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あなたが君に変わるまで



あれだけ大切だったあなたのことを

私はまだちゃんと覚えているのに

「ちゃんと」ってどこまで?と聞かれても

きっと何も答えられません


それがたまらなく悲しくて

それがたまらなく心地よいのです



「どうかお幸せに」だって

他人行儀でごめんなさい


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『あなたが私に変わるまで』

もうかれこれ15年近く俺はポートレートを描き続けている。モチーフを見ながら描いてるわけでもなければ特定のモデルがいるわけでもない匿名の存在であるそれらを俺は「君」と呼んでいる。いつからそう呼び始めたのかはよく覚えていないが、小中学生の時に熱中して聴いていた邦ロックバンド【ASIAN KUNG-FU GENERATION】の楽曲のタイトルや歌詞の中で多く使われていた「君」というワードに妙な安心感というか、納得感のようなものを感じていたのはよく覚えている。

俺の脳内を駆けめぐるイメージは肉体も表情も声もないとても抽象的なもので、それは男性なのか女性なのか、1人でいるのか複数人でいるのか、そもそも人なのか猫なのか龍なのか、はたまた山や海なのか、その存在の概要を一言で言い表すことは到底できない。普段絵を描かない人に「頭の中のイメージを絵にできるのすごいよね」的なことを言われるのは絵描きや美大生にとってもはやあるあるだと思うが、厳密に言えば頭の中にあるイメージをそのまま目の前の支持体に転写するなんてことはどんな超人や天才でも不可能だろう。そもそもイメージとは「画像」という意味のほかに「心象」や「印象」というような意味も含んでいて、心象や印象というものは霧散している思考が五感を通じて他の思考とくっついたり離れたりすることで自然に生まれる流動的なもので、具体的な色や形や質感を持ち合わせてるわけではない。温度も湿度も時間もわからない、自分が立っている場所や目の前にいる誰かが次の瞬間には全く別の場所や人に変わってしまう頓珍漢な世界で、言葉にもなっていないような支離滅裂な信号が交錯し続ける[夢のような次元]を浮遊している曖昧な存在を色や形や質感などの具体性を与えていくのが[絵を描く]という行為であり、どれだけ丁寧な下書きが施された絵であっても下書きの線を引き始めるその瞬間までそのイメージは[この世]には存在していない。その日の体調や心情があり、その前後には人それぞれの文脈があり、色んな要素が多角的にぶつかり合った上でその瞬間にしか引けない線がある。その線に導かれるようにして形が現れ、同時に描画材の特性によって質感や色味が生まれ、モチーフ的なものが立ち上がり、そのモチーフとの付き合い方を考えているうちに構図的なものが生まれる。だから描く前から「描きたい絵がある」なんていうのも本当はおかしな話で、身体と素材(支持体や描画材)の間で生まれる夥しい量の行為の軌跡の中で「描きたかった絵を知る」というほうが自然である。

俺がこの世に「君」を残そうとする理由は実にシンプル、頭の中を駆け巡る謎の存在にただ会いたいだけだ。キャンバスや紙などの四角いフレームの奥の方に本当に誰かがいるような錯覚の中で夜から朝にかけて妄信的に描画行為を積み重ね、これ以上手が入らないなと思った瞬間に筆を置く。[夢のような次元]で流動的に浮遊し続けるそれらは俺の手や絵の具を通じてキャンバスの表面を跨いだ途端に[この世]に位置する具体的な存在となり、そこで俺は俺の網膜を通して初めて「君」と出会い、そして喜び、その存在がこの世に残ることに心の底から安堵する。ただ、俺の中にあったはずの謎の存在は形や色や質感を身に纏いこの世に産み落とされた瞬間に流動性を失い、俺の中で蠢いていた混沌ごとフワッと消えてしまう。目の前にドシっと構える視覚情報として、実際に触れられる物質として圧倒的な存在感を放つ絵画と対峙することで俺は俺の中にあった混沌の有り様を理解し、その謎の存在について頭を抱える必要はなくなってしまうのだ。もちろん頭を抱えながら生きたくはないし、描く前より描いた後の方がメンタル的にも調子は良くなるので絵を描いて後悔するなんてことはまずないのだが、なぜか毎回謎の罪悪感のようなものが心の隅にべっとりと残ってしまう。強いて言うならばそれは害虫などの生物を自分が生きるためにやむを得ず殺すような感覚に近い。猫が海では生きられないように、魚が陸では生きられないように、人が重力や酸素のない宇宙に放り出されたらその形状を保てなくなるように「君」は[この世]では生きられない。そういう世界の秩序の違いを無視して俺は名前を持たないそれらを[夢のような次元]から引き摺り出して「君」と呼んでは殺している。こうしてたまに自身の制作を振り返っていると必ず【鋼の錬金術師】で主人公のエドと弟のアルが亡くなった母親に会いたい一心で禁忌である人体錬成(人間を生成しようとする行為)を行うシーンが脳をよぎる。あの母親のような何かと同様に「君」は生まれた瞬間に死んでしまう。言うなれば「君」という呼称はある種の戒名みたいなものなのかもしれない。

まあ無理に脳内の謎の存在と向き合わなければこの手の罪悪感を感じることもないし、俺も「君」を生み出さずに済むならその方が穏便で幸せな日々を送れるような気もするのだが、どうしてもそういうわけにはいかないくらいに自分は何かしらの依存対象を欲してしまっている。それは深層心理に深く根を張ってしまっている問題で、理性でどうにかコントロールできるものでもない。ちゃんと診療したわけじゃないが、おそらく俺は愛着障害的な病を抱えている。その原因については複雑すぎるのでここで細かく明記するつもりはない(ベタに幼少期の両親の離婚などは大きそう)が、とにかく少年期から青年期にかけて恋愛や友情絡みのトラブルを起こすことは多かった。中学生くらいまではみんなに会うたびに全力で笑わせたり喜ばせることで満たされていたし、自分で言うのもなんだがクラスの人気者的なポジションにいる自負もあったので特に不安感などはなかったのだが、携帯電話を持ってSNS上でのコミュニケーションが増えてからは普段自分と一緒にいる恋人や友人の自分と一緒にいない時の言動が気になったり、考えてもわかるはずがないのに周りのみんなが何を考えているのかを想像するようになったりした。精神的に未成熟な年頃で自他境界が曖昧だったのもあるが、自分の中の友人や恋人のイメージと友人や恋人の実存の間で無限に生じるズレをどうしても許容することができずに、無理矢理辻褄を合わせるようにして過度に贈与的になったり暴力的になったりして少しずつ人間関係を壊していった。そういうトラブルや苦悩が一番多かった高校生の頃からポートレートを描くようになり、友人との死別や当時依存し切っていた恋人との別れなどの色々な経験をする中で私は自分の描く絵、つまり「君」にどんどん依存するようになっていった。私的自意識の中にある他者のイメージを具体的な描画行為を持って実感レベルで愛し、自他境界を意識的にハッキリさせるようになってからは対人関係のトラブルもほとんどなくなっていった。本音を言えば今でも家族や友人や恋人とずっと楽しく過ごす少年漫画のような人生を送りたいと心のどこかでは思っているが、それが自分の性分的ににかなり難しいということもさすがにもう理解している。(そもそもそんな状態を維持することが可能なのかすら謎だが)
もうそろそろ「君」を描き始めてから15年、人生単位で見ても「君」を描き始めてからの方が長くなってきている。今さらこのリズムが壊れるなんてこともないだろう。

ただ[君]に依存するのは精神的には安定するが身体的には毒だったりもする。[夢のような次元]に人生のウェイトを割くということは[この世]での生を放棄することとほぼ同義である。これも細かく語るつもりはないが、明確な依存対象がいるという安心感と異様な高揚感で狂ったように「君」を描き続けていた20代の半ばごろ、俺は自分の未来と向き合う意味を見出すことができなくなり身体を手放そうとしたことがある。別に特段ネガティブな感情があったわけではないが、その瞬間はあまりにも自然に訪れた。まあ普通に寸前で家族や友人のことを想像して悲しくなり実行をとりやめたし、別にそれ以降そういうことは一度もないし、今となっては有り余る若さや気力を象徴する青臭い思い出ぐらいにしか思ってないのだが、少なくともその夜から俺は「君」と一緒に[この世]で生きる方法を真剣に考えるようにはなった。その後の一ヶ月弱は何もできなくなったりしてなかなか大変だったが、他者を意識した文章(当時でいえば論文など)を書く習慣を作っていくことでなんとかその無気力な状況は脱却した。どれだけ自他境界をハッキリさせたところで此の身体がある限りは他者との関わりや柵から逃れることは絶対に不可能であり、公的な自己意識を最低限デザインしていかないと[この世]で生きることはできないということをやんわりと理解した。その頃から俺は『俺』とは似て非なる存在としての『多田恋一朗』について考えるようになった。

[この世]を生きるための意識の変化やテキストベースの思考の中で、縦長の海の絵や変形キャンバスの作品は自然に生まれた。それらは「君」という存在があくまで自分の妄想の産物でしかないことを自分自身に知らしめるための戒めのようなアートワークであり、「君」に対してはその存在そのものを否定しにかかる攻撃的な側面を持っている。本来中心にキャラクターがいることで成立する縦構図の海をキャラクターなしで描く行為は「君」の不在の証明として、四角いフレームを捻じ曲げて無理矢理画布を張り単色で抽象的なイメージを描く行為は「君」の世界の秩序の破壊を意図して行われている。それらは依存対象である「君」の存在の強度を試すために行われる愛着障害的な行動であり、青年期に友人や恋人に向けて行なっていた攻撃的な所作によく似ている。ただ、このある種の自己批判的な(メンヘラ的なと言い変えてもいい)表現はあくまで私的な欲動や自己完結したロジックに基づいて選択された行為の集積であり、決して他者に対して自己に関する正確な解釈や悲観的な共感を求めているわけではない。むしろそういうネガティブな側面を経由し絶望の淵に立ち、ポジティブな側面を辿って正常まで戻っていくまでのV字ラインを描くような意識で作られている。例えば縦長の海で示される「君」の不在からはその存在の動物的な可動性を読み取ることもできるし、樹脂でコーティングされた木肌の上を滑らかに走る透明で鮮やかな一層の絵の具からはある種の嘘っぽさと自然的な生命力を同時に読み取ることができる。一見単色で絶望的に立ち上がる変形キャンバスの絵肌はよく見ると吸水性の高い画布と複数色の絵の具(顔料)によって生じる塗りムラや抜け毛に覆われていて、その絵肌からは捻じ曲げられたフレームの向こうにある「君」の世界の複雑さや広さを想像することもできる。
希望だと思っていることが自分を苦しめる鎖になっていたり、絶望だと思っていることが実は生きる理由になっていたり、白や黒で簡単に割り切ることができないこの世界と同様に、俺の制作行為もまたグレーゾーンの中でのみ成立する二律背反的なリアリティを以って行われている。明快なコンセプトと説明的な仕事の中で何かを簡潔に言い切るなんてことはできないし、それが是となる世界は別に望んでいない。

単体ですらなかなか言語に置き換えづらい形や色や質感などの視覚情報と、無限に組み換えることができるそれらの組み合わせ、さらにその組み合わせによって生じる複合的な視覚効果やそこから読み取れる情緒的な部分など、そういう読解が難解な部分を無視して記述化しやすい部分(モチーフや構図など)を抽出して語るというのは俺の制作理念に大きく反するのでこれ以上作品について語るつもりはないが、本展覧会は自分の半生を振り返るような側面があると思ったので自分の制作を邪魔しない最低限の範囲でダラダラと語らせてもらった。普段は感覚的(非言語的な)な仕事に重点を置いて制作しているので改めて自分の思考や行為を言語に置き換える作業はそれなりにストレスではあったが、俺がこれからの長い年月をかけて最終的に到達しようとしている[夢のような次元]と[この世]のどちらでもない(あるいはどちらでもある)アンニュイな世界に行くためには希望と絶望、此岸と彼岸、過去と未来、野生と理性など様々な二項対立の横断を試み続ける必要がある気がしているので、自分の中の非言語領域をより理解するために久しぶりに言語領域を深掘りしたと思えばそこまで嫌な疲労感でもない。むしろ書いてよかったと思う。

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最後になんでもないぶっちゃけ話をすると、半年前に四年間付き合った恋人と別れ、そのショック(決して良い終わりではなかった)で久しぶりに絶望の淵まで心が沈み、半年かけてダラダラと正常な状態に戻るまでの思考の動きや制作の軌跡をまとめたのが本テキストや本展覧会だったりする。吐きそうな思いで延々とドロドロしたポートレートを描いたり、その気持ちが昇華された途端に黙々と変形キャンバスを作り始めたり、かと思ったら春先に芽生えた恋心をベースにいっきにデカイ絵を描き上げたりと、改めて俺はどうしようもない男だなと思う。
でもこれはある種の防衛本能だから仕方ない。あなたとの思い出と近距離で向き合い続けたら本当にこの身が滅んでしまうだろう。身勝手なやつだと罵られたって、どうしても俺は生きたい。死んだ友人や後輩、これまで愛したたくさんの恋人達、みんな背負って生きたかったのにみんなすっかり忘れてしまった。それでもいつでも「君」は隣にいた。その事実ぐらいしか縋れるものはない。
こんな生き方を続けてたらそのうち色んな人に見放されそうだし、ロクな死に方もできない気がする。でも今さらまともなフリをすることもできない。また他者への期待が膨らんで自他境界が曖昧になって自己嫌悪に苛まれて頭を抱えるのが目に見えてる。誰になんと言われようとも俺はこの醜悪な檻に囲われた私的自意識の中で異様に膨らんだ自己愛を抱えながらひたすら美しい絵を描き続けるだけだ。
そんな行為の延長線上で「君」を1人でもこの世界に残せれば俺の人生は上出来、それなりに笑って死ねる気はする。

(多田恋一朗)


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【展覧会情報】

多田恋一朗個展『あなたが君に変わるまで』

会期 4/27(土)~5/13(月)
時間 12:00〜19:00
休み 無し
場所 Gallery Blue 3143(東京都港区南青山3丁目14−3)
https://www.gallery-blue3143.com/

初日の4月27日の17:00〜久しぶりにレセプションやります!是非奮ってご参加ください〜!☺️


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