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後編

ついにこの日を迎える。

いやが応にも気持ちは高ぶる。

人生初の経験をするのだから当然か・・。

10月12日(月)の朝。

いつも通り朝は早めに起き、準備を整える。

電車の時間ももちろんチェック済み。

時間も余裕があったので

乗る予定より早めの電車に乗って現地最寄駅でどこかに入って

ちょうど読みたい本があったので

本でも読んで時間を潰そうと思い、早めに自転車を漕ぎ出す。

天気もまずまずの気持ちの良い朝の日常の光景だ。

朝に通勤時間帯に電車に乗るなんてかなり久しぶりだし、

そもそもアフターコロナ禍での電車移動事態が初めて。

自転車で駅に向かい、一時利用の駐輪場へ自転車を預ける。

「やっぱり朝の通勤時は人多いんだな・・」

狭いホームにはすで多くの人が電車を待っている。

僕はリュックを背負い

イヤホンで音楽を聴きながらマスクをして電車を待つ。

ふと何やら駅員のアナウンスの声の大きさが気になった。

何かイレギュラーなアナウンスをしているっぽい感じのトーンに気付き、

ふとイヤホンを外す。

するとまさかの情報が飛び込んでくる。

「えー、先ほど◯時頃に茅ヶ崎〜平塚間で人身事故が発生した模様で

東海道線全線で運転を見合わせております・・お客様には・・・」

#僕はやっぱり引きが強いらしい

まさかのドンピシャで電車が止まってしまっているようだ。

しかもまさに乗ろうとしていた路線だった。

ひとまず到着した小田急線に乗り込み、作戦を練る。

どうやら

ここから横浜・関内へは、他にも行き方がありそうだった。

路線乗り換えアプリで調べ直し、

「湘南台で地下鉄に乗り換えルート」でどうやらいけそうだとわかり、

胸をなでおろす。

「こうして日々電車通勤されている方にとってはこういうのは

日常茶飯事なんだろうな〜」とぼんやりと考える。

そして湘南台駅で乗り換え、地下鉄ブルーラインで関内駅を目指す。

このまま何もなければ余裕を持って現地に着きそうだった。

やれやれ・・

9時過ぎにようやく関内駅に到着。時間もバッチリだ。

どこかのお店に入るのはやめ、

地裁までの道をゆっくりと歩いてみることにする。

前と同じように右手にハマスタを見ながら公園を通り過ぎ、

銀杏並木の日本大通りをゆっくりと歩く。

どんな光景が目の前に広がるんだろう・・

何より今回の裁判員裁判を経験して、

僕自身が何を見て、何を感じ、何を考え、何を得るのか

そのことが一番興味深いところだったのだ。

やがて建物の目の前に立つ。

僕は深呼吸をする。

そして銀杏並木の向こう側にある横浜地裁へ入った。

_______________________________________________

マスクをして、

入館受付にていただいていた通行証を見せ、中に入る。

エレベーターで上へ上がる。集合場所である評議室に入る。

すでに裁判官チームの裁判員の7名は椅子に座って待機していた。

「おはようございます・・」と静かめのトーンで皆さんへ挨拶をして

手の消毒を済ませて着座した。

「さぁ、いよいよだな・・」と身を引き締める。

時計が9:30を5分喉過ぎたところで

今回の裁判官チームの担当裁判官3名のうち2名が評議室に入って来た。

緊張感が漂う室内。

チームリーダーである主席裁判官の方が

少し険しい表情で何かの書類を片手に持ちながら、着座せずに話し始めた。

「えー・・、おはようございます・・。裁判官の〇〇です。

本日はお集まりいただき・・えー・・、ありがとうございます・・」

様子がおかしい。明らかに歯切れが悪い。

何か言いづらそうなことを言わなきゃいけない雰囲気が漂っている。

「お集まり・・いただいて、大変、大変恐縮でございますが・・

えー・・、実は今回の裁判には私を含め3名の裁判官が

担当として、えー・・、ついておる訳でございますが・・

えー・・、今この場にそのうちの1名の〇〇裁判官がお、おりません。

実は〇〇裁判官より今朝方一報が入りまして、発熱を患っているも、模様でして、

37、4度のえー・・、熱があるとの報告がございまして・・。

このコロナ禍の状況を踏まえ、えー出廷することができないとの判断が

えー・・ございました。

えー、実はこの裁判というものは裁判官は必ず3名で

やらなければならない決まりが、えーございまして・・

また重ねてこのご時世で職員の縮小による人員不足もございまして、

代わりの裁判官も、えー・・いらっしゃらない状況でして・・

ですので・・えー皆様につきましては、この裁判日程のために

方々に調整していただいて、誠に、き、恐縮ではございますが・・

今回の裁判員裁判につきましては、中止ということになりまして・・」

不穏な空気が一気に広まる。

誰もが言葉を失っている・・。

「ん?どういうことだ?日程をずらすとかではなく、中止?」

みんなで顔を見合わせているが言葉が出ない・・

裁判官が続ける

「そういったことでございますので、今回は全てナシということになります」

衝撃の現実が胸を突き刺す。

時刻は9時50分。開始約20分での裁判中止宣告である。

つまりこういうことだ・・

・裁判官3名のうちの1名(仮にAさんとしよう)が数日前から異常が見られ、

 治まるかと思われたが、今朝の検温でもまだ37.4度あるため、

 このご時世だし、出所はさせられないとの判断に至った。

・Aさんの代わりがいれば良いのだが、常駐裁判官もギリギリの人数でやっていて

 代わりがいない状況である。

・また裁判の規則上、1名欠員の状況では裁判は履行できない。

・また時間をずらしたり、日にちをずらしたり・・ということは

 原則できないらしい。

・裁判員の面々も、全ての日程を各自調整したのちに全員参加できる状態で

 日程が決まっているので、変更は不可能とのこと。

・なので、今回の事件に関してのこの日程での裁判および裁判員の選出は

 全て中止、全て白紙ということになる。

よって、この裁判官チームはこれで解散となる。

ただし本日分の交通費と相当の日当は支給される。

ということなのだ。

これだけ何ヶ月も準備をして人員を選出して日程も調整して

こうして集まったプロジェクトの初日の開始20分での中止・解散宣言。

民間企業の案件であったら絶対にありえないことだし

その会社等の信用や信頼の失墜にもなりかねない、

とんでもないことだと僕は思った。

「時間返せよ・・」と。

ただ、このコロナ禍の状況を鑑みても、

今回のことは誰一人も悪くないし、

誰の責任でもない、

誰かが被害を受けてもいなければ、

何も変わらないということに気づく。

つまり、

裁判所が無作為に選んでたまたま集まって、

さらに抽選してここも無作為にたまたま裁判員に選ばれて

でも「出ます」と決めたのは最終的に自分なわけで、

ここに関しては誰の責任でもない訳だ。

だから何か迷惑をかけた、かけられたということも何もないのだ。

というこの不思議な状況が伝わるであろうか・・

つまりここにはヒューマンエラーは何一つなくて

あるとすればシステムエラーかな・・といったところ。

ただ僕が今回思ったことは一つで

なぜこうなることが想像できなかったのか?

当日にやむを得ずのイレギュラーというものは必ずあるわけで

(特にこのコロナ禍においてはなおさら)

そのための補充人員をなぜ確保していなかったのか?」

これに尽きる。

代わりを用意しておけばいいだけのことだ。

だって裁判員には二人も補充人員を当てているんだから。

裁判官のその報告がされた時のその部屋の中の空気たるや

「私たちは一体何しにここに来たのかしら?」と。

あれはなんだか居た堪れなかったな・・

その後事務員さんから事務的な手続きが進められ、

僕ら8名の裁判員はおよそ開始1時間でその役割を終え、

解任されたのであった。

「何も見ず

 何も感じず

 何も考えず

 何も得ず」

各々無言のエレベーターで下に降り、

それぞれ軽く会釈をしながら

またそれぞれの日常へ戻っていく。

もう二度と会うこともないだろう・・

さようならの言葉もなく。

僕はその日、

この銀杏並木の向こう側に

行くことはなかったのだ。

<終わり>

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