっとそれが彼にとって、一番の花向けだ。

 皆が静まり返り、流れが落ち着いたところで、ホシくんが言った。

「今日はさ、もう練習なしにして飲みにでも行こっか? スタジオ代はなんとか誤魔化しとくからさ、ね?」

 どんよりした雰囲気が少し明るくなった。僕は答えた。

「そうしよっか。今日はもういいべ。練習なんていつでもできるし、カメの送別会ってことで。俺はバイクだから飲めないけど」

「よし、じゃあカメの奢りな! 行くか!」

 クボタのその言葉にみんなが笑顔になった。カメもちゃんと笑っていた。
 
 目に見える形で、少しずつだが確実に、何が変わり始めてきている。僕らはこれから、どうなっていくのだろうか。

 さっき上がってきたばかりの階段を下りる。なんだか変な気分だった。
 外には生温かい風が吹く。相変わらず街は賑やかしいままだ。

 どこだっていい。進んでいけば必ずどこかしらに辿り着くはずだ。今だけは、ほんの少しの間、全て忘れてしまおう。

 僕らは笑い声上げながら、歩を進めた。
 季節はもうすぐ、八月になろうとしていた。
  


 カメがバンドを抜けることになり、僕らにはやらなければならないことがあった。新しいメンバーを探す、ということだ。幸い、次のライブまでにはまだ少し時間があった。

 一ヶ月後に、またヒデさんから企画に誘われていた。自分の誕生日パーティとして、轟音祭を開催するらしい。場所は僕らもよく出ている、下北沢のライブハウス。界隈ではかなり有名な場所でもある。

「誕生日に聖地で企画打って、めちゃくちゃやってやろうと思ってるんだ」

 電話口でそう豪語するヒデさんは、完全に泥酔していた。思い返してみると、今まで酔っぱらっている彼としか、話をしたことがない。

 新しいメンバーのアテはない。仲のいいバンドなんて、僕らにはもうほとんどいない。昔からの知り合いは、とっくに足を洗ってしまっている。

 クボタは曲によってはギターを弾きながら歌うので、三人でのライブもできなくはない。しかし、彼もギターが上手いと決して言えないし、ピンボーカルの曲も複数あるので、やはりギターはもう一本欲しいところだ。カメが入るまでは三人体制だったが、今更それに戻るのは現実的じゃない。

「いっそ俺がギターに転向して、ドラムでも探す?」

 なんて提案もしてみたが、すぐさま脚下となった。僕もギターを弾くことはできるが、ギタリストと呼べるほどの実力はない。クボタの意見としては、お前のドラムは歌に感情を込めやすいから代えたくない、だそうだ。

 いい案はない。この三人では何か大事な要素が、完全に欠けている。一人のメンバーがいなくなっただけで、急にみすぼらしく見えた。ちょっとした風が吹いただけで、いとも容易く崩れてしまいそうだ。

 カメのギターはあまり上手いといえるものではなかった。完全に勢いやテンションで弾くタイプだった。バンドに対する姿勢も含め、僕は不満の方が大きかった。なんとなしなければと思っていた。
 しかし、いざいなくなってしまうと、こんなにも心細くなってしまうとは、自分でも少し驚いた。失った時に初めてその大切さに気付く、とやつだろうか。


「ホシくん、ヒノーズの店員とかお客さんでいないの?」
 
「いやー、いないかなあ、結構考えたんだけどさー。コジーのところはどう?」

「俺んとこはみんなドラムだしさー、一緒にバンドやるって感じでもないし、ましてやお客さんとなんてそこまで絡みもないから、厳しいかなあ」

「そうなんだ。……ねえ、クボタは? さっきから黙っちゃってるけど、なんかいい案ないの?」

 うーん、と唸りながらクボタは顔を上げた。

「俺は一人だけいるよ。でも入ってくれるかどうかはわからないし、俺的にはあんまり入れたくない。でもギターはなかなか上手いし、音楽性も俺らと合うとは思う、けど……」

 クボタの表情は険しい。

「なにそれいいじゃん! 誰よそれ? そんな人、知り合いでいんの?」

 思いがけないクボタの発言に、僕は食いついた。しかし彼の表情は変わらない。

「いやー、知り合いっていうか……」

「誰、誰? 俺も知ってる人?」

 と、目を光らせるホシくん。

「俺の兄貴なんだよ」

「……え?」

 僕とホシくんは少しの間固まった。

 クボタに兄がいたことは知っていた。バンドをやっていたことも。しかし何年か前に解散してから、全く音楽はやっていないはずだ。

「とりあえず兄貴に話すだけ話してみるわ。期待しないで待っててくれ」

 次のライブは一か月後。ヒデさんの誕生日企画。それまでにメンバーが決まらなければ、三人でやるしかない。それだけは何としてでも避けたい。

 あの子は今度のライブに出るのだろうか。ヒデさんの教え子というくらいだから、おそらく出演するはずだ。次こそは喋れるだろうか。いや、きっとまた無理だろう。

 そういえば僕はまだ、あの子の名前すら知らない。


 当たり前のような顔をしてやってくる日常。

 ハルさんとバカ話をし、マツを少し揶揄いながら、マーシーさんにドラムのアドバイスをもらい、エノさんからありがたい言葉を頂く。スタジオは相も変わらず、常連客や大学生らで賑やかしく、大きなトラブルもない。いつも通りの練習空間。

 様々なドラマが、防音扉の向こうで巻き起こっているのだろう。世界中の小説を読み漁っても決して載っていない、物語にならない物語。全ては一瞬の出来事で、その場にいなければ絶対に味わえない。

 今までどれほどの人達がここで音を鳴らしてきたのか、想像も付かない。バンドは一人では成り立たない。嫌でもまとわりつく人間関係。きっと僕は、多くのドラマをここで見逃している。

 全てを知るなんてことは不可能だ。だから僕は。僕の物語を生きるしかない。ドラマなんてなくてもいい。音さえ鳴らせればそれでいい。

 早すぎる速度で日々は進んでいく。
 振り落とされぬよう、今日も誰かに会いに行く。


「兄貴やってくれそうだったよ。なんか、意外と乗り気だった」

 スタジオのロビーに現れたクボタが、開口一番にそう言った。

「まじか! よかったじゃん」

 と僕が言うと、いやー、とクボタは苦い顔をした。

「実はうちの兄貴、結構めんどくさくてさ。人見知りだし、人と話すのも苦手だし、めちゃめちゃ神経質で、ちょっとのことで機嫌悪くなったり、一人で電車に乗れなかったりとか……、かなり変わってるんだよ。兄貴を入れるなら、色々覚悟した方がいい。ギターの腕はまぁ、悪くないと思う。少なくとも今までとはだいぶ変わるはず」

「いいじゃんいいじゃん、やってもらおうよ!」

 ホシくんはタバコを片手に、いつになく強い口調で言う。

「すごい丁度いいじゃん。今バンドとか何もやってないんでしょ? ギターも上手いみたいだし。クボタもお兄ちゃんがメンバーだったら、やりやすいでしょ?」

「まぁ、俺はやりやすいかもしれないけど、みんなと合うかどうかは……」

「いいよ! 俺はクボタのお兄ちゃんがいいと思う。前に高円寺ギアで企画した時、出てもらったよね? 確かすごいカッコよかったもん」

「うーん、そっかあ。コジマはどう思う?」

 クボタは冷静な口調で、僕の方を見て言った。

「うん、俺もいいと思うよ。そんな問題児、こんな名前したバンドにピッタリじゃん」

 ただでさえか弱い金魚を更に弱くした、というの意味合いのバンド名。名付け親はクボタだ。

「……わかった。何とかするわ。次のスタジオには連れて来れると思う」

「お兄ちゃんは普段何してる人なの?」

 とホシくんが訊いた。

「バイトだよ。スーパーの裏方。前のバンド解散してから、基本的にあんまやる気ない感じらしくて、家ではずっとゲームしてるみたいだし、母親もちょっと困ってんだ」

「おー、いいねー、くすぶってる感じじゃん。やっぱ兄ちゃんしかいないよ」

 と僕は言った。そういうことなら大歓迎だ。

「俺はすげー不安。昔から兄貴とは色々あったし。家族ならまだしも、お前らとうまくやっていけるかどうか……」

 クボタは何故そこまで不安に思うのだろうか。ふと同じ立場になった自分を想像してみたら、鳥肌が立ちそうになった。兄とはもう、何年もまとも口さえ聞いていない。

「大丈夫だよクボタ。もうおかしな三人しか残ってないんだからさ」

 ホシくんのいつもののほほんとした空気。

「まぁ、そうだな、わかった。とりあえず次のスタジオに連れてくるから、四人でやってみよう。兄貴も曲作れるから、実家でちょっと二人でやってくるわ」

 クボタがそう締めくくり、僕らは解散した。不安になりそうなくらい、とんとん拍子に話が進んでいく。

 どんな化学反応が起こるのだろうか。
 うるさい音楽を鳴らすなら、くすぶってる人間ぐらいが丁度いい。フラストレーションを全てライブにぶつけることができるからだ。反骨精神が一番の起爆剤になる。
 ギターが代わればバンドの色が変わる。場合によってはまるで別物になる。ベースとドラムはあくまでもリズム隊だ。

 これからはクボタ兄弟がキーになるだろう。あの大きなダイヤの原石みたいなクボタの、更に上の兄ちゃんなんだから、きっとものすごいものを持っているに違いない。
 僕は期待に胸が膨らませ、その時を待った。



 ノートを開き、ペンを握る。何も考えずに、とにかく手が動くまま、空白を埋める。自分の脳内のあやふやで捉えきれないもの。それをはっきりさせるには、このやり方が一番いい。 
 音を立てて具現化する言葉達。自分で書いているのに、まるで知らない人のことのように思える。書いてみて初めてわかることはたくさんある。
 一ページほど書き殴ってみると、身体と頭が軽くなる。まるで、溜まりに溜まった大きな膿を絞り出したかのように。
 ここに書いておけばとりあえずは残る。読み返す事はまずないけれど、形にしておいても損はないだろう。本棚には、三十冊近く重なった思考の残骸がある。
 こんな事をもう何年も続けている。思えばバンドにのめり込むと同時に、この習慣はスタートした。ロックで頭がやられてしまったのかもしれない。今ではもう、無くてはならない儀式のようなものになり、三日書かないと気が触れそうになる立派なジャンキーだ。

 僕みたいな人間が世の中を生きていくには、工夫が必要だ。音を鳴らし続けているのも、あたりを走り回るのも、こうして文字を書いているのも、死なないよう生きる為。誰にも届かない手紙を書き続ける。全ては明日に命を繋ぐ為。

 餌を求めて必死に彷徨う。
 水槽に入れられた三匹の金魚。
 皆一様に出鱈目な動き。
 最後の一匹を、捕まえにいく。


 いつもの道を通り、いつもの階段を上り、いつもの店員に挨拶をし、いつものロビーへ。時刻は五時五十分。僕にしては早い到着だ。いつものDスタジオの前に、いつもとは違う人影があった。

「おはようございまーす。あ、どうもはじめまして、クボタのお兄さんですか?」

 見知らぬ後ろ姿に声を掛けると、三人が振り返った。 

「あ、どうもどうも。兄です。今日はお手柔らかに」

 メガネをかけた男がペコっと頭を下げた。

 例の高円寺ギアの企画は、僕も前のバンドて出演していた。その際、彼のステージ姿を見たことがあったが、その時とまるで印象が違う。なんというか、普通の、どちらかと言えば冴えないアンちゃんという感じだ。

 演奏する姿は、クールでキレのあるギタリスト。目の前には少し肉の付いた地味な人。やはりステージは人が映えるらしい。ゲレンデマジックならぬ、ステージマジックだ。

「コジマといいます、よろしくお願いします。あのー、お兄さんはどんなバンド聴くんですか?」

 ペダルケースを地面に置きながら質問した。バンドマン同士の会話での常套句だ。

「うーん、色々聴くねえ。洋楽のハードコアとかガレージとかエモとか、日本だと空間系のバンドとか歌モノのロックとかインストとか、ヒップホップも好きだし。あとはアニソン、アイドル、歌謡曲、他にはジャスとか。結構雑食かなあ」

 彼はゆっくりとした口調でそう言った。かなりの音楽好きだと窺い知ることができる、本格的なラインナップだ。

「へぇー、すごい。自分ジャズなんてまともに聴いたことないっすよ。ホシくんもないべ?」

「ないよー、あるわけないじゃん。普段あんまりバンドも聴かないし、好きなのは女ボーカルのJポップだもん」 

 あまりの彼らしい回答にニヤけてしまう。

「じゃあなんでバンドやってんのさ?」

「わかんないよー。気付いたらもうずっとやってんだよー」

 本気で慌てたような彼の台詞に、空気が和んだ。二人でああだこうだ喚いていると、クボタが口を開いた。

「とりあえず今ある曲は全部兄貴に教えて、大体出来るようになってると思う。次のライブまでに五曲は仕上げよう。新曲もある」

 声のトーンを落とした、いつになく真面目な台詞。

「おー、いいねえ。早いっすね、お兄さん」

 と僕は太鼓を叩いてみた。

「まぁ軟弱金魚の曲は、コードとか構成シンプルだからねえ、なんとかなったよ」

 喋り方がおっとりしていてやさしい印象。しかし、決して目を合わせてくることはない。

「もう俺も吹っ切れたから。兄貴とやるのはかなり不安だったけど、もうやるしかないし、兄貴しかいないし。やるって言ってくれたからには、その言葉を信じるよ」

 クボタは人が変わったようだった。カメがいる頃とは違い、真面目な会話と表情。自分がしっかりしなければ成り立たない、そう思ったのかも知れない。

「俺は前のバンド辞めてから、もう音楽はやらないって決めてたんだけど、今回この話もらって、またやれるかもしれないって思えたんだよね。こいつとならできるかもって。最後のバンドやってみるかあって」

 ゆっくりとした口調だが、はっきりとそう言った。

「最後、なんですか?」

 僕は質問してみた。

「うん。もう俺も二十代後半だしさ、本気でバンドやるのはラストチャンスだと思うんだ。他に一緒やりたいって思う人もいないし。バンド辞めて、仕事しながら趣味でギター弾いてたけど、やっぱりまだ心残りがあったんだよね」

 僕らはじっとお兄さんの話を聞いていた。

「だから最後に、このバンドに懸けてみようかなって」

 
 スタジオに入り準備をしている時に、お兄さんの機材を見て驚いた。カメはアンプにギターを直接繋いでいたけれど、彼の足元にはエフェクターの塊があった。六、七個はあるように見える。

「足元すごいっすね」

 僕は思わず口に出した。

「あー、そう? 俺の好きな音って、こうやって色々繋がないと出せないんだよね。何年も試行錯誤して、ようやくこれに落ち着いたって感じ。前はもっとたくさん繋いだりしてたよ」

 そう言いながら、エフェクターを足でカチカチと鳴らし、軽いタッチでギターを弾いている。

「へぇー、すごいっすね」

 本当にすごいと思った。カメは一種類の歪んだ音でバッキングに専念し、ギターソロをクボタに任せることもあった。そのせいもあってか、代わりに入った彼は、まだほとんど何もしてないのにも関わらず、音の魔術師のように見えた。

「おーし、じゃあなにやる?」

 クボタが指揮を取る。

「お兄さんはなにやりたいっすか?」

 僕がそう聞くと、

「うーん、バカ音頭でもやってみる?」 

 と彼はのほほんと答えた。
 しかし、その目の色は変わり始めていた。一刻も早く音を合わせたくて、ウズウズしているに違いない。

 ギターを構え周り見渡すクボタ。ホシくんは静かに天を仰いでいた。

「おーし、じゃあとりあえず一発やるかー、バカ音頭。……せぇーの!」

 クボタの声に合わせ、一斉に各々の音が鳴った。

 それはまるで、パズルのピースがそっとハマったかのようだった。何の違和感もなく彼はそこに居た。あたかも、何年もずっとそこに居続けていたかのように。
 そうか、血の繋がりってやつはこんなにもすごいものなのか。
 もうこれ以上やらなくてもわかる。
 僕らはきっと、変わっていく。


 二時間の練習は、あっという間に終了した。僕は全身汗まみれで気持ち悪かったが、決して嫌な気分ではなかった。みんなもなんだかいい顔をしていた。

 お兄さんのギターは申し分なかった。むしろより良くアレンジまでされていた。会話をしなくてもわかった。僕らは音楽で話をしていた。彼も僕を認めてくれた気がして、とても嬉しかった。

 アンバランスなまま、それでも進まなければならない。止まってしまえば形を保てなくなるから、進み続けるしかない。

 これが最後のバンドだと、彼は言っていた。
 それは僕らにとってもきっと同じこと。
 この四人で戦うしかない。
 時間はもう、あまり残されていない。
 勝っても負けでも僕はくたばるだろう。
 だから先陣を切って引っ張っていく。
 そんなことくらいいくらでもやってやる。
 邪魔する奴は殺してしまえばいい。
 これが最後のバンドなのだから。

 日付は既に八月を迎えていた。暑さがピークになりそうな、真夏の夜だった。


 それから一ヶ月間、出会えた喜びを噛み締める暇もなく、音を鳴らし続けた。みるみると良くなっていく演奏に、僕らは静かに高揚していた。もう既に、以前とは全く別のバンドになっていた。

 ディレイやリバーブ、フェイザーにフランジャー、オーバードライブ、ファズ、ディストーション。ありとあらゆる新しい音を、彼は僕らの音楽に組み込んでいった。こちらから何かを注文する必要もなかった。シンプルなパンクスタイルでいくしかないと思っていた僕は、心から嬉しくなった。

 新しい曲の制作にも入った。一つはミドルテンポのロック、もう一つは段々と轟音になっていくバラード。歌詞作りに難航していたようだが、とりあえずライブが出来るほどの曲数は、既に演奏可能になっていた。

 クボタは以前と比べ、目に見えて変わっていた。家族が側にいるせいか、ふざけることが極端に減り、ひりついた空気を持つようになり、真剣に音楽と向き合っていた。
 そして、そんな兄弟の音楽的な相性は抜群だった。二人で共作の曲がどんどん出来ているらしい。 

 彼を招き入れたことに、間違いはなかったようだ。

 僕とホシくんは、そんな彼のことを親しみを込めて「お兄ちゃん」と呼んでいた。
 僕は早くお兄ちゃんとライブがしたくて仕方がなかった。


 ヒデさんの誕生日企画が翌日に迫った、練習終わりのガランとしたロビー。

「明日はどうなるんだろうね」

 そのままバイトだというホシくんと、二人で話していた。

「まぁまた若い子がたくさんいるんじゃない?」

 僕は太股をスティックで叩きながら答えた。

「たくさんいたらテンション上がるなあ。今のうちら、かなりいいと思うよ」

「うん、俺もそう思う。お兄ちゃんが入ったのは大正解だったね。俺、自分のベースが下手すぎて嫌になるよ」

 タバコの煙を吐きながら、苦笑いをしていた。

「たしかにこのままだったら悪い意味で目立っちゃうからな。頑張るしかねーぞ、ホシくん」

「わかってるわかってる。俺なりに頑張ってみるから。バイト中とか終わった後とか、一人でスタジオ入って弾いてみるよ」

「うん、それがいいかもね。なんか最近、クボタもやる気みたいだしなあ」

「確かにね。お兄ちゃん入ってからかなり変わったよね。カメがいる時は本当に高校の時のままだったもんなあ」

「まぁ家族がメンバーに入ったら、誰でも嫌でも変わるよな。兄ちゃんが不安定な分、自分がしっかりしなきゃって思ってるのかもね。クボタんとこって親父さんいないらしいし、兄ちゃんがその代わりだったのかな」

「あー、そっかー、だから今あんな感じなのか。でも、それだったら、不安定お父さんってことだよね。やっぱりその分、お互いが支え合ってるって感じだったのかな?」

「うーん、そうかもね」

 両親がいる僕にはわからないことだった。

「でさも、バンドちゃんとやるなら、今みたいな感じの方がいいよね」

「いやいいよ! 全然いい!」

 僕は練習の手を止めて言った。

「俺は前のワイワイした感じが歯痒かったし、今の方が百倍良くなったと思ってるよ。ギターもめちゃくちゃ変わったし、ようやく前に進める気がしてる。前は結構キツかったもんなあ」

「うーん、そうだね、確かに。俺はずっと楽しんでやってたけどさ、バンドは」

「そりゃ俺も楽しんではいたけど、楽しければいいやとはなりたくないんだよ。遊びで音楽やってるわけじゃないし、やるなら絶対売れたいし、練習もライブもめちゃくちゃ頑張って、すごいバンドになっていきたいからさ」

「本当コジーはその辺すごいストイックだよね。なんでなの?」

 そういう質問はあまりされたことがなかった。

「なんでって、うーん……、カッコよくなりたいから? 普通に売れたいし、CDも出したいし、すごくなりたいし……、まぁあれだな、俺は君たちと違って男子校だったから、それがでかいのかな」

「男子校? そんなの関係あるの?」
 
「めちゃくちゃあるよ!」

 僕は思わず声を荒げた。

「あのね、男子校っていうのはね、本当に本当にほんとーにつまらない場所なんだよ。青春時代の一番異性の目を気にする、そういう多感な時期に女子がいないっていうのはね、全くやる気が出ないのよ。教師までやる気なかったよ。喋れなくていいし、触らなくていいし、いるだけでいいのに、最初からいないってなったらもう……。学園祭も体育祭も全くと言っていいほど盛り上がらないし、席替えもバレンタインも何一つドキドキしないし、毎日登校する気力もちっとも湧いてこないし、それくらい異性の目っていうのはめちゃくちゃ大事なわけよ。もう毎日がクソだよ。私立で厳しかったから囚人みたいな気分だったし、普通に殴られたりもしてたし。そんな中、君たち共学の奴らは女子達とワーキャー言って楽しんでたんでしょ? どーせ軽音楽部とか入ってたんだろ?」

「う、うん。クボタもカメも入ってた」

 あまりの僕の勢いに、引いている様子のホシくん。

「そこで色恋沙汰があったりして、放課後一緒に帰ったりなんかして、甘酸っぱかったんでしょ? そんなんこっちは一ミリ足りともないからね。つまんねーし、やる気はでねーし、うらやましいしで、そりゃ捻くれますよ。そんでもって勉強もつまらないじゃん? もう音楽しかないじゃん? じゃあこれであいつらを見返すしかないってなるじゃん? ってまぁ、そんな感じかな。それが未だに続いてるみたいな」

「へえー、それがコジーのモチベーションなんだ?」

「まぁ高校卒業してからも、神奈川引っ越したり、バンド上手くいかなかったり、フラれて引きこもったり、色々あったけどさ、原点はそこかなあ。つまらなくて羨ましくて悔しくて、どうしようもなかったからなあ」

「俺は高校も専門も楽しかったよ、それなりに」

 この男はどこにいても楽しくやっていけそうだ。

「俺は全然だよ。中学も高校もその後も、楽しかったって言い切れる時期はなかったな。友達はいたし、彼女もできたし、かなり遊んだりもしたけど、なーんも満たされなかったわ。だからこの先は楽しみたいって気持ちが強いのかも」

「ふーん、そうなのかあ」

「でもこんな風に悩んでた高校の頃さ、昔から仲良かった女友達に相談したんだよね。いいよなーお前らは楽しそうでって」

「うんうん」

「そしたらさ、『みんなは今楽しいかもしれないけど、今が楽しすぎるから、きっとこの先はつまんないんだよ。コジは今つまらないでしょ? だからきっと、この先はずっと楽しいよ』って言われてさ、なんか救われたんだよね」

「へぇー、いい話じゃん」

「今話してて思い出したよ。その言葉を今でも信じて頑張ってんのかなー、たぶん。くそつまんなかったけど、だからこそこの先はって」

「うん、でも本当にそうなのかもね。好きなものも最後に食べた方が得した気分になるし」

「どういうこと?」

 僕は笑いなら訊いた。

「それでいうと、俺は割と先の方に好きなもの食うけど」

「えー、俺は絶対最後まで取っておくなあ」

「なんかそれもホシくんらしいな。なんか微妙に例えも違う気がするし」

「そうかな?」

「まぁとにかく、この先は毎日ステーキの日々ってわけよ」

「でも、それはそれで飽きるでしょ?」

「……たしかに」

 僕らは笑った。ホシくんとは、気軽に話し合える友人関係のようものを築けていた。カメがいなくなってからは、より濃さが増した気がする。

 僕は夜中までヒノーズに居座り続けた。
 きっと明日はいいライブができる。
 僕はホシくんの声を聞きながら、ぼんやりとそんなことを思った。


「今日はライブかなにか?」

 料金を支払い、機材をまとめている時に話し掛けられた。

「そうですそうです。すぐそこの、あの劇場前のライブハウスで」

「あー、あそこかあ、昔からある有名なとこだよね。お客さんの中にもあそこ出てる人、たまにいますよ」

「へぇー、そうなんですね」

「頑張ってね。ロックとか俺はよくわからないけど、この髪型だから、きっとうるさいロックンロールなんだろうね」

「んまあ、そんな感じっすね」

 僕は店の扉を開けた。

「毎度どうも、またよろしくね。ロックンロール!」 
 
 恥ずかしげもなく発せられたその言葉から、僕は逃げ去るように店の階段を降りた。このオヤジは嫌いじゃない。あまり喋る気にはならないけれど。

 髪の毛の手入れが面倒なので、半年に一度くらいのペースでこの美容院に来ている。ひどい時は一年放置し続け、浮浪者のような長さになる。何故か僕は昔から、汚い格好でいる方が落ち着いてしまう。革ジャンなんて、本当に一度も袖を通したことがない。

 下北沢は朝から活気付いていた。
 踏切を渡り、大きなスーパーを抜け、カラオケ屋の十字路を左へ曲がる。井の頭線の高架下をくぐり抜けると、大きな劇場と雑貨屋の向かいに、一階が中華料理屋の雑居ビルが見える。

 普段のライブは昼過ぎから夕方あたりの入り時間だが、ヒデさんの企画はバンドが多いので午前入りだ。僕らの出番は夕方だが、一応早めに入ることにした。エレベータのボタンを押し、三階へと上がる。

「コジマくん何してんのー?」

 既に酒が入っている様子のヒデさんが話しかけてきた。

「相変わらず飲み出すの早いっすね。今日は音源持ってきたんで、歌詞カードとかコピーしてきたんすよ。配ろうと思って」

 僕が加入して半年後に、バイト先のスタジオで録ったものだ。荒削り感満載だが、無料で配るにはちょうどいいクオリティ。一応、レコーディングスタジオでプロのエンジニアに録ってもらったので、ある程度のお金は掛かっている。

「配るんだ? 売らないの?」

「いやー、もうこれだいぶ前のですし、売ったりするのも面倒だし、俺らの音源なんて誰も買わないだろうなと思って。だったら無料で配っちゃった方が勝手に広まっていくかなー、と。買ってもらうのはちゃんとしたアルバム作って、全国流通した時でいいっすよ」

「うーん、なんかもったいないね。折角作ったんだから、百円でもいいから売ればいいのに」

「まぁいいんすよ、ただの宣伝みたいなもんなんで。フライヤーと一緒っす」

「そっかー。軟弱金魚は真っ直ぐだし泥臭いから、俺は好きだよ。売れるとか売れないとかはわからないけどさ。高校生達も結構みんなカッコいいって言ってるよ。だから誘ってるし、今後も誘うつもりだよ」

「ありがとうございます。ヒデさんも一枚もらってくださいよ」

 そう言って、僕はCD渡そうとしたが、彼はそれを制した。

「いや、俺はいいや。全国発売した時に買うよ。ちゃんと金払ってさ」

 そう言い終えると、ふらふらとどこかへ消えていってしまった。いつもと同じにウイスキーの瓶と、何やらプレゼントらしきものを抱えて。

 そうだった。すっかり忘れていたけど、今日はあの人の誕生日だ。
 
 僕は受付前のテーブルで一人、CDケースに歌詞カードを入れる作業をしていた。既にライブは始まっていたが、ステージやフロアは防音扉の向こう側にある為、この辺りは割と静かだった。小さなモニターが天井に備え付けられており、ライブの映像と音が流れている。僕は手を動かしながら、その音だけを聴いていた。

 テイクフリーで置いておけば誰かしら持っていくだろうし、ライブ後に配ればみんな受け取ってくれるはずだ。そうすれば学校で貸し借りが行われ、口コミで広まっていくかもしれない。

 そんな淡い期待を込めていた。


「おはよーコジー。なにそれ? CD?」

 ベースを背負ったホシくんがやってきた。

「ういっすホシくん。そうそう、前に録ったやつ。配ろうと思ってバイト先で三十枚くらい焼いてきた」

「え、それ配るの? 結構前のだし、お兄ちゃんも入ったんだし、もういいんじゃない? 新しいの作ろうよ」

 そう言いながら、僕の向かいに腰掛けた。

「まぁ新しいのも作りたいけど、曲もまだあんまりないし、お兄ちゃんが入って日も浅いしさ。もっと固まってきてからでいいと思うんだ。だから今日はこれ配っとこうかなーって。人もたくさんいるみたいだし」

「ふーん、そっか」
 
 彼は興味なさげにそう言うと、天井のモニターに目を向けた。
 
「今日もまたコピーばっかなのかなー、そろそろ飽きてきちゃったね」

「うーん、まぁねえ」

「ニシちゃんも厚木でコピーやってたけど、結構ひどかったよ。ヒデさんがドラムで、全然叩けてなくてさ」

 あの人がドラム? 
 僕はあの日、一人でフラフラと出歩き、本番後には潰れていたので、その事実を知らなかった。
 適当に相槌を打ち、作業を続けた。

「ニシちゃんギターも歌もそんな上手くなくて、俺の方が弾けるじゃないかって思ったもん。それにアキちゃんも暗いし、なんだかさー。あ、それもっとちゃんと切った方がいいんじゃない?」

「……そう?」

「これまっすぐ切らないとちゃんと入らないよ。歌詞カードもちゃんと綺麗に折った方がいいし。うーん、やっぱり配るのやめとく? もうこれいいんじゃないの?」

 僕の中で何かが切れた。

「お前さ、なに来てからずっと文句言ってんの?」

 ホシくんはキョトンとしたような顔をした。

「え? 文句なんて言ってないけど」

「言ってんじゃねーかよ、さっきから。なんなんだよ今日お前」

 勢いよく立ち上がり、ホシくんの座っていた椅子を蹴り飛ばすと、彼は驚いた様子で立ち上がった。僕は思い切り胸倉を掴んだ。

「人が折角色々やってんのに文句言ってんじゃねーよ。こっちは空のCD買って、三十枚も焼いて、歌詞カードもコピーしたりとか色々やってんだよ。なのに何で人のやる気を削ぐようなこと言うんだよ!」

 僕の声はだんだんと大きくなっていった。こうなると自分でも制御できない。

「おいおい、喧嘩なら外でやってよ。こんなところでやらないでさあ」

 受付のスタッフが鬱陶しそうに言った。

「なんなんだよ、文句ばっか言って。テメーはそんなこと言える立場かよ? ベースもロクに弾けねえくせして、人のことどうのこうの言ってんじゃねーよ!」

 怒鳴りながらホシくんを壁に押し付けた。身体がテーブルに当たり、CDがバラバラと床に落ちた。

「おい、いい加減にしろ! ここでやるなら出禁にするぞ!」

 スタッフが声を荒げた。僕は声の方を見向きもせずに言った。

「行くぞ」

 ホシくんを出口の方に押しやり、エレベータの前まで来た。

「乗れよ。上で話す」

 僕は上昇のボタンを拳で押した。ホシくんはすっかり黙り込んでいた。
 深く考えずに喋っていたのか、たまたま魔が差しただけなのか、普段はないはずの刺々しさがあった。理由はどうあれ、己を棚に上げ、周りの人間を否定するような彼の言動が許せなかった。

 エレベータが三階で止まり、扉が開いた。僕はホシくんのケツを蹴って中に入れた。五階のボタンを押し、扉が閉まると、再び胸倉を掴んだ。

「何なのお前マジで。なんか気に食わないことあるなら言えよ。はっきり言ってみろよ」

「……別に何もないよ。普通の会話してただけじゃん」

「どこが普通なんだよ、人が折角頑張ってやってることにケチつけておいて。人のやる気潰すんじゃねえよ」

「別に潰してないだろ! ただ綺麗にやった方がいいって思ったからそう……」

 声を荒げたことに腹が立ち、言い終わる前に鼻っ柱に頭突きを入れた。衝撃で脳味噌がグラっと揺れた。ホシくんは鼻を押さえその場でうずくまった。

「潰してんだよ! おめえの言葉はよ!」

 僕の声がエレベーター内に響くと、同時にその扉が開いた。ホシくんを勢いよく起こし上げ、外へと引っ張り出した。すぐ右手にある階段を、後ろから押し立てるように無理矢理上らせた。

 勢いよく楽屋の扉を開けると、何人かの学生らしき子たちが一斉にこちらを見た。僕はその視線を無視し、ホシくんの服を掴み、そのまま壁に叩きつけた。

「んで、なんだよ、何が言いたいんだよ? ニシちゃんとヒデさんが何だって?」

 ホシくんの顔には表情がなかった。僕は平手でその頬を殴った。

「人のやる気削いで、文句ばっか言って、お前何がしたいの? 少しでもバンドを広めようと、こっちは考えて行動してんだよ。人の気も知らないで、手伝いもしないで、オメーは他人の文句かよ? ベースもロクに触ってねーんだろ? 何を頑張ってんだよ? なんかやってんなら言ってみろよ!」
  
 怒りで脳のリミッターが外れ、暴言が止まらなくなる。

「お、俺は、俺なりに頑張ってるよ。ベースも……」

 俯いたまま、擦り切れるような声で言った。

「じゃあなんでピッキングもまともにできねえんだよ? そんな奴高校生でもいねえだろ。そんなんで文句垂れてんなよ。自分を棚に上げんな。一生懸命やることやってから言えや。あともう二度と、俺の前で周りの人間を馬鹿にするようなこと言うなよ? ……わかったな?」

 彼は黙ったままだった。

「わかったのかよ!」

 僕は胸倉を掴み、無理矢理こちらに引き寄せた。

「……わかったよ」

 震えた声でそう答えた。

 僕は彼を突き飛ばし、楽屋からさっさと出て行った。室内は静まり返っていた。

 ——あー、やっちまった。

 沸騰した頭でそう思いながら、階段をゆっくり下りていく。すると、先の方に人影が見えた。
 
 よく見てみると、なんとあの子だった。浴衣姿でベースを弾いていた、ヘンテコな女の子。ピンクの革ジャンを着て、数メートル先を進んでいる。

 今のやり取りを見られたかもしれない。全部聞かれてしまったかもしれない。タイミングが悪すぎる。完全にやっちまった。彼女はきっと進行方向的に、エレベーター前で立ち止まるだろう。このまま進めば鉢合わせになる。僕は急速に頭を冷やし考えた。

 もうこうなったら話しかけるしかない。ごめんねー、なんて軽いノリで。

 階段を下り切り、右手を見ると、やはりあの子が立ち止まっていた。
 もうどうにでもなれ。知ったこっちゃない。今の勢いなら何でも出来る。僕は覚悟を決めた。

「いやー、ごめんねー、あんなとこ見せちゃって」

 彼女はゆっくりとこちらを振り返った。
 初めてまともに向かい合う。
 近くで見るとまた違った印象を受けた。
 そしてその瞬間に僕は、一つおかしな点に気が付いた。

 彼女の顔は、涙で濡れていた。

「え? なんで泣いてんすか?」

 と質問すると、彼女は泣きながら笑った。

「ごめんなさい、びっくりしちゃって。ああいうの、慣れてないから……」

 涙を拭いながらそう答える。

「え、もしかしてさっきの? あれを見て泣いたってこと?」
 
 思いがけない展開に、僕は狐につままれた気分になった。

「……はい。うち、軟弱金魚すごく好きで、対バンする前から知っていて、でもあんなとこ見ちゃって、どうしたらいいのかわからなくって」

 初めて言葉を交わしたのに、相手は涙を流している。そんな状況が、不思議でたまらない。現実で起こったこととは思えない。僕は思わず笑ってしまった。

「なんかおもしろいね。ホシくんはあんだけやられて泣いてなかったのに、なんであなたが泣いてんのさ? しかも今、初めて話したのに」

「うー、ごめんなさい。だっていきなり入ってきたと思ったら、めちゃくちゃ切れてるし、怖かったんです」

「いやー、ごめんごめん。誰もいないと思ってたからさ」

 そう言った後、なんとなく手持ち無沙汰になったので、彼女に右手を差し出してみた。

「軟弱金魚のドラムのコジマです。よろしく」

 左手で涙を拭き、右手で握手に応じながら、彼女は口を開いた。

「ジッピーのベースのタマです。泣いちゃってごめんなさい。よろしくお願いします」

 僕らは手を握り合った。

 このメルヘンチックなヘンテコな状況を、僕はまだ理解できないままでいた。作り物の世界に迷い込んでしまったかのようだった。

 この子が持っている雰囲気は、一般人のそれとはまるで違う。そんな魅力に吸い寄せられるかのように、僕は今、彼女の手を握っている。

 こうして僕らはまんまと繋がってしまった。
 これがタマとの出会いだった。



 運命のみたいなものはあると思っている。
 縁だとか、必然だとか、赤い糸だとか、生まれ変わりだとか、さらには死後の世界、幽霊、UFO、超常現象、気功から超能力まで。科学的に証明されていない、ありとあらゆることを、僕は信じている。

 過去に二度、雷に打たれたような出会いがあった。一目見た瞬間に心を奪われ、引き寄せられるように親しくなり、そのまま二人は結ばれて、楽しい時を共に過ごした。僕はそれが運命だと信じて疑わなかった。
 しかししばらくすると、別れの時がやってきた。彼女の方から話を切り出された。僕は何も手につかなくなった。一番近くにいた人が一番遠い存在になってしまったという事実を、全く受け入れることができなかった。もうこんなことは味わうまいと、心に決めた。そんなことが二度もあり、三度目は本当に死んでしまうと思った。

 それなのにまた、こんなことになってしまった。
 
  

「おいコジマー、ホシくんと喧嘩したんだって?」

 フロアでライブを見ていると、クボタが後ろからやってきた。笑顔とも苦笑いとも取れる表情だ。

「うん、まぁ、ちょっとね。誰から聞いたの?」

「本人から聞いたよ。あいつ楽屋でめちゃめちゃ凹んでるよ」

 お兄ちゃんはクボタの後ろで、同じような表情をしていた。

「まぁいいんだよ。あいつがごちゃごちゃ言ってきたから、邪魔する奴は許さん」

「何でもいいけどさー、本番までには仲直りしとけよ?」

 と言いながら、二人はフロアの前方へと進んでいった。

 仲直りしろと言われても、どうしたらいいかわからない。直後にあの子と喋ってしまったせいか、記憶が曖昧で思考も散漫になっている。

 少しの罪悪感と、言い知れぬ幸福感、そしていつもの焦燥感。
 
 どうしようもない気持ちを晴らす為には、やはりステージに上がるしかない。考えてもわからないのなら、抱えたままいくしかない。

 様々な思いを巡らせて、自分たちの出番を待った。どうしてもあの子のことが頭から離れなかった。


 本番五分前。
 僕はスティックを両手に持ち、屈伸をしながら、受付前のモニターを見ていた。周りにはチラホラと対バンの学生がいる。クボタとお兄ちゃんも、既に楽器を持って近くにいた。
 そんな時、ベースを背負ったホシくんが、トボトボと階段から下りてきた。誰がどう見ても塞ぎ込んでいる。
 
 モニターの中では、最後の曲が終盤に差し掛かかっていた。僕らは自然にゆっくりと円になった。

「とりあえずセットリストは、この前のスタジオで決めた通りでいいっしょ」

 僕がそう提案すると、クボタ兄弟は頷いた。ホシくんは虚な目でぼんやりとしていた。僕は彼の肩を揺すりながら言った。

「ホシくん、ごめん。さっきの事は俺も悪かった。後で気が済むまでブン殴ってくれていいから、とりあえず今はライブに集中しよう」

「……うん、わかった」

 ホシくんと目が合うと、薄っすらと目に涙を浮かべていた。

「お兄ちゃんも初ライブ頑張ってください。やっちゃいましょう」

「うん、今すごい緊張してるから、早く始まってほしいよ」

 クボタに目配せすると、小さく頷いた。

「よーし、今日は兄貴が入って初ライブっつーことで、気合を入れつついつも通りいきましょう。ホシくんも色々あったみたいだけど、この三十分間は忘れてしまいましょう。カメがいなくても俺らはやれるんだ、いや、むしろ今の方がすげーんだってところ、見せてやりましょう」

 クボタは大きな声でそう言った。周りの視線が痛い。クボタが僕とホシくんの肩を抱いた。僕はそれに倣い、お兄ちゃんの肩を抱き、ホシくんもそれに続いた。この四人で初めての円陣を組んだ。

「久々にやりましょうかー、いきますよー、変な目で見られてるけどいきますよー」

 クボタはもうステージ上のテンションだ。

「あの頃はぁぁーーーー!!」

「うぉーーーい!!」

 謎の掛け声の儀式。意味はわからないが、久々にやると気合が入った。

 あとはもういつも通りに、僕らの音を鳴らすだけだ。
  

 本番中の記憶はほとんどない。それなのに何故、必死にこんなことを続けているのだろう。気付いた時には憧れていて、気付いた時にはもう立っていた。知らぬ間に動き出した車輪は、もう何かにぶつかるまでは止まらない。

 お兄ちゃんはいい顔をしながら、縦横無尽にギターを弾いていた。時折こちらを目を向ける彼に、僕は激しくドラムで答えた。右の二人も、更にそれに答えているかのようだった。

 水を得た金魚。目の前で演奏する三人は、まさにそんな姿に見えた。泳ぐスピードは僕が決めていた。
 クボタはお兄ちゃんがいることで、水槽から飛び出ることがなくなった。以前はよく一人寂しげに、地面をビチビチと跳ねていたものだ。今は四人がしっかりと、同じ水槽の中を確かに泳いでいる。

 例え一人一人は弱い魚でも、こうして四人で集まれば、誰にも負ける気がしなかった。

 
 
 ライブが終わると、珍しく何人かの学生から話しかけられた。「カッコよかったです」、「CD無いんですか?」、「ギターがすごくよかったです」、「やばかったっす」。

 僕とホシくんは彼らの対応に追われた。慣れない若者との会話に必死にだった。気付いたら持ってきたCDはほとんど無くなっていた。朝の喧嘩がもう、遠い昔のことのように思えた。

 お兄ちゃんは、そそくさと支度をして帰ってしまっていた。何か気に食わないことがあったのか、満足して家路に着いたのかはわからない。初めてのライブがこんな空間だったので、間違いなく無理はしていたはずだ。クボタも一緒に付き添って駅に向かったようだった。


「ホシくん、今日は悪かったわ」

 学生たちが去ったところで、僕は話しかけた。

「うん、いいよ。俺が悪かったから」

 ホシくんは伏し目がちにそう答える

「鼻、大丈夫?」

「まだジンジンするけど、折れてはないと思うよ」

 そう言うと彼は、力なく笑ってみせた。元々一本無い前歯が痛々しく映った。

「まじでごめん。酒でも奢るからさ」

「いいよいいよ、今日はいいライブできたし。また頑張ろうよ」

 彼の言葉に胸がチクリと傷んだ。 

「うん、そうだね。頑張ろう」

 それから僕らはバーカウンターに並び、久しぶりにライブハウスで祝杯をあげた。

 転んでもただでは起きない。今日のことは絶対に無駄にしない。僕はそう心に誓った。
  


 時計の針は八時を回り、ようやくいつものライブハウスのような時間帯となった。

 現メンバー初ライブの成功に気を良くした僕は、アホほど酒を飲んでしまい、ヘロヘロになりながら階段の踊り場に避難した。遠くの方で微かに聴こえてくるライブの音に耳を傾け、一人で項垂れていた。

 その時、ツンツンと、肩に当たるものがあった。
 顔を上げると、缶酎ハイを手にしたあの子がいた。
 一瞬何が起こっているのか、よくわからなかった。

「どうしたんですか? こんなところで。酔ってるんですか?」

 たぶんこれは、そうだ、きっと夢だ。

「うん、酔っ払ってます、かなり。あなたは?」

「うちもいい塩梅です。名前で呼んでくださいよ」
 
 彼女の目は少し据わっていた。

「タマ? タマちゃん?」

「どっちでもいいですよ」

「俺さ、人の名前呼ぶの苦手なんだよね」

「どうしてですか?」

「仲いい奴とかは呼べるんだけど、そうでもない人だと気を使っちゃうっていうか、馴れ馴れしい感じがしてさ」

「じゃあ、仲良くなりましょ?」

 彼女は手を差し伸べてきた。

「握手、握手」

 僕は言われるがままに手を伸ばし、本日二度目の握手をした。

「なんか手大きいね。さすがベーシスト」

「うわ、それコンプレックスだからバレたくなかったなー。なんで握手なんかしちゃったんだろ」

 彼女は顔を顰めた。

「いいじゃん、俺は逆に小さいのがコンプレックスだよ」

 僕はそう言いながら、左の掌を広げて見せた。彼女はそれを少し眺めた後、ゆっくりと自分の右手を合わせた。

「ほら、一緒じゃん。男なのに」

「本当だ。全く同じ大きさですね」

 しばらく手を合わせて、二人でそれをじっと見ていた。夢ならこのまま、覚めなければいい。

「いいなあ。うち男っぽいって言われるんですよ。髪も短い方がいいし、手も大きいし、結構ガサツだったりするし、ライブ中はいつもあんなだから」

 彼女はそう言うと、そっと手を離した。

「そこがいいと俺は思うけどね。ボーイッシュな子好きだし」

「本当ですか?」

「うん。あのライブの感じもいいと思うよ。確かに男っぽいけどさ、女の子女の子してるよりはその方が好きかな」

「うーん、うちライブの記憶とかほとんどないんですよ。なんか人格変わっちゃうみたいな感じで」

「わかるわかる。俺も一緒のタイプだよ。さっきのライブのことも全然覚えてないし」

「カッコよかったですよ。さっきのライブ」

 彼女は据わった目で笑みを浮かべた。

「いやー、そうっすかね。それなら良かったけど」

「敵わないですよ。同じステージに立ちたくないくらい。この後ライブするの怖いです」

 ステージ上で楽しそうな彼女からは、想像できない姿だ。

「そんなことないでしょ。俺ジッピーみたいなバンド見たことないもん」

「……そうなんですか?」

「うーん、なんかキラキラしてて、ずっと見ていたくなるライブっていうか。俺は好きだよ」
 
 僕がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「嬉しいです、とっても。今日はもう、このままライブしなくてもいいかなあ」

 二人でバックれちゃう? なんて言ったら、どんな顔するだろう。

「またこんな風に話したいですね」

 彼女は僕の目をしっかりと見て言った。

「そうっすね」

 僕は目を逸らすことを忘れ、そのままじっと見つめてしまった。

「タマー、あんたこんなとこにいたの? もうすぐ出番だよ?」

 突然のその声に、僕は現実に引き戻された。ジッピーのギターの、確か、シノという子だ。

「うわーん、見つかったちゃったー」

 彼女はふざけた子供のような口調で答えた。

「すみません、うちのバカが。ほら行くよ!」

 まるで嫌がる子供を連れ戻す母親のように、速やかに彼女を連行した。

「ライブ見てくださいねー」

 そう言いながら、彼女はフロアの方へと消えていった。

 二人がいなくなると、辺りはしんと静まり、再び小さく演奏が聴こえてきた。

「……なんだったんだ今のは」

 僕は思わず独りごちた。
  


 重い防音扉を開けると、既にライブは始まっていた。薄暗い客席には、三十人程の人集り。その先には明るく照らされた三人の姿が見えた。

 浴衣ではないステージ衣装。以前と変わらないライブスタイル。僕も同じように左側を見続けた。アルコールと疲労と熱気で、僕は段々、意識が朦朧とし始めていた。


「いやー、うちは今日ちょっと元気だよ。いいことあったんだ」

「なにがあったの?」

「すげーカッコいいバンドの人と喋っちゃった」

「そうなんだ? 誰よそれ?」

「えへへ、教えなーい」

「なら最初から言うなよ」

「へっへっへ。今日初めて話したんだけどさ、うちは結構前から知ってて、あれは一年前くらいの学芸大のライブハウスだったかなあ。うちは先輩のライブを見に行ってて、そこでたまたま観たバンドがまーカッコよくてさ、でもちょっと惜しいなとも思ってて。でさ、今日改めて観たら、もうめちゃくちゃカッコよく生まれ変わってて、本当に痺れたっていうか、濡れたっていうかさ」

「あんたマジでそんなんばっかね」

「だって本当なんだもーん。……あの時、初めて見たライブハウスで、うちはボーっとフロアの壁にもたれかかってたのさ。そしたら突然、隣に人が来たの。あれ、誰かなーと思って横を見たら、さっきまでステージにいた彼だったの! 二十センチくらい横でゼエゼエ言ってて、ドラム叩いた後だから全身ずぶ濡れでセクシーでさー」

「もう大体どのバンドの誰かわかっちゃったじゃん。今日なんてほとんど学生バンドしかいないんだし」

「えーウソだー! バレてないバレてない」

 客席からは笑いが起こった。

「それでさ、さっき初めて話したんだ。うちの横に座った髪の長いあの人と! 喋ってる時は、女の子らしくなくてごめんなさい、あんなバンドやっててごめんなさい、なんでもっとおしとやかになれないんだーってもうパニックで。でもさ、うちはこれが普通だし、これしかできないし、これがカッコいいと思ってやってるから、しょうがないじゃん? ときめいて、ドキドキして、彼氏がいたって恋に落ちて、他の男ともやってみたいなーって思っちゃうんだから、仕方ないよ。このムラムラが衝動になって、うちはでかい音鳴らしたくなるんです。あの人達の喧嘩を見て、ライブを見て、話をして。うちの衝動は、止まりそうにないんです」


 僕は彼女から放たれる言葉を、拾い集めるのに必死だった。
 これはきっと俺の事を話しているんだろう、きっとそうなんだろう、なんて思いながらも、実感はできなかった。
 この子は何を言っているんだ? 何度もそう思った。

 出会うだけならまだマシだ。見て見ぬふりをすればいい話。しかし僕らは繋がってしまった。自分の意思とは関係なく、何かに導かれるように。

 バンド活動の中では怖いものなんてない。けど、それ以外の生活に自信なんてない。平気な顔して恋愛なんてできるわけがない。

 覚悟を決めて、失うことも頭に入れて、落ちたら死んでしまうような高さから、エイッと飛び込むようなもの。

 フロアで演奏を観ながら、僕はどうすることもできずにいた。そんなお手上げ状態でも、やっぱり彼女からは目が離せなかった。
 

 僕は途方にくれていた。
 流れる観覧車を乗り過ごしてしまった。
 みんなはうまく乗り込んだのに。
 僕だけが一人、取り残されてしまった。

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