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#3【物理世界と概念世界の流浪手記】多様性雑考とカスタムネイチャーの未来。

多様性とは何だろうか。
いつも思考を巡らせるこの問について、最近少しずつ理解が深まってきたので、共有してみようと思う。


多様性とは、想像力の欠乏である。

生きていればいるほど、様々な言葉をその身に浴びる。そして、様々な言葉を誰かに浴びせる。無責任に放たれた言葉は、本人の想像の範疇を超えて、誰かの心の奥底に突き刺さっていく。皮膚に刺さった鉛筆の芯を放置すると体の一部になるかのように、刺さった後も体の中に取り込まれ、生き続けるのが言葉というものだ。

でも、誰かにとってどんな言葉が傷つく言葉か、どんな行動がその人を苦しめるか想像できるだろうか?
相手の行動を100%理解し、何を思ってどんな行動をとっているか理解できるだろうか?

そんなの無理である。
人間のほんのわずかな想像力じゃ、相手の考えていることもわからない。表面的な部分だけを見て、多数派の前提による決めつけだけで話を進めてしまうのが人間で、相手の奥底まで考えるなんてコスパが悪くてできないことを免罪符のようにあてた言葉が「多様性」である。

この考えは、朝井リョウ氏が執筆した小説「正欲」が基となっている考察である。ここまで深く多様性について洞察されている書は他に見たことがない。以下に非常に心に残った部分の引用を記述する。ネタバレとなりますご注意ください。



多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものが、すぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

「正欲」 朝井リョウ著 p188

幸せのかたちは人それぞれ。多様性の時代。自分に正直に生きよう。そう言えるのは、本当の自分を明かしたところで、排除されない人々だけだ。

「正欲」 朝井リョウ著 p215


かなり否定的に多様性を捉えているが、相手のことを理解できない諦めの言葉として多様性が使われていることは非常に興味深い。

多様性を推進すべき!
多様性を尊重しよう!

口でいうのは簡単かもしれないが、浅はかな理解と考えで、配慮をすることで傷つけてしまうことだってある。みんな何を考えているかわからないから、何が正解かまったくわからない。

だから、本当はこの記事を書くのも憚かられた。この記事自体、誰かを排除する可能性があるからだ。人間の放つ言葉のひとつひとつ、発信するひとつひとつが誰かを傷つけるポテンシャルをほんのわずかでも持っているからである。だからSNSは残酷で、多くの分断を生んでしまったとも思うし、多くの人を傷つけてしまったとも思う。私達はもっと自分の言葉と行動に責任を持つ必要が本来あるのかもしれない。

それも踏まえた上で、私は伝えたいのだ。知識や知恵が、生活に彩りを与えて、豊かにしてくれることを。そういう思いで、いつも記事を書いている。この記事も誰かのひらめきになれば、幸いである。

話を戻して、では、我々はそんな諦めとしての多様性にどう向き合えばいいのだろうか。

多様性にどうやって向き合っていくか。

それでも、理解を。

想像力の欠乏により相手を理解することができないことを自覚すること。
わからないことを認めること。まずは、そこからだろう。わかった気にならないこと。無知であることを恥じないこと。

そのうえで、それでも相手を分かろうという態度を取り続けることが、結局一番重要なのではないだろうか。

相手と少し関わっただけで、相手のSNSの投稿を見ただけで、「こいつはこういうやつ」だなんて思わないでほしい。表面的な印象や情報だけで、憶測を立てて理解したつもりにならないでほしい。しっかりその人と向き合おうと思う心が大切なのだと考えている。

そのために、DIVEを。

多数派の海にいるときは、自明性の中を泳いでいる。あたりまえが蔓延る中に、違和感もわからなさもない。それをはっきりと認識させる。わからないことをわからせるために、あらゆる多数派の中から自身を引っ張り出し、アウェイになることがまず、多様性理解において重要ではないだろうか。

これに似た話で、以前もNoteに書いたのだが、人間は論理的に思考をする。

それは脳の神経回路自体が非常に論理的であるからである。この考え方は「ニューロダイバーシティ」と呼ばれており、「ニューロ」は「神経」、「ダイバーシティ」は「多様性」を意味する。読んで字のごとく、人の脳の構造において、脳の神経回路は人によって違うので、それによる人間の特性の違いを認め合おうということである。
神経回路において、外界からの刺激が入り、電気信号が神経回路を通ってそれに対応するアウトプットを引き起こすのだとしたら、「こういう入力がきたら、こう反応する」のような論理的プロセスを経ると理解できる。
その「こういう入力」に対して、どの神経経路を通って、「こう反応する」かがニューロダイバーシティ的には、人によってそもそもバラバラなのだから、それぞれが生きている人間の論理世界がそもそもバラバラであると捉えられる

私は、何度かいわゆる、自閉症(ASD)の人と関わったことがあるのだが、彼らは突然叫んだり、走り出したりする。自身の論理構造だけでそれを解釈しようとするならば、理解できない行動である。しかし、どうやらそれは喜びや楽しさの表現であり、彼らなりの反応であるそうだ。要するに、自分と違う論理構造を持つだけなのである。そこに優劣はない。人によって神経回路が違うから「こういうことがあったら、こう反応する」が違うのは当たり前である。もし自分のありきたりの論理構造だけで生きていれば、相手の行動が理解できず訝しがるだろう。その状態では論理の解釈の幅が狭い。みんな違う論理の構造を持つことを前提として認め、あらゆる人と関わってその論理構造を理解し、自身の論理の解釈を広げる。すなわち、「こういうことがあったら、こう反応する」の「反応」に向かう論理の選択肢がひとつでなく、多数の解釈ができることを認識することが、多様性理解の第一歩かも知れない。

私は最近実践できていないが、まったく自分と異なる立場や年齢、人種、職業など何でもいいが、とにかく自分と違う論理構造を持つ集団のところにDIVEして、アウェイを体験し、自身との差異を知って、論理の解釈を広げる経験を人生の中でできるだけ多く持つことが、DIVERSITYを考えるうえで必要な実践だと思っている。

人は学習や経験をすると、脳内で、ニューロン(神経細胞)が電気信号を発火させ、シナプスと呼ばれる接続部を通じて他のニューロンに信号を伝えるといわれており、新しいことを学習する過程で、新しいシナプスが形成されることがある。これにより、神経ネットワークが再編成され、新しい情報の経路が作られる。このネットワークをDiverseにするために、アウェイな「ありえない」経験をして、それを「あたりまえ」にしていくことを人生の中に多くもつことが重要かと思う。

たくさんの「ありえない」が「あたりまえ」になった先に、どんな事象も許容できる寛容な感性が醸成される。

私ももっともっと冒険と勉強と対話を続けて、あらゆる考えを自分の中に植え込んでいきたい。

混ぜて、混ぜない。

私は今、マレーシアにいるのだが、マレーシアは非常に多民族な国家として有名である。とりわけ、民族的多様性と宗教的多様性である。民族はマレー系、中華系、インド系、タイ系、原住民など様々であり、宗教はイスラム今教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教などである。だいたい、民族ごとに進行している宗教が決まっていることが多いが、民族と宗教が一致しない人もそこそこの数いる。

そして、寛容な人が多い。イスラム教が多数派なため、イスラムの教えでは男と女の2つをアッラーがつくったということになっており、性の多様性こそ少ないものの、よそ者や外国人、別の民族の人に対して比較的寛容である。小さいころから、生活の中で、あらゆる民族の人と関わる機会があり、マレーシア人でさえも、外見だけじゃ相手がマレーシア人かわからないほど、多くの種類の人間を見てきているからであろう。

だが、不思議なことに、教育機関が民族ごとや宗教ごとにわかれていたりすることもあるそうで、大学時代に始めて他の民族の友人ができたという人も多いそうである。実際、街を歩いていてもわかるのだが、同じ民族同士で固まっている姿をよく見る。コミュニティの本質として、同質性を多くもつもの同士が集まるため、自然といえば自然なのだが、意外とはっきり民族ごとに分かれている。

でも、アメリカほどあからさまにヘイトスピーチはなく、混ざらなくともお互いのコミュニティの存在を肯定し、お互いの文化を許容してのんびりと暮らしている。「Boleh Boleh (訳:いいよ、大丈夫だよ、なんとかなるよ)」が口癖であることも普段から、多様なありえないを経験してきたからなのではないだろうか。

この無条件の肯定の関係が重要で、すなわち個人の寛容度を高めて、相手の違いを認めつつ、自分が居心地が良いと思える空間が用意されていることが多様性時代のインフラとして必要なのではないかと考えている。

よく、ボーダーレスにして、混ぜることが重要だという論調を耳にする。確かにそれも重要だ。ボーダーを溶かし、混ぜることで、多様な人と出会い、論理の解釈を増やしていくという意味で、インクルーシブ教育などの試みは多様性理解において、意義があることだと思う。

しかし、同時に、混ぜすぎない(ボーダーを溶かさない)ことも必要である。

解釈的不正義という言葉がある。
哲学者のフリッカーによって提唱された概念で、特定のグループが自分たちの経験や感情を十分に理解し、表現するための適切な言葉や概念を持たないことによって生じる不正義のことを指す。これは特に、社会的に疎外されている人々や、マイノリティグループに対して顕著である。

例えば、性的嫌がらせである。過去には「セクシャルハラスメント(セクハラ)」という概念が広く認知されていなかったため、職場での不適切な行動や発言に苦しむ多くの女性が、自分たちの経験を適切に説明する手段を持たず、不満を表明できなかった。

言葉にならない違いが自分の中にあると、自分のパーソナリティと絡め付けて、自分のことを責めてしまう事例がよくある。言葉や定義など、自身を定義づけ、ボーダーを与える存在が、同じことに悩む仲間をつなげて、仲間のいる安心感を与える役割をもつ

つまり、ボーダーレスでなくてもいいのである。
自分が心地良いと思えるボーダーがあり、それを互いに淘汰しない形で、共存を許容できるようにする。そのうえで、ボーダーを敢えて飛び出す意味不明な勇気と好奇心を持つことと、ボーダーを超えて関わりあえる社会の土台を作ること、そして、誰もが多くの可能性や選択肢を自分で選び取れる権利を有していることが必要だと考える。

多様性社会の未来。カスタムネイチャーという新たな自然。

ここからは、どうやって個人が生きやすいような多様性の社会がこれからの社会で実現されるかについてテクノロジーの知見も含めた上でSF的に述べる。

まず、そもそもなぜ人間が排除されていると感じて、多様性というような言葉を必要としたのかについて考えてみる。

それは、おそらく人間が動物の中で唯一、高度な知能や心、認知世界と呼ばれるものを持っているからであると考えた。

人間以外の動物や植物を見てみるとその生活は割と画一的である。与えられた自然の中で、決まり切った行動をして一生を遂げる。環境と行動に多様性が著しく少ない。生まれて、成長して、子孫を残して、死んでいく。だいたいこのプロセスを経るだろう。

では、人間はどうか。抽象度をあげれば、他の動植物と同じだが、行動という側面において驚くほどの多様性がある。それは、個人が別々の認知機能を持って生きていて、別々の考えを持っているからである。しかし、生きている環境に関しては、すなわち自然は、動植物と同じである。

だから、辛いのかとも思う。
要するに、自身の空想世界や認知世界と自然との乖離があるのである。自分の空想している生きたい世界に対して、現実世界の自然の法則が制約をかけている。そこからはみ出してしまっていることを、自身の内面や状況を認知できる機能が人間にあるために、知覚してしまい、生きづらさにつながっている可能性がある。

「人間は自然の生態系からはみだしてしまった存在である」

という話をよく耳にするが、私からしたら、知能をもって生まれた時点で、ある時点から外れたのではなく、もともと自然から外れているという考えのほうがなんとなくしっくりくる。

個人の空想する理想の世界と現実世界の自然。これら2つを合わせたものが人間にとって本来の自然なのかもしれない

そう、もともと人間は画一的な環境(現実世界の自然)で生きているのではなく、個人の理想や空想の世界も含めて、個人個人に別々の自然を生きている存在であるべきなのではないかと考える。


さあ、テクノロジーの出番だ。
現状のテクノロジーの進化は明らかに、個人最適化された自然をつくりだす方向に進んでいる

まずは、AIである。最近リリースされた、Gpt-4oを使ってみたのだが、性能が上がりすぎていてぶったまげた。個人が望む創作物を、数秒で簡単に作り上げることができる。また、これは前からそうなのだが、自分に関する情報をたくさん食べさせると、自分が発言しそうなことを次々と述べるAIを作成することができる。つまり、AIを個人に合わせてカスタマイズできる。

そして、メタバースである。メタバースでは、自分の居心地のよいワールドを自分で組み立てることができる。まだまだ、技術的障壁は高いとはいえ、自分の想像する世界を組み立てるには十分な技術が発達している。

この2つの技術や関連する技術(ハプティクス技術など、五感と電子情報をつなぎ、デジタルの体験が現実世界にフィードバックされる技術)などがさらに発達し、合わせられたとき、物理的な制約はほとんど解き放たれ、好奇心の赴くままAIに指示をだして、自身が心地いいと思える自然を次から次へと出現させることができる。

すなわち、個人が個人にとって居心地のよい自然(ネイチャー)をカスタマイズし、自身は自身が心地良いと思う姿に変化し続ける「カスタムネイチャー」の世界が到来すると予測している

こう考えると、人間が本来の自然に近づき、本来の自然で生きるために、今まで文明を発展させてきたのではないかとも思える。

AIとweb3、ロボティクスなどのテクノロジーが圧倒的に進化したときに訪れる時代は、落合陽一さんが提唱した「デジタルネイチャー」のように計算機が自然の中に組み込まれていて、その自然の中で自分の心地よい自然を模索していく、カスタマイズの世紀である。

社会が集団の歯車をうまく回すためにルールや規則を決定している。カスタムネイチャーの世界では、個人が自分の好きなワールドで自分なりにルールや規則をつくり、それにしたがってプログラム的に個人の自由で動かすことができる。

人が必要だったら、どのように動く人が必要かをAIにプログラムさせて召喚することができる。ものが必要だったら、どのようなものが必要で、どうしたら手に入るかをAIに指示を出すことで出現することができ、自身でその世界の規則や法則を定義できる。

これはなんら自然とかわらない。自然は自然の法則で、プログラミングもプログラムの法則で成り立っている。そして、社会はマジョリティのつくったルールと規則で動く。それからずれてるから苦しい。じゃあ、ずれを埋めるのは現実的に不可能だから、個人の自然は個人が自由に設計した規則やルールに従えるようにすればいい。


人間はデジタル空間で生き続けるのか。
それでは、ディストピアではないか。

そういう意見も多いだろうし、私もそう思っていた。でも、テクノロジーの進化は嘆いたところで止まらない。
だからこそ、視点を切り替えてみることが重要だと思う。
このカスタムネイチャーでは、カスタムするのはあくまで個人だ。
リアルがいい人はそのままリアルを選択できる。デジタルがいいならデジタルでいい。リアルとデジタルには幅広いグラデーションがあり、その自分にあった自然の選択肢が多様にあることが本質的に重要なことである。

世の中の可能性や未来をひとつに残さず、多元的に考えるplurality(多元性)の未来が来るかもね。ということである。

過渡期の今の時代もそうだ。
AIにより、だんだんと既存のプラットフォームが提供するものを選ぶのではなく、自分自身で好きなものを作っていく時代となりつつある。

記事を自分の言葉で書きたいと思ったら書けばいい。大切なのはプロセスで、嫌だと思ったらAIにやらせればいい、楽しかったら自分でやればいい。その選択肢を増やしてくれたのがテクノロジー。そう考えれば、この未来も悪くはないだろう。

可能性に満ちた社会で、個人に必要なものを個人が選び取って作っていける社会。カスタムネイチャーがもたらす変化を私はゆったりと眺めて、自分がその瞬間瞬間でなりたい自分にぬるぬると変化できるような人生を歩んでいこうと思う。


今回もお読みいただきありがとうございました。
多様性やカスタムネイチャーにはあらゆる人と議論をしたいです。偉そうなことを言ってますが、私自身全然まだまだ多様性を認められるほどの器量ではありません。自戒の文章でもあります。
また、テキトーに仮説を立てることが好きな人間で、すでにこの概念が存在するかどうかについての検証等はほとんどしていません。もし、似たような概念を知っている人がいたらぜひ、教えていただけると幸いです。

さて、今回も、いつものごとく好きな言葉で擱筆する。今回の言葉は東京大学先端科学技術研究センター准教授の熊谷晋一郎先生が以下の動画内で放った言葉だ。(https://youtu.be/8J5TQBxaQaU?si=4MvbosffjKnLRbrJ

「自立というのは、依存の反対語どころか、依存先が多いことを意味している。」

以上(最終編集: 2024/05/19)

参考資料

↓多様性に関して考えるきっかけをくれた本

↓テクノロジーにおける多様化する未来について考察していたwebサイト

↓解釈的不正義をしったきっかけの動画

↓デジタルネイチャーについてわかりやすかった動画

↓Pluralityについて説明した記事


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