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「中高生と考える、立ち位置、立場、そして自立」

 時折、誰かと話しているときにふと気になることがあるのですが、それはその人の発言や振る舞いから、その人の立ち位置、立場を感じるときです。そもそもそれらは何でしょうか。学生たちと一緒に考えてみました。先ずはその人が今、置かれている環境によって決まってくるもの。学生という立ち位置、立場です。そして学生でありながら、家に帰ったら兄弟、ひとりっ子という立場もあります。ぼくはまだ子どもです、と発言した生徒。どこまでが子どもで、どこからが大人なのかは曖昧ですね。法律上は十八歳ということになりましたが。

 さて、さらに発表してもらうと、〜市民、〜県民、日本国民というものも自ずと出てきました。どんな地域、国に住んでいるかによって決まるもの。移民や国籍にまつわる事柄は、とてもむつかしい問題です。変わったところだと、オタクや陰キャ、占い師、ユーチューバーなど現代人っぽい提案もありました。ユーチューバー以外は昔からありますね、きっと。占い師やユーチューバーは仕事として成り立っている方達も、いらっしゃいますので、仕事というカテゴリーも立場という言葉ではよく耳にすることは、誰でもご存じの通り。社長、部長、課長、社員、非正規労働者など。さらには首相、官僚、公務員もありますね。さらに生徒たちは、部活動での部員、スポーツでのポジション、先輩後輩、善悪、社畜、被害者、加害者、LGBTQなど様々発表してくれました。

 ここにつらつらと文章化していますが、生徒の皆さんは、すぐ発表してくれる生徒達とそうでない場合がありますので、こちらも砕けた身振り手振り、語りかけの工夫はご想像の通り。本当に発表しないクラスもあるので、わたしの能力不足を痛感し、毎度四苦八苦です。

 そう、四苦。生老病死。結局のところそうした話になっていきますね。苦とはサンスクリット語のduhkha(ドウクハ)に由来し、「ドウクハ」の「ドウ」は「悪い」、「クハ」は「運命」「状態」。自分ではどうにもならないこと、逼悩(ひつのう)と定義されるそうです。

 結論を言えば、人類は二足歩行で立ってはみたものの、自立はおろか、どんな立ち位置、立場に立っているか自覚しているようで、していない。そこが曖昧、不明瞭なまま、両手が自由になったものだから文明という巨大な風船を作り、両手でふわふわ遊んでいたら、気づけば足元には唯ならぬ荒野が広がるばかりということでしょうか。風船は空気でなくて、二十世紀以降は化石燃料で膨らませている。希望を捨てずに言うなれば、赤子が初めて、立ち上がった瞬間の感覚、感動を基軸に、七転び八起きでいくしかないということですね。慌てず焦らず参りましょう。

 この問題を考えていくに連れ、それは自立について、ひいては共同体のことでもあると。意識と無意識の置き所が立ち位置かもしれません。何に重きを置いているか。

 さて、始めましょう。

 会社という枠組みに対して社員、日本国に対しての国民、親と子ども、対等と言いながらも、どこか立ち位置が上のもの、下のものがあるように感じてしまいますよね。学校のスクールカーストなどという言葉が跋扈する有り様です。無闇矢鱈にネーミングすれば良いというものではないです。空気のように浸透するそうした言葉には、本当に気をつけなければなりません。

 ここでもわたしの目標でもある、無意識に身についてしまった言葉を精査、刷新すること。今一度、身体を通った言葉、言霊にしたいという想いです。霊はモノでもりますし、自然物からきています。コトを告げる空気の波、流れですね。それは自然なくして成り立ちません。自然は途方もない時空間を経て、地球の身体としてここにあります。有ることが難しい。

 福沢諭吉「学問のすすめ」の冒頭ではないですが、そうした暗黙の階級のようなものが、人間社会、社会システムにはあるようにヒトはどうしてと感じてしまう。それに安穏とするもの、反発するものが出てくる。暗黙の階級という謎を前に、疑問を持ち始める人達が、世界中に一部いるわけです。釈迦が門を出て、世の中の人たちをみて、疑問をもって気がついたのが生老病死ですしね。

 さて、美術の授業ということもあり、アーティスト達もそういう人達であると言えます。食、農作物と違って芸術作品はすぐに役に立つわけではありませんが、先程のような疑問を受け流さずに、考え始めてしまう、そうした姿勢がアーティストの基盤ですし、発端です。疑問を持たない限り、表現者になろうとは思いませんからね。疑問を持ちつつ、もう気がついたら、手を動かし、作品を制作している人達ともいえます。

 コロナ禍で、突如アナウンスされた不要不急。あらゆるお祭りや文化的行事、イベント、ライブ、芸術公演が軒並み中止。芸術は不要不急と言わんばかりに、世相はガラリと変わりました。しかし、すぐにネット上では堰を切ったように、音楽家達はオンラインセッションを始め、身体表現者たちも、ライブ配信をしたりと、世界中でそうしたうねりが起こりました。また仕事上でも、リモートワークが始まり、自宅にいて仕事をする人達もあらわれました。

 生活とは?生きていることとは何なのか?不要なモノとは?急いででもやることとは?根本的な問題を考える良い機会になったことは言うまでもありません。

 会社という枠組みに対して社員なら、アーティストは何に対してアーティストなのでしょうか。既存の枠組みに対してでしょうか。もちろん、それも大いにありますね。やはり根本をただしていけば、生きていることとは何なのかということに対してアーティストなのだと思います。ドイツのアーティスト、ヨーゼフ・ボイスは「人は皆アーティストだ」という言葉があります。ヒトの立ち位置をボイスなりに定義したともいえます。ヒトは皆、生きていることに対して人間であり、そうあるとき皆アーティストなのだということかもしれません。メメント・ヴィータ(生を想え)ということにもなりましょう。よく聞くメメント・モリは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」ということ。アート作品のテーマとしてもよく扱う概念ですね。

 あらゆることに疑問をもち、自ら考え抜き、行為、行動、表現に高め作品化する。それをこの社会へ、また問うていく。それは昔からあって旅芸人や遊行者、また「傾く(かぶく)」人達のことでもあります。既存の社会構造に首をかしげ、奇抜な身なりで、派手な身振り手振りで表現する。傾くは歌舞伎の元と言われていますが、斜めから社会を凝視(みつ)め、本質を炙り出し、表出、表現しようと試行錯誤する人達。荒事の世界。淡々と繰り返す生活に和があり、祭りごとに荒ぶる躍動がある。生きることへの感謝と同時に、これが未来永劫続くようにと祈念する。


 先程の、ボイスの言葉の前に、アーティストでなくとも、広義な意味で私たちは皆、表現者なのですよね。何かを話し、書き、伝える。料理を作り、振る舞い、誰かにお便りを出す。表出し続けるのが私たち人間です。

 立ち位置、立場の話に戻ると、そもそも、私たちは皆、大元でいえば生命であり、そして動物です。その中で哺乳類、ホモ・サピエンス、人間という立ち位置です。さらにどこかの国、地域に属する、在住する人であり、どこかの街、市に住む私です。仕事がある人ない人、社長、社員、総理大臣、議員、学生、老人、病人、身体が不自由な人、複雑な性差をもつ人、また皆んな、元は子どもで赤ちゃんでもありました。

 そしてこの惑星、地球という環境に立っています。

 これらあらゆる立場に立って、フラットに物事を考えられる人が自立した人なのではないかと思ったのです。特にリーダーといわれる人たちは、よりこうした考え方が重要になってくるのは誰も疑いようのないことです。しかし、ひとりひとりがこうしたあらゆる立場に立って考え行動出来るのかと問うと、かなり難題なようにも感じます。そこでふと思い付く言葉として、しなやかさとミメーシスです。臨機応変でも良いのですが。


続きはまた今度。

有難うございました。
感代謝。

(注:二〇二二年十月十三日に書いたものをアップロードしました。去年の今頃はこんなことを考えてましたね、これからも考え続けるたいせつなテーマだと感じています。)

恒星
a ri A Ru Creationz
星座を歩くアートクラス

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